雨上がりの空に 後編
漫画の世界のようだった。昼間なのに暗い中、豪雨が降り注ぎ雷鳴が轟く。鉄橋の橋げたの下で対峙する2人は親友であり、幼馴染だ。2人を見つめる静佳が少し赤く腫れた頬にそっと触れて皮膚をなぞれば、何故か腫れは引いていた。そしてひときわ大きい雷の音を合図に哲也が駆けた。わずかな距離を一瞬で詰めて拳が舞う。柔道ではない柔術にはある打撃が容赦なく源斗の顔面に浴びせられた。たちまち鼻血が舞うが、源斗はそんな哲也の腕を取り、投げるとみせかけて腹部に拳をめりこませる。だが気で硬化された腹筋は鉄板のようで、殴った源斗が唸るほどだった。そんな源斗の隙を逃す哲也ではない。瞬時に体を入れ替えて投げを打ち草原に後頭部から源斗を叩きつける。飛びかけた意識も静佳が目に入ったせいで急速に覚醒する。間合いを開けようと動く源斗に追い打ちの蹴りを後頭部に見舞い、さらに顔面を蹴りつける。転がるようにして間合いを開けた源斗に雨が降り注いだ。頭が揺れて視界がぼやけるが、見えるのは黒いオーラ。だから源斗は駆けた。地面を蹴って舞い上がり、飛び蹴りを見舞った。哲也がそれを受けるや否や、体を回転させて空中で追加の回し蹴りを放ち、さらに回転を止めずにもう一度蹴りを見舞った。だがそれを読んでいた哲也は足首を掴むと落下する背中に蹴りを見まい、さらにそこから投げを打つ。
「しょせんは出来損ないだ。技のキレもないし、身体能力が技そのものに追いついていない」
「かもな」
鼻と口から血を流し、その顔も腫れている。肩で大きく息をする源斗と違い、哲也はまだ本気にすらなっていなかった。準備運動でもない。勝負はもう見えていた。
「俺は出来損ないだ・・・俺の中にお前や親父のような鬼や獣は棲んでいない」
「ああ、そうだ」
「未熟だし、身体能力も運動神経もイマイチだよ」
「情けない話だ」
「だから、全てを賭けてお前に挑む・・・身の内に鬼のいない俺がお前に恐怖を感じさせてやる」
小さく笑うその顔にイライラが爆発した。黒い負の気が全身を包んでいく。哲也の中にある全ての負の感情があふれ出ていた。源斗はそれに恐怖して膝が震えるのを感じていた。だが、逃げない。負けたくないという想いが自分をここに押しとどめている。殺気立った目で源斗を射抜き、哲也の中にはもう手加減という言葉はなかった。最大の技で源斗を殺す、それしか頭になかった。一歩一歩ゆっくりと近づくその足取りに隙はない。源斗はごくんと唾を大きく飲み込み、そして腕を上げた。まともな技では通用しない。たとえ奥義を放っても、身体能力の乏しい自分では避けられるのがオチだ。ならばそうさせなければいい。チャンスは一度で、一瞬だ。だから哲也が自分の襟足を掴むその瞬間を狙っていた。哲也ならばその技でくると睨んでいた通りだった。だから同時に右足を大きく踏み出していた。気づかれないように、その掴んできた手を避ける仕草を見せて。隙が生まれているのも知っていた。哲也の自覚がない隙。自分を出来損ないだと言ったその認識を逆手に取ったのだ。投げの態勢に入るその一瞬こそ源斗の狙ったタイミングだった。起死回生の一撃にはなりふり構っていられない。咄嗟に左手で哲也の視界を防ぐように顔面を押さえる。舌打ちが聞こえたと同時に技を出すタイミングが遅れている。そう、こんな姑息な手は木戸の技にはない。だから自分は使うのだ。木戸無明流を継げなかった自分だからこそ使える姑息な手を。
「卑怯なっ!」
