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くもりのち、はれ-外伝-  作者: 夏みかん
外伝 2
4/12

動き出した時間 後編

いつもの場所にバイクを止めてヘルメットを脱いでいるのは周人だ。最近は残業もなく、毎日規則正しく自宅であるアパートに帰ってきていた。昼間は仕事よりもアリスに追われる毎日を送っているせいか、忙しい時より気疲れが取れない状態にある。しかしそれも徐々に慣れつつある自分を嫌に感じながら、しっかりとバイクをチェーンでくくりつけた周人は背後に迫った靴音にゆっくりと振り返った。


「ミスター・シュート・キド、だね?」


グレーに近い白髪をオールバックにしたスーツ姿の男はアメリカ人であると誰の目にも明白だ。だが、信じられないことに今話した言葉は日本語である。おおよそアメリカ人が話しているとは思えないほどに流暢なその日本語に思わず呆然としてしまった周人だが、立ち上がって真正面に男をとらえて軽い会釈をした。


「はぁ、そうですけど」


日本語には日本語が礼儀とばかりにそう答える。


「私はエリック・ノーティラス。クロスフォード社の常務をしている老人だよ」


老人というにはまだ若い容姿をしているエリックは実に紳士的な態度で会釈を返す。周人はクロスフォードの名に少し戸惑いつつも、その目的が何かを漠然とながら理解し始めていた。そしてそのままエリックの後方にたたずんでいるショートカットのブロンドも鮮やかな目も覚めるような美女へと目をやる。ピリピリした雰囲気同様、鋭い目つきで周人を威嚇するかのように見つめているその美女は会釈をすることもなく微動だにしないで立っているのみだ。


「ここではなんだ、少しそこまでいいかな?」

「ええ」


エリックの申し出に答えた周人は歩き始めたエリックの背中についていった。その周人の背後3メートルの距離を保ちながら鋭い視線と殺気を突き刺すようにして女性がピッタリとつけてきている。やがてエリックは開けた場所へと出ると周人の方へと向き直った。そこは畑に近い場所なせいか、人通りも車の通りもないに等しいこの場所に来た理由は誰にでもすぐ理解できる。それに女性が放つ殺気は相手を逃さぬ緊張感をじわじわと与えてきている。これで理由がわからぬ方がバカだ。


「さて、では・・・」


と前置きしてからエリックは用件を話はじめた。


「わが社の令嬢アリス様がお前さんにご執心なのは知っている。君にその気が無いこともまた承知済みだ。が、お嬢様が日本人と仲良くされるのは好ましくない・・・と思う人間もいるのだよ」

「で、オレに消えてくれと」

「フム、そういうことだシュート・キド」


さっきまでの柔らかい雰囲気が消えているのはエリックか、はたまた周人の方か。鋭い目つきに変わった周人にエリックの中の何かが警鐘を鳴らしている。


「ほう、これはまた・・・」


その華奢に見える体から殺気がじわじわと流れ出しているのがわかると同時に、エリックの腕に鳥肌が立ち始めた。


「アリスに迷惑してるのはオレの方だってのに・・・まぁオレが日本人じゃなきゃここまでされなかったんだろうけどな」


落ち着いた口調とは裏腹に殺気が怒気に、そして鬼気に変化していく。


「ミスター、私が行きます」


さっきまでの日本語の会話に唐突に英語が混ざる。ショートカットの美女はパンプスを脱ぐとスカートのスリットをさらに広げるかのように手で強引に裂いて足の可動範囲を広めるようにしてみせた。


「ディアナ・・・気をつけなさい。この男は強い」


エリックが英語でそう言った矢先、ディアナは地を蹴っていた。風のごとき動きで間合いを詰め、そのまま拳を突き出す。女性とは思えぬその動き、鋭さは武闘家としてはトップレベルだろう。だが周人は既に後方へと飛び退いており、その拳は空しく宙を裂いたのみだった。


「空手か」


つぶやいた周人がにんまりと笑う。打撃戦ができる間合いになった2人に言い知れない緊張感が増した。その瞬間、周人の右足が跳ね上がる。その回し蹴りがディアナの側頭部を捉えるまさにその刹那、周人は自身の腹部に強烈な打撃を受けて吹き飛んでいた。いや、正確に言えば衝撃を逃がすために打撃にあわせて自ら飛んだのだ。間髪入れずディアナの蹴りが炸裂する。それは空手の回し蹴りではなく、まっすぐ直線的に放たれたものだった。


「派手で威力もある回し蹴りだが、近代格闘技においては無駄な動きに他ならない。最短、最速、最小限の動きこそが最もその効果を出すものだよ」


余裕の表情でそうつぶやくエリックは直線的な動きで周人を追い詰める様子を見ていたのだが、ある変化に気づいて表情を曇らせた。


「なんだ?」


全く衰えない殺気はますます大きく膨れ上がり、攻めているはずのディアナが無意識的に後ろに下がっているのだ。攻撃している側が後ろへ下がるなどあるのだろうか。現に周人は防戦一方で何もできていない状態なのにだ。


「キエェェェイ!」


甲高い気合の声が夕焼けの空にこだまする。軸となっている左足が地面にめり込み、今まで一番速く、そして一番威力の高い直線的な蹴りが周人の腹部めがけて放たれる。スカートから覗く下着が見えないほどのスピードの蹴りが夕闇に染まりつつある朱色の世界に舞う。ディアナがゆるぎない勝利を確信するほどのその蹴りはスピード、タイミング、キレとも完璧なものだった。だが、それは相手に当たってこそ完璧と言えよう。信じられないことに周人はそれをギリギリのタイミングでかわすと目にも留まらぬ速さで回し蹴りを炸裂させる。その蹴りは直線的なディアナの蹴りのスピードを遥かに凌駕し、凄まじい衝撃をもってディアナの左肩を直撃した。目で追うことすら不可能に近い蹴りなどいまだかつて見たことも経験したことも無い。肩から全身に衝撃が走り、バランスが崩れる。その瞬間を逃さず、周人はディアナの左肘の関節を極めた。あと数ミリ反らせば確実に肘はありえない方向へと曲がるだろう。ディアナは脂汗を流しつつ完璧に肘を極めている周人を恐怖に引きつった目で見ることしかできなかった。


「そこまでにしてくれるか?すまんが女性なんだ」


先に襲ってきておいて言う台詞ではないのだが、周人は極めていた腕を外すとエリックの前に立った。空手七段のエリックに師事し、全米でも3位の実力を持つ自分があっけなく間接を極められた屈辱感よりも恐怖感の方が勝っていることが信じられないディアナは情けなくその場にヘナヘナと崩れ落ちた。


「日本には最強無敵の『モンスター』がいると聞いているが、君のことか?」


ここで初めて英語を使ったエリックに対し、周人は殺気をそのままに小さく口の端を吊り上げた。


「残念ながら違うよ」


その『モンスター』が誰を指しているかはすぐにわかったが、周人はそうとだけ答えたのみでそれ以上何も言わなかった。


「よかろう、では殺す気でいく」


ブランドの高級スーツの上着が土にまみれることなど構わず、エリックは上着を地面に置いてネクタイも取って靴を脱いだ。靴下も脱ぐまでじっと待っている周人は構えすら取らずにたたずんでいるのだが、その殺気は全く衰えることはなかった。


「なかなかの紳士だね、君は」

「そういうのを負けた言い訳にされたくないだけさ」


今度は日本語でそう言いあう2人にかすかな笑みが浮かんだ。だがそれも一瞬のことで2人の間に気が渦巻く。じわじわと距離を詰めるエリックが自分の蹴りの間合いに入った。アメリカ人のエリックの方が背が高く、足も長い。よってリーチはエリックの方が上だ。そしてそのリーチを活かしてエリックの蹴りが舞う。ディアナと同じ直線的な蹴りがみぞおちを狙って放たれた。ディアナのそれよりも速く、威力もけた違いなその蹴りだが、やはり当たることは無かった。目を見張るエリックのその眼前には信じられないことに周人の体があった。蹴りを放った直後のせいか、硬直している体に背中を密着させた周人は右手で伸びた右足を、左手でエリックの首元を掴むとのそのまま自分も宙に舞う奇妙な背負い投げを放っていた。風が舞い、エリックの体が軽々と宙に舞う。一瞬赤く染まる空が見えたと思った刹那、背中に凄まじい衝撃を受けて呼吸が停止した。恐るべき速度で放たれたその投げに受身すら取れずに地面に激突したエリックは息苦しさと衝撃に悶絶しながらも涙目で周人の姿を追った。周人はエリックの頭の方に立ち、すまし顔で自分を見下ろしている。


「彼女がオレの中で寝ていたものを起こしてくれてなかったら、オレがこうして寝てたさ」


息ができないエリックは答えるべき言葉を発せずに周人を見上げるのが精一杯だ。周人は心配そうにエリックに寄り添うディアナを一瞥してから2人に背を向けた。


「アリスにはちょっかいをかけないし、あの子をなんとも思っていない。もしオレを遠ざけたいのなら、日本に帰すようウチの上司にでも言ってくれ。そしたら喜んで帰るから」


周人はそう言い残すとさっさと行ってしまった。5分後、ようやく起き上がれるまでに回復したエリックは心配そうなディアナに優しく微笑んでからあぐらをかいて地面の上に座り込んだ。白いシャツは土にまみれ、崩れたオールバックの前髪がざんばらに垂れてしまっている。


「とんでもない男だな」


苦笑してディアナを見つめるが、ディアナの表情は曇ったままだ。自分が負けたことも信じられないが、エリックまでもが秒殺されたことが信じられない。全米の空手チャンピオンの中でも歴代最強といわれたエリックがわずか2秒足らずでKOされたのだ、そのショックはかなり大きい。だが倒された当のエリックは実に晴れやかな表情でディアナを見つめ、微笑んでいる。


「『モンスター』を倒した『魔獣』というのは、意外に彼なのかもしれんな」


噂に聞く『モンスター』を倒した『魔獣』には左頬に傷がある、そう聞いたことがあるせいか、小さくそうつぶやいて自嘲的な笑みを漏らしたエリックはディアナに支えられるようにしてゆっくりと立ち上がると、薄闇に包まれつつある空を見上げてその笑みをより強くするのだった。


エリックとディアナの襲撃ともいうべき来訪、その翌日からアリスはパッタリと姿を現さなくなった。おそらく自分の襲撃に失敗したことを踏まえ、周人を遠ざけるよりもアリスの方を引き離す方を選択したのだと判断できた。それから半月あまり、全く姿を見せなくなったアリスを残念に思う者もいる中、これ幸いとモーションをかけてきたマリーアを軽くいなしながら周人は自分の仕事を確実にこなしていった。そして新型エンジンの開発も一段落したある日、ニューヨーク支社に呼ばれて出張することになった周人は飛行機の中にいた。アメリカに来てからアリゾナを基点にフランスやドイツなど、ヨーロッパをメインとして出張をしてきた周人だったが、ニューヨークはわずかに一度しか行ったことが無かった。その際には同行者が多数いたのだが、今回はニューヨーク支部の部長からのご指名であり完全に一人旅だ。だが一人旅に別段これといった不安があるでもなく、小旅行のつもりでニューヨークへとやってきた周人は田舎にあるアリゾナ工場とは対極の場所であるマンハッタンにため息をついた。見上げる空を覆うほどの超高層ビルが立ち並ぶ人工の埋め立て地であるこの大都会は東京すら足下に及ばないスケールもってたたずんでいる。渋滞が多いタクシーには乗らずに遅れることが当たり前の地下鉄に乗り込んで支社を目指した。ウォール街の外れに位置しているカムイのニューヨーク支社は43階建てのビルの35階より上に場所を置いていた。まるで高級ホテルのような巨大で豪勢なロビーを抜けて4機のエレベーターが稼動しているホールに来た周人はやや緊張した面持ちでネクタイを絞めながら受付のある35階を目指すことにしていた。