叫びが驚愕に変化した。目をふさぐ形で置かれた源斗の手を払いのけようとした哲也が一瞬だけ見えた指の隙間からの映像。背中から回されてくる源斗の右拳。哲也も知っているその技は木戸無明流奥義『天龍昇』。振り下される拳を見た瞬間、哲也は無意識の内に右足を蹴り上げていた。それは意図して放ったものではない、反射によるもの。修練によって叩きこまれた危険回避の本能が身体を動かした結果だった。その蹴り、つま先が源斗の顎を蹴りぬいた。あと1秒遅ければ源斗の天龍昇が哲也の胸に突き刺さっていただろう。だが蹴りが顎を撃ち抜き、脳を激しく揺さぶった結果、源斗の拳は威力を半減させた状態で哲也の胸に叩きつけられた。一瞬で気を失い、倒れこむ源斗。半減したとはいえ、最強の威力を誇る天龍昇は哲也の肋骨にヒビを入れていた。草地の上に倒れこむ源斗を見つつ哲也もまた片膝をつく。背中を流れる冷たい汗は雨のせいではない。あの一瞬、自分は源斗に恐怖した。才能もない、身の内に鬼もいない。出来損ないの源斗が自分に喰らわせたその一撃は哲也の中にある負の気をも砕いていたのだ。
「俺は・・・勝ったのか?」
倒れて動かない源斗見れば一目瞭然だが、勝ったという気がまったくしない。心の中にあった苛立ちも嫉妬も憎悪ももうない。あるのはただ空しさだけだった。
「源ちゃん!」
倒れて動かない源斗に駆け寄り、うつぶせの身体を半回転させて自分の膝上に源斗の頭を乗せた。腫れあがった顔をそっと撫でるとその腫れは引き、そして口と鼻から流れる血もまた綺麗に消えていた。意識は戻っていないが、源斗は戦う前の状態になっている。そのまま静佳は愛おしそうに源斗の頭を撫で続ける。おそらく人生で一度きりの本気だったのだろう。それがわかる静佳は何度も何度も源斗の頭を撫で、頬を撫でた。
「修練の差が出ただけだ」
ポツリと哲也がつぶやいた。静佳はそんな哲也を見上げる。雨はもう小降りになっていた。黒かった空も白くなりつつあり、雲が晴れる気配を見せている。
「修練を続けていたからこそ反応できたんだ・・・才能も身体能力も関係ない」
「でも源ちゃんは弱くないよ」
「ああ・・・強くもなかったけど、それでも怖かったよ」
哲也の微笑みは負けを認めたものだった。源斗の身の内に鬼は棲んでいない。強者を前にして、その恐怖を歓喜に変えることもない。実力差がある者と戦う理由もない。それなのに源斗は戦った。静佳を傷つけた哲也を許さなかったためだ。好きな女の子を守りたい、その気持ちでぶつかってきた結果がこれだった。自分以外の者なら負けていたと思う。無意識的に出たあの蹴りは修練による反射、そして佐々木の血のせいだろう。
「出来損ないのくせに・・・・」
言葉に優しさがこもっていた。だから静佳は小さく微笑んだ。
「てっちゃんの勝ちだよ。でも、源ちゃんの勝ちでもあるね」
「まぁな」
源斗の一撃が哲也の中の負の感情を消し去った、それを理解している静佳はただ微笑むだけだった。全ては源斗へのわだかまりが溜まり、自身の内部にある気を扱うことに長けた哲也は知らず知らずのうちにその負の気を溜めこんでいたのだ。才能が裏目に出た、そういう理由だ。つまり、そのわだかまりが消えたことで負の気も消え失せた。あるのは満足感と、そして失恋の痛手だけだ。今の自分に静佳を想う資格などない。
「1つだけ聞かせて欲しい」
想いを完全に断つため、哲也は静佳にそう言葉を投げた。
「源斗を選んだ理由を」
静佳はきょとんとした顔をし、その顔を源斗に向けた。眠る源斗の頬をそっと撫でてから哲也を見上げた。
「変に思うかもしれないけど、見えたのよね・・・源ちゃんとずっと一緒にいる未来が。2人が年寄りになっても一緒にいる、そんな未来を」
「なるほど」
静佳のこういった言動は今に始まったことではない。不思議な子だが、その言葉には力がある。現に彼女は的中率の高い占いをしているほどだ。だから哲也はその言葉を素直に受けとることができた。