「シュート・キド」


流暢な日本語がデジタル表示された現在いる階を示すエレベーターの位置を見ていた視線を背後へと向けさせた。聞き覚えのあるその声はやはり夕焼けの野原で戦ったあのエリック・ノーティラスだ。


「エリックさん」

「予定より少し遅いが、まぁ時間どおりと言えるかな」


この間とはうって変わった人懐っこい笑顔を見せるエリックは紳士的な雰囲気を漂わせていた。


「時間どおりって・・・じゃぁ僕を呼んだのは」

「私だ」


そうにこやかに言うとやってきたエレベーターに乗るよううながし、先に乗り込んだ周人に続いて自身も乗り込むと42階のボタンを押した。


「この間の非礼を詫びたくてね。クロスフォードの社長命令とはいえ、あれは失礼すぎた」


そう言うと軽く頭を下げたエリックに恐縮してしまった周人はどうしていいかわからずに苦い表情を浮かべるしかなかった。


「42階にはレストランもあってね。一緒に食事でもしながら話でもしようか」


ウィンクをしてそう言うエリックの柔らかい雰囲気に自然と周人の表情も柔らかくなった。


「しかし驚いたよ。伝説の『魔獣』が君のような普通の青年だったとはね」


にこやかに日本語でそう言うエリックに対し、『魔獣』と言われながらも周人は顔色ひとつ変えずに小さく微笑むだけだった。


「まさかアメリカまで来てその名を呼ばれるとは思いもしませんでしたよ」

「アレからいろいろ調べてね・・・といっても独自にだがね」


チンという小気味いい音が目的の階に到着したことを告げた。先に周人を下ろし、その周人を追い抜いて廊下の一番奥にあるレストランへと向かったエリックについていきながら、周人は窓の外に見える豪快な景色に息を呑んだ。見渡す限りビルの林、道路の川。動きの鈍い車の群れはさしずめ川の中を行く魚か。テレビでしか見たことのない風景に子供に還ったかのようなワクワク感が全身を駆け抜けた。


「元はフロア全体をレストラン街としてオープンする予定だったのだが、あのテロ以降高層ビルに店を出すのをみんなが嫌がってね。ただ一軒残ったこの店はカムイのお得い様だよ。なにせオフィスフロアと同じ階にあるんだからね」


店を出すには間違っていると思える場所だが、それが話題となってなかなかの有名店となっているのだった。その店を予約していたエリックは2人を案内しながら前を行くウェイターにわからぬよう日本語でそう説明をしたのだった。思惑通り日本語が理解できないウェイターは何の反応も見せずに席へと案内していく。そして案内されたその席には見た顔であるあのディアナが席についていた。軽い会釈をするディアナに向かってにこやかな笑みを返しつつ、ウェイターが引いた椅子に腰掛けた周人は三角をかたどる格好で席についたエリックを見ながら少し緊張した顔つきを見せていた。昼間からワインをオーダーしたエリックはてきぱきと料理を注文し、さっさとウェイターを下がらせる。


「さて、シュート・キド。先日はすまなかった。あらためて非礼を詫びさせていただくよ」


丁寧な日本語でそう言い、軽く頭を下げたエリックに続いて無表情のディアナも同じように頭を下げた。もはや恐縮しきりの周人は困ったような表情を浮かべて小さく深呼吸をするようにしてみせる。全米屈指の大企業の常務が直接本人に頭を下げるなど異例といえよう。だが、会社の名を語りながら実に私的な用件で個人を襲撃したのだ、はっきり言ってそれは犯罪行為に他ならない。そう考えればこの謝罪にも納得がいくが、慰謝料などではなく問題を起こした役員が直々に頭を下げるということから周人は緊張を隠せないのだ。


「いえ、そこまで謝られても・・・」

「いや、こちらがのされたとはいえ、あれは犯罪行為だ」


エリックはきっぱりとそう言った後、何故か苦笑して見せた。


「それに天狗になっていた自分が恥ずかしくてね。わずか2秒で倒された経験などなかったものだから・・・腕には相当自信があったんだがなぁ」


ここでエリックは初めて人間らしさを見せた。テーブルに肘をつき、手にアゴを乗せて大きなため息をついたのだ。先日、そして今日も決してそういった部分は見せず絶えずシャキっとしているエリックのこの仕草に親近感を覚えた周人は自身の緊張が解けていくのを感じていた。


「あなた、何者なの?」


実に感情がこもらぬ声色でそう言うディアナに苦笑したのは周人だけではなくエリックも同じだった。どうやらディアナもまた日本語が話せるようであり、今のも綺麗とは言えないが立派な日本語だった。


「ディアナ・・・そういう聞き方はよくない。ちゃんとした紹介もまだなのに」


そう言われても決して感情を表に出さないディアナはじっと周人を睨むように見つめたまま微動だにしない。


「彼女はディアナ・ロバート、私の仕事上のパートナーでもあり空手の弟子でもある女性だ。一見怖そうだが見てのとおりの美人だ。彼女にしたいのであればいつでも言ってくれ」

「日本人は嫌いです。特にこういう男は」


エリックの冗談とも取れる言葉にきっぱりとした口調でそう返したディアナは運ばれてきたワインに目をやりつつもとげとげしい気を消さずにいた。


「まぁこういう性格が災いしていまだ彼氏もいない」


苦笑に苦笑を重ねるエリックはワイングラスを優雅な手つきで持ち上げ、2人に乾杯を促した。


「ではミスター・キドにお詫びと、双方の和解に、乾杯」


その言葉を合図にグラスを交わし、3人は同時にワインを口にするのだった。


「しかし、日本語がお上手ですね」


メインディッシュを前にそう言う周人はこれまでの会話全てが流暢な日本語であることに感心していた。おおよそアメリカ人が話す日本語とは思えないほどの見事な発音であり、言葉や単語が出てこずに詰まることもしないのだ。それはまたディアナも同じであり、最大手エリート社員の実力をまざまざと見せ付けられているような気がしてしまうほどだ。


「25の時に日本の支部に回されてね、42になるまでずっと日本にいればこうもなろう。そこで空手を学び、日本、アメリカ両方の大会にも出たものだ。私はあの国が好きだ」

「私は嫌いです・・・男も女も、特に若者はまるでなっていない」


思いを馳せるエリックと違い、明らかに嫌悪感をあらわにしたディアナは運ばれてきたメインディッシュである分厚いステーキを頬張りながら怒りを顔に出しつつも丁寧な仕草でワインを口にした。


「彼女は2年前に日本人の彼氏を日本人の女性に奪われてね・・・以来こうなんだ」

「ミ、ミスター!」


ディアナの日本嫌いの理由を暴露したエリックに対してここで初めて人間らしい感情を見せたディアナはやや顔を赤くしながら一気にワインを頬張ると近くにいたウェイターにおかわりを依頼する。照れ隠しからか一切周人を見なくなったディアナに苦笑しつつ、周人はさっきから気になっていたことを口にした。


「よく僕が『魔獣』だとわかりましたね」

「ああ、クロスフォード社ともなればその情報網も大きく、ネットワークも大きい。ヤクザやマフィアとも多少のつながりがあってね・・・悪いと思ったが、まさかって感じだったよ」

「それはミスター個人のおつきあいのせいです。彼の持つ裏情報網は軍にも匹敵するのよ」


自慢げにそう言うディアナは少し酔ってきたのかさっきよりかは人間らしい感情を徐々にだが見せ始めていた。


「『モンスター』こと『キング』に関しても知っている。会ったことはないがね・・・だから君がそうかと思ったんだが・・・・・まさか彼を倒した男だとは思いもしなかった」


そう言うエリックに少し困ったような顔をした周人だが、何も言わずに料理を口へと運んだ。なんともいえない味が口の中全体に広がり、アメリカに来て初めてとういうべきその美味に満足げな顔をした。


「ひとつ質問いいかしら?」


周人が料理を飲み込むのを待っていたかのようなタイミングでディアナが質問を投げる。周人はワインを口にしながらうなずくとディアナからの質問を待った。


「何故あの時、間接を極めたのみで何もしなかったの?ミスターにもとどめをささずに」


ワイングラスを静かに置いた周人は興味ありげなエリックの顔をチラリと見てからゆっくりとその答えを口にした。


「僕の技は誰かを守るために使うと決めています。だから、自分の身を守るときには必要最低限のことしかしないと決めてるんです。特に今回は命の危険はないと判断して、相手から戦意を喪失させればそれでいいかなと思いまして」

「随分と自信があるのね、自分の技に」

「自信はある、といえばあるし、ないといえばない・・・ただ、誰かを守るために使う際にはもちろん全力で戦いますよ」

「ならあの時は全力でもなければ本気でもないと?随分なめた真似をしてくるわ」


もはや今すぐにでも襲い掛からんばかりのディアナの言葉と表情だったが、周人は実に冷静な顔をしたままディアナの視線を受け止めていた。


「その辺にしておきなさい。彼が本気だったならばあの後私たちは病院のベッドの上で目を覚ましていたさ」

「ミスター!あなたのお言葉とは思えません!」

「彼は強い、そして何よりその心の強さはケタ違いだ。私が本気になろうとも、若かろうとも絶対に勝てはせんよ。な、シュート」

「勝つのは我々です」

「彼が本気になればI.Gを含めた3人の怪物でも勝てないだろう・・・相手の度量、技量を見抜き、素直に負けを受け入れることもまた実力の1つだよ」

「アイスキューブ・ゴッドワルド・・・あの『狂獣』が勝てないと?」


つぶやくディアナのその言葉からその人物が相当の実力者であるとわかる周人だが、会ったこともなければその名を聞いたこともないためにピンともこない。


「I.Gたちが勝てないなんて信じられません」


履き捨てるようにそう言うとおもむろに立ち上がり、周人を一睨みしてからどこかへと姿を消してしまった。化粧室であることは間違いないのだろうが、それが感情を抑えきれなくなったからだというのは残された2人にはすぐに理解できていた。


「すまない・・・彼女は私が誰よりも強いと思っている・・・・広い世の中には上には上がいる、まだそれがわからんのだ」

「アイジー?ですか、その人物は一体・・・」


「アイスキューブ・ゴッドワルド、海軍の将校でな、『狂獣』と呼ばれる拳法の達人だ。彼を含めた3人の軍人がアメリカでは最強と言われている。もちろん格闘家や裏の世界の殺し屋を含めてだ。軍人というのは肩書きのない殺し屋と同じだからね」


軍人と言う言葉にどこか納得したような周人だが、自分とは住む世界が違うために戦うことはないなと思っていた。結局こういう話題はここで終わり、エリックの質問によって日本で何をしていたか、どうしてカムイに入ったのかなどを聞かれてそれに答えるという話題へと変化していった。そうしているうちにディアナも戻り、無口で無表情なディアナを置いて2人は話に華を咲かせたのだった。


薄暗い殺風景な部屋には小さなテーブルと椅子が置いてあるだけだった。わずか3メートル四方の真四角の空間にいるのは大きな体に似合わぬその小さな椅子に腰掛けた短い金髪を刈り込んだ男と、ピクリとも動かない全裸の女性だった。男の足下に転がった女性は大きく目を見開いたまま天井を向いて倒れており、時折申し訳程度に上下に動く胸からかろうじて息をしていることが窺い知れる。