「そんなだから意識した。源ちゃんは優しいから、根っからの優しさに溢れているから。だから好きなの」
微笑むその笑顔が眩しかった。人を好きになるのに理由など必要ない。哲也は今、それを知った。
「きっとてっちゃんの子供も、てっちゃんを超える天才だと思う」
占いの結果なのか、勘なのか、はっきりとそう言い切った静佳に頷く。
「そう思うよ」
そういう予感はしている。それにそうあって欲しいと願っているからだ。
「でもね、私と源ちゃんの子供の方がもっと天才だから。木戸の中でも最強の子になるから。だから、ちゃんと決着はつけられるよ」
微笑む静佳に苦笑が漏れた。出来損ないの子と不思議な子の間に生まれた子供が木戸無明流最強の存在になる、そんな馬鹿な話はない。でも、もしそうであればそれは面白い。決着は次の世代に持ち越す、哲也の目標は定まった。
「なら、俺の子供が勝つように育てるだけだ。佐々木の悲願は次の世代で達成さ」
「そうね。だからこれからも仲良くしましょう。きっと、それが一番いいと思う」
「・・・・何の理由にもなってないけど、ま、そうだな、それが一番かもな」
哲也は笑った。こうして心から笑うことなど随分と久しぶりなことだ。晴れていく空を見上げれば、南の方角に薄い虹が掛かっていた。雨上がりの空に浮かぶその虹が、その虹の先に未来があるのかもしれない。
「源斗が気づいたら伝えてくれ。強かった、って」
虹を見ながらそう言う哲也に微笑み、それから手を振って傍に来るようにしてみせる。哲也は訝しがりながらも近づくと片膝をついた。その哲也の脇腹付近にそっと右手を添えれば、痛みが一瞬で引いた。
「あとで自分で伝えなさい」
微笑む静佳はそれ以上何も言わない。哲也は困った顔をしつつ頭をかいた。
「照れくさいから伝言を頼んだってのに・・・・それに前から思ってたけど、お前の中にも人でないモノが棲んでるんだな・・・鬼や獣とは違う、もっと気高いモノが」
折れていたような痛みがない肋骨はおそらく治ったのだろう。何がどうなってそうなったのかは詮索しないが、静佳が何かをしたのは明白なだけにあえて何も言わなかった。だから静佳も微笑む。慈愛に満ちた表情で。
「いつか俺の子がお前らの子を殺しても、恨むなよ?」
「あら、私は逆だと思ってるよ」
「言うねぇ」
大声で笑いながら哲也は去って行った。もう心になんのわだかまりもない、すがすがしい気持ちでいっぱいだ。振られたからか、源斗の強さを認めたからかはわからない。それでも哲也は満足していた。源斗と戦ったことで心が強くなった、そんな気がしたからだ。だから自分はもっと強くなる。そして次の世代もまたもっと強くなると信じられた。
目を開ければ、すぐ傍に静佳の顔があった。だから驚き、反射的に身を起こしておでことおでこが音を立ててぶち当たった。だが何故か痛みはない。静佳は苦笑し、源斗は照れを隠すように顔を逸らした。
「おはよう、お寝坊さん」
そう言われて周囲を見れば、雨雲はもうなかった。キラキラときらめく水面が夏を目前にした太陽の光を反射している。
「哲也は?」
「帰ったわよ」
素っ気なくそう言い、あえて伝言は口にしない。
「そうか・・・俺は負けたんだ」
「引き分け、だよ」
「けど・・・」
「引き分け」
静佳がそう言い、ちょんと源斗の鼻をつつく。
「だから、次の世代に決着をゆだねるんだって」
「次の世代って・・・俺は結婚もしないし、しても子供に継がせない」
哲也には静佳をやれないと思ったが、自分が静佳と付き合うという答えは持っていなかった。自分は静佳にふさわしくないとの結論に変わりはなかったからだ。
「でも、もう言い切っちゃったし」
何故静佳が困った顔をするのかわからない。源斗は怪訝な顔をしつつその綺麗な顔を見やった。