「では、もうクロスフォードからの金は期待できないと?」


小さな携帯電話を耳に当てつつ、迷彩模様のズボンのポケットからくたびれたタバコを取り出し、無造作にそれをくわえて同時に取り出していたライターで火を点けた。


「はい、では作戦を練り直しですな・・・・」


ゆったりと煙を吐き出しつつ感情のない口調でそう言う男は足を組みながらふんぞり返るような体勢を取った。


「まぁいざとなれば誘拐でもなんでもして金は取りましょう・・・全ては我が国のために」


元から鋭い目つきをさらに鋭く、まるで鷹の目のように細めてそう言うとタバコをくわえている口元を歪めて悪鬼のごとき笑みを浮かべて見せた。その言葉を最後に電話を切るとそれをズボンのポケットに押し込む。ゆったりとタバコを堪能し、シミだらけ、ヒビだらけの天井を見上げながらくわえたタバコを左手に持って立ち上がった。


「じゃぁな・・・」


迷彩柄のズボンにタンクトップ姿のその男は倒れている女の右の乳房にタバコを押し付けてそれをもみ消した。だが女は押し付けられた瞬間こそピクリと反応したが、男が去った後もそのまま動くことは無かった。


「キース・クロスフォード・・・親父の言うことを聞いてりゃぁいいものを」


ため息混じりにそう言いつつも鋭い目つきは変えない。照りつける太陽が似合わないその笑みは闇にこそふさわしいと思える。そんな悪しき表情の男の名はゾルディアック・アーロン。エリックが言ったアメリカ最強の3人、その中の1人にして後に木戸周人の最大の敵になる人物である。


ニューヨークへの出張、正確にはエリックのもてなしで得たアリスの近況はこうだ。周人に対する襲撃は妨害が遭って実行できなかったと報告した結果、やむなくアリスを半ば強制的に軟禁して監視下に置いたということ。見張りを兼ねた護衛をつけて行動を逐一監視しているとのことだ。出会って数日で好きになった経験などないアリスにしてみれば家柄を関係なく、ただ一人の少女として接してきた人間は周人が初めてであり、そんな周人だからこそ気になり、そして好きになったといえた。だからこそ、こうも無理矢理引き離されればその想いはより一層強くなっていったのだが、厳しい監視下に置かれた今の状況では易々と会いに行く事もできずに悶々とした日々を過ごすしか無かった。


周人がアメリカに来てから丸3年が経過していた。だが一度新型マシンを開発してしまえばしばらくはそのバージョンアップやエラーの回避などがメインとなり、設計的にはあまりすることがなくなってきていた。現に日本から派遣されたメンバーにしてみれば仕事内容を覚えたアメリカ人によってその仕事を奪われつつあるほどだ。そして日本では梅雨を迎えている頃、周人を含めた日本人スタッフが唐突ながら会議室に呼ばれるのだった。何事かと心配するメンバーだったが、ニューヨーク出張以来エリックと仲良くなり、度々会ったりしょっちゅうメールしたりしている周人にしてみればつい先日聞いた情報からある結論に達していたためにさほど驚くほどのことではなかった。その情報とはもはやアメリカでするべき仕事がないために別の国の支社へと転勤になるのではとのことだったのだ。周人はそれがフランスではないかと思いつつ、友達も多いこのアリゾナを離れることが少々心苦しかった。だが、果たしてエリックの情報どおりの人事異動の話かどうかはまだわからない。会議室に入った周人やその上司である大神を含めた6人は会話も無く5分ほどを待った。


「遅れてすまない」


そう言って入ってきたのはアリゾナ工場の工場長ではなく、カムイモータース社長である菅生要であった。もちろん菅生1人ではなく、秘書である美人の美島優子も一緒である。2人とは個人的に親しい周人は驚きの表情をしつつ社員としての礼以外に軽い会釈をした。菅生はそんな周人に微笑むと立っている全員を座らせてからまず全員を見渡した。


「諸君らの活躍で業績はアップ、F1での成績もまずまずだ。そこで諸君らの業績を称え、新たな部署での活躍を期待したく異動の通知を持ってきた次第だ」

「社長自らとは・・・驚きですよ。新たな場所とはクビ・・・じゃないでしょうね?」


まさに異例の訪問に大神がそう言うが、冗談とも取れないメンバーの顔つきは真剣そのものだ。


「業績を称えてクビなど・・・シャレでも言わんよ」


苦笑混じりにそう言うと優子が差し出した辞令を高らかに読み上げていく。


「大神健二・・・日本、池谷工場にてレーシングマシン開発部門設計係長へ昇進、同部署への転属を命じる」


その発言にどよめきが起こり、拍手とともに辞令を受け取る大神はにんまり笑って部下たちを見渡した。


「坂本慎也・・・アメリカ、ニューヨーク支社カーエレクトロニクス設計課への転属を命じる」


周人より1つ年上の坂本は念願だったニューヨークへの転属に思わずガッツポーズを取った。それにニューヨークには日系2世の可愛しい彼女もいることから出たガッツポーズだと菅生と優子を除く全員が悟っていた。


「池田義男・・・中国、上海支社電子回路設計部への転属を命じる」


恭しく辞令を受け取る池田は自分に合わないアメリカの食事にうんざりしていたこともあり、美食の街でもある上海の料理の数々を思い浮かべているのか舌舐めずりをして席へと戻った。


「上田公雄・・・フランス、パリ支局カーナビゲーションシステム部への転属を命じる」


既婚者であり、単身アメリカに住んでいる上田はアメリカ行きこそ家族に反対されたが、おしゃれなパリならば一緒に来てくれるのではないかと淡い期待を寄せつつ辞令を受け取った。


「高畑イサオ・・・同じくフランス、パリ支局カーナビゲーションシステム部への転属を命じる」


仕事人間の高畑にとって場所や国はどこでも構わない。やりがいのある仕事であることを祈りつつ辞令を受け取った。


「最後に木戸周人・・・」


菅生から見て一番遠くに座っている周人がやってくるのを待っているのだが、周囲にしてみればまるで焦らしているかのような印象を受けた。それは周人が目の前に立ってもなかなか辞令を読み上げないことからも確信に変わる。


「木戸周人・・・日本、池谷工場レーシングマシン開発部ソフト開発課への転属を命じる」

「日本・・・」


辞令を受け取り確認するが、そこに書かれている文字は確かに日本だった。周人は自分のいた位置に戻り再度辞令を見て淡い微笑を浮かべた。今の周人の頭の中にあるのは雪の中、見事なドレスアップをして微笑む美少女の顔。この世で一番愛しく、そして一番会いたいと願う少女の顔だった。


その日は6人を食事に招待した菅生の計らいで一同は豪華な料理を堪能した。辞令は8月半ばからということでまだあと一ヶ月半はある。だが引越しの準備とかもあり、菅生は仕事の合間を見て新天地への行き来を会社のお金を使って構わないと了承した。周人は2週間後には一旦アメリカを発つことを決め、その際に時間があれば一番会いたい女性に会おうと決意した。もうすでに3年が経ち、彼女には彼氏ができているかもしれない。好き同士でいながら付き合うことが無かった2人はお互い待っているとの約束も無く現在に至っているのだ。だが周人は今でもその少女を想い続けている。そして一時帰国の出発を明日に控えた夜、今日もアメリカの星空を見上げながらその少女に想いを馳せる。自分を徹底的に嫌っていたその少女を好きになることなどありえないと思っていた。だが、気が付けば好きになり、遠く離れている今でもその想いは変わらない。過去のつらい経験から決して誰も好きにならないと決めていたにも関わらずだ。


「吾妻さん・・・オレは今でも君を好きなんだぜ」


17の夏、初めて付き合い、初めて愛する喜びと愛される喜びを教えてくれたかけがえのない少女。そして図らずも愛する人を失う悲しみ、絶望感、喪失感、激しい怒りも教えられた苦い苦い思い出。決して忘れることなどないと思われたその少女を忘れるほどに、今、周人の心の中には日本にいる愛すべき少女へと想いは募っていた。


「なんかドキドキしやがる」


自分に苦笑する周人は満天の星空を見上げ、いつかは彼女と一緒にこの星空を見たいと考えていた。たとえ彼氏がいたとしても構わない、ただ一目会いたいと思う周人は淡い微笑を浮かべたまま夜空を横切る一筋の光に願いを託すのだった。


一足先に仕事の都合で大神が帰国したために1人で帰ることになった周人はニューヨークの空港に来ていた。といっても帰るのが1人なだけであり、今ここには周人以外に多くの人たちがいた。もちろんそれは他の旅行客やビジネスマンといった空港の利用客ではなく、わざわざ見送りに来てくれた面々だ。大きな荷物は既に預けた周人は手荷物であるリュックサックを床に置きながら見送りに来てくれたメンバーを見渡した。


「みんなお世話になりました。っても荷物の整理や引継ぎでまたすぐ帰ってくるけどね」


苦笑混じりにそう言う周人にみんながにこやかに微笑み返す。


「その時はまたこうして来るさ、何度でもな」


そう言うアレックスとがっしり握手を交わし、そして抱擁しあう。ずっと一緒に仕事をしてきたアレックスとは親友といっていいほどの間柄となっているせいか、その寂しさもまた倍増だ。


「完全に帰ってからでもいいけど、メールや電話も頂戴ね」


涙声になりながら周人に抱きつくマリーアは優しいキスをその頬にしてみせる。普段ならひやかす面々だが、さすがに今日はそういうことをしない。逆に唇にしてやればいいのにと思うほどだ。


「日本に帰っても今まで通り仲間だからね」


にこやかにそう言うリリーと抱擁しあう周人は薄く笑いながらも寂しげな表情を浮かべていた。


「シュート、また会おう。必ずだ」


カムイの人間ではないエリックも見送りに来てくれたことは何より嬉しかった。周人はエリックとガッチリ握手を交わし、それでも足りずに互いに抱きしめあった。


「今度会う時までには体を鍛え直しておくよ」


日本語でそう言ったエリックの言葉ににんまり笑う周人は2、3度背中を叩くエリックにこちらこそと返事した。少し涙ぐむ自分を自覚しながら遠いこの地で得たかけがえのない友と仲間、そして絆を胸に小さく微笑んで見せた。


「シュート!ちょっとどきなさい!」


人を掻き分けるようにして息を切らし、周人の前に立ったのは間違いなくアリスだ。エリックの驚いた表情からもわかるようにここに来るはずのないアリスの姿に周人もまた呆気にとられたような顔をするしかなかった。


「お前、どうして・・・」

「よくお父上が許可しましたね」


驚きを隠せない周人とエリックの言葉にフフンと鼻を鳴らしたアリスはふんぞり返るようにして胸を張ってみせる。


「フフン、あんな監視、本気になればこんなもんよ」

「・・・運転手のハガーに同情するよ」


アリス専属の運転手マイク・ハガーはアリスのわがままに付き合わされ、いつもしかられているのだった。だがその都度アリスが擁護するためにずっと運転手でいられるのだが、ハガーはアリスを好いていることもあってもはや下僕のような存在になってしまっていた。だからこそ軟禁状態を抜け出したアリスに従ってわざわざここまで運んできたのだろう。


「シュート、絶対に日本へ行くからね、待っててね!」

「来なくていいし、来れないって・・・」

「行くの!だって恋人の顔はみたいもの」

「誰が恋人だよ・・・」

「あんたが」


その言葉に脱力し、大きなため息をついた。見送りに来ているメンバーも同じようにため息をつく中、エリックは警備の強化を進言する決意をするのだった。


「まぁ離れていた方が想いは募るし、愛は深まるのよ」


腕組みしてしみじみそう言うアリスに思わず相槌をうったマリーアを横目で見るリリーは心の中で苦笑した。恋人がいるリリーにしてみれば周人を愛してはいないのだが、友達以上恋人未満の関係にはなりたいと思っていただけに今の言葉には少しながら納得することができた。だが苦笑したのは愛情が無くとも周人と男女の関係になりたいと思った自分がいるからであり、離れてその想いが強くなるということに納得した自分に対してだった。


「そうだな・・・そう思う」


何を思って周人がそう言ったかわかる人間はわずかに2人。アリスとマリーアだ。日本にいる好きな人のことを想ってそう言ったとわかるだけに、アリスはムッとした顔をし、マリーアは悲しげな顔をしてみせた。このまま日本に帰ればおそらくその好きな人と会うだろう。そう思えば遠い日本にいる周人に対して何もできないマリーアは自己アピールもできずにこのまま終わるのだ。そう思えばこその曇った表情だったがアリスは違う。そんな女を蹴散らして必ず周人をモノにしようとすでに日本に行く算段を練っているところだ。そんなアリスの思考を呼んだエリックはそっと周人の耳元に口を寄せて日本語で言葉を発した。


「行けないように努力するよ」

「お願いします」


言い合って微笑み合う2人にアリスは怪訝な顔をしたが、何を言ったかはおおよそ検討がつく。今は黙って見送ることにしたアリスは周人の正面を陣取ったままその唇を狙ってじっと様子をうかがっていた。


「どきなさい貧乳娘」


そんなアリスを蹴散らすようにして押しのけたマリーアもまた同じようにそのタイミングを狙っていた。数ヶ月ぶりの2人のバトルを後目に周人は全員の顔を見てから頭を下げた。時を同じくして日本行きの飛行機の搭乗を告げるアナウンスが流れ始める。


「じゃぁ、また・・・・」


一週間後には戻ってくる周人だが、個人的な荷物の整理なため、滞在日数は少ない上に職場に顔を出す時間も少なかった。そのせいかすぐに会えるとわかっていながらも涙ぐんでしまう面々にさわやかな笑みを残し、搭乗受付のゲートをくぐった周人は大きく手を振りながら姿を消したのだった。


「さて・・・では帰りますか」


自分にそう言うエリックに素直にうなずいたアリスに皆が怪訝な顔をした。それこそ今周人について行きかねないと思っていただけにこの素直さは不気味以外に他ならない。


『家に帰ってじっくり作戦を練らなきゃ』


素直さの裏に隠された考えを胸に、アリスは周人の乗った飛行機を見送らずに帰路へとついたのだった。残ったメンバーが飛び立つ飛行機に手を振りながら声援を送る中、周人を乗せた飛行機は遠い日本の空を目指して雲の中に消えたのだった。


これほど多くの日本人を見るのは久しぶりのことである。正月にもろくに帰れなかった周人がアメリカに渡ってから帰国をした回数はわずかに3回だ。空港に降り立ち、税関を抜けてロビーへと出れば時間は真夜中に近い。とりあえず住む場所は確保しているのだが、いかんせんまだ住める状態にはなっていなかった。というのも、電気やガスがまだなのだ。一応会社の人間が取り仕切ってやってくれているのだがやはり本人でないとわからないこともあって十分ではないのだ。それでも周人は寝るだけには問題ないとしてそこへと向かうことにしていた。だが、その前にどうしてもやっておきたいことがあった。だがこんな時間に電話することも出来ず、どうしようかと思案しながらタクシー乗り場へと向かう。予想以上の混み具合にうんざりしながらもアメリカでも愛用していたバイクもまだアメリカであり、新しい車は新居に置いてあるので今はおとなしくタクシーを待つしかないのだった。菅生が用意してくれたその新しい車は以前使用していたエスペランサES―11、ダブルワン同様次世代機種のプロトタイプであり、モニターをするべく作られた世界に一つしかない試作機だった。そんな菅生の好意に感謝した周人は新たな部署でも頑張ろうとの決意を胸にしての帰国である。だが今は仕事よりも大切なことがあるのだ。


「この時間に電話しても支障がない・・・・といえば1人か」


そうつぶやくとタクシーを待つ列には並ばずに公衆電話が並ぶエリアへとやってきた。携帯電話が普及した世の中だが、日本で使用できる携帯を持っていない周人は明日にでも買いに行こうと決めていた。アメリカで使用していた携帯はすでに解約済みであり、残されたメモリーから探している人物の名前と電話番号を探し当てた周人は少し心を落ち着けるようにして1つずつ確実にボタンを押していった。そして全て押し終え、プルルルという独特の呼び出し音が流れ始める。


「家かな?」


なかなか出ないことからそう思い始めた瞬間、唐突に電話は繋がった。


『はい、さくら西塾ですが』


聞きなれた、それでいて懐かしい声に思わず口元が緩んでしまう。かつて自分がいた頃は電話の際には『さくら塾西支部』で答えていたのだが、今では『さくら西塾』とそのままの名に変えている。だが、聞こえてくる声は全く変わらない。


「お久しぶりです塾長、木戸です。木戸周人です」


にこやかな表情は相手には見えないが、自然とほころぶその顔とは裏腹に心臓の音は大きく高鳴っていた。


『木戸君?いやぁ~久しぶりどころじゃないぞ!元気か?』


自分をよく知る電話の相手、さくら塾塾長大山康男の変わらぬ声、その口調に周人の心は3年前に戻ったかのような錯覚を受けた。


「ええ、元気です。塾長もお変わりなく・・・」

『変わるわけないさ・・・それより今は?アメリカかい?』

「日本です・・・つい今しがた帰ってきたばかりですけど」

『そうか・・・仕事で?』

「いえ、来月からこっちに転属になりましてね。池谷の方にある工場へ」

『池谷って・・・ここからすぐ近くじゃないか!そうか。で、もうずっとこっちに?』

「はい。まぁ辞令が無ければですけどね。あとF1で借り出されるかもしれないですけど基本的にもう池谷にずっとでしょう」


苦笑しながらそう答えるが、本当に聞きたいことが言い出せない。高鳴る鼓動、緊張から喉が渇き、息が苦しくなってくる。聞きたい、だが聞くのが怖い。もし、自分が予想している通りの答えでなかったとしたらと思うと怖いのだ。


『そうか、それは青山さんも吾妻さんも喜ぶよ』


その名前にひときわ大きく胸の鼓動が激しく高鳴った。


「だといいんですけどね」


自分を抑えながらそう言う周人だが、肝心なことがまだ聞けない自分を情けなく思い、イライラしてしまう。


『2人とも塾で働いてくれてるよ。青山さんは正社員、吾妻さんはバイトだ。2人とも超美人になってるよぉ・・・いや、前から美人か』


自分で言いながら笑う康男につられて小さいながらも笑みがこぼれた。


「2人とも元気ですか?」

『あぁ、元気だ。けど・・・・』


そこで一旦声が途切れる。それと同時に周人の心臓が激しく鼓動し、息苦しさが襲ってくるほどに異常な速度で動きを早めていった。


「けど・・・・・なんです?」


ゴクリと唾を飲み込む音が電話の向こうにいる康男まで伝わった。上ずった声からも気になって仕方がない様子が窺い知れる。康男はもう少し意地悪をしてやろうかと思ったが、それはあまりにかわいそうだと判断して言葉を続けた。


『けど、君が帰ってきたと知ればもっと元気になるさ、特に吾妻さんはね』

「そ、そうですかね・・・だといいんですけど」

『今でも君を好きでいるんだよ、あの子は・・・実はここ最近色々あってそれをはっきり自覚させてしまってね、不覚にも泣かせてしまったんだ。が、それを癒すことができるのは君しかいないんで困っていたところだ、ちょうどよかった。一つ頼まれてくれ』

「頼むって、何をです?」

『彼女を元気にしてやってくれ。なぁに、『好きだ』って言って抱きしめてキスでもしてやれば元気一発、回復だ』

「塾長ぉ~・・・」

『君も・・・今でもまだ好きなんだろう?』

「え・・・・あ、まぁ・・・・そうですけど」


徐々に声が小さくなっていく周人からして電話の向こうで赤面していることは誰にでもわかる。何より誰よりも一途な周人を知っている康男だけにアメリカで彼女を作っているはずがないとわかっていた。元々嫌いで別れたわけではない。高校生になる少女と世界へ飛び出すサラリーマンとでは付き合いきれないと判断しての別れだった。そうでなければとっくに恋人同士になっている。


『会ってやってくれ・・・彼女は君以上に君に会いたがっている。高校でも誰とも付き合わずに、今もそうだ』

「わかりました、明日伺います・・・昼から、2時ごろになるでしょうけど」

『わかった。じゃぁ2時ごろに、塾でな』

「はい。では明日に・・・・おやすみなさい」


時間も時間だし、今から帰る時間も考慮して話を終わらそうとした。何よりこんな夜中過ぎまで塾にいることからして忙しいのだろうと判断できたからだ。経験上それはすぐにわかった。


『木戸君・・・彼女を頼む』


そう言い残し、康男は電話を切った。その言葉の意味を噛み締めながら周人は受話器を置いた。今でも自分を好いていてくれていることが何より嬉しい。自然とこぼれる笑みを消すことなくリュックとスーツケースを手にタクシー乗り場へと向かう周人は丸い月の輝く夜空を見上げた。アメリカで見ていた星の瞬きは影を潜めたかのように薄く、その数も圧倒的に少ない。あの小宇宙はどこへやら、寂しげに見えるその夜空を見上げながら小さく微笑んだ周人はいつの日か彼女を連れてあの宇宙とも言うべき広大で美しい夜空を一緒に見ようと心に決めたのだった。


日本の夏は湿度が高いせいでかなり蒸し暑い。たった3年いなかっただけでこうも夏の暑さに弱くなるのかと思いつつ玄関の鍵を閉める。照りつける太陽は情け容赦なく殺人的に降り注ぎ、わずか数分足らずでねっとりとした汗が全身を覆うかのように流れてきた。


「さて、行こうか・・・・」


新しいマシンのボディの色は白。太陽の光を受けて輝くまぶしいボディを見つつ、愛しき人の顔を思い浮かべる。自分が知っているその人の顔は15歳の時のものであり、19歳になっているであろう今の彼女を知る由もない。だが、それももうあと数十分後には見ることができる。高鳴る胸を抑えつつシートに乗り込む周人は彼女がくれたジッポライターを握りしめてからエンジンをスタートさせた。想い続けた愛しい女性に会うまであとわずか。気持ちは大空を駆けてすでにその場所まで飛んでいる。あとはこの体が行けばいいだけだ。


「オレが元気にするんじゃないさ・・・オレを元気にしてくれるんだよ、彼女は」


そうつぶやき、アメリカで愛用していた薄いブルーのサングラスをかけた周人はギアを入れてアクセルをゆっくりと踏みしめた。軽快なエンジン音を体で感じながら、周人は淡い微笑を浮かべつつ彼女が待つその場所へ向かって愛しい気持ち同様、車をさらに加速させていくのだった。


真夏の空が晴れ渡っているのと同様に心の雲がゆっくりと晴れていくのを感じながら。

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