「言い切ったって?」
「私たちの子供ならてっちゃんの子供なんかちょちょいのちょいでやっつけられるって」
「あ、そう・・・・・・・・・・・・・え?俺たち?」
思考が一旦停止し、再度動くのに数秒を要した。つまり、それの意味することは何か。みるみる赤面する源斗を見た静佳がにこやかに微笑んだ。
「私は源ちゃんが好き。源ちゃんと結婚することが私の夢だったから」
「なんで俺なんだよ・・・お前ならもっといい男がいるだろうに・・・・哲也とか」
「源ちゃんはいい男だよ?優しいもん。芯が優しいし、私のために勝てない相手でも戦ってくれる」
顔が耳まで赤くなる。そんな源斗にそっと抱きつき、ぎゅっと力を込める。鼻をくすぐるいい匂いが源斗の感情を少し抑えてくれた気がした。
「だから、源ちゃんも私を好きになって」
「・・・・もう好きだ。ずっと前から、な」
「うん、知ってた」
身を離してそう言う静佳の顔が小悪魔的な笑みを浮かべている。源斗はまたも顔を赤くし、そっぽを向こうとしたが静佳の両手が顔を包むようにしてそれを阻止する。
「子供が出来たら、好きな子を守れるぐらいの強さでいいから、技を教えてあげて」
「付き合ってもないのに、こ、こ、子供、なんて・・・」
「あら、相思相愛だもの、付き合ってるよ?」
「け、結婚、とか・・・まだ早いし」
「そりゃね。でも、私は源ちゃん以外とは結婚しないから」
「そ、そうなの?」
「あ、これ、逆プロポーズだ」
えへへと笑う静佳に脱力し、そしてまっすぐに静佳を見つめた。微笑む静佳がそっと目を閉じ、源斗もまた決意を込めて目を閉じつつそっと顔を近づけた。そのまま初めてのキスを交わした。わずか1秒の短いファーストキスを。顔を離して見つめ合う。静佳の瞳がわずかに潤んでいた気がしたが、すぐに抱きつかれたのでよくわからない。源斗は華奢な静佳をギュッと抱きしめた。静佳もまた力をこめる。
「やっと、夢が叶った。1つ目の夢」
「1つめ?」
「あと12個あるんだ」
「欲張りだな」
「そうだよ!覚悟しておいてね」
嬉しそうな静佳の声に源斗も微笑んだ。もう劣等感はない。全力を尽くして哲也と戦った爽快感が心地よかった。引き分けと言われたが、負けたと思っている。けれどそれでいい。自分は弱いのだから。それでも好きな女の子を守れた、それが嬉しかった。
あの日から元の3人の関係に戻った。いや、少し違う形にはなったものの、仲のいい幼馴染に戻ったのだ。源斗と静佳は交際を始め、哲也はそれを冷やかしながらもずっと2人の傍にいた。結局哲也は高校生の間は彼女を作らず、東京の大学に入ってからモデル系美人と付き合い、その後に結婚している。源斗と静佳は交際を続け、源斗は地元の大学に入り、静佳は就職をしていた。早く働いてお金を貯めたいということで進学をしなかったのだ。源斗も働く気でいたが、学歴は大切だと静佳に諭されて進学を決めたのだった。そしてそれから数年の月日が流れた。佐々木流合気柔術道場の師範もしつつ、大手企業の役職付サラリーマンとなった哲也は源斗と静佳が結婚する1年前に結婚式を挙げていた。盛大ながらもどこか慎ましいその結婚式は温かい気持ちにさせられた。そして源斗と静佳の結婚式はそう盛大ではなかったものの多くの人々から祝福を受けた。そして半年ほどして静佳が妊娠、それから遅れること2か月後に哲也の妻も妊娠が発覚した。静佳の予言通り、次世代が同じ年に揃う。しかし哲也と源斗はそのことに触れなかった。源斗としては木戸無明流など継がせる気も、技を教える気もなかったからだ。あの日静佳に言われた言葉は覚えているが、やはりそんな気になれなかったのだ。そしていよいよ出産となり、静佳は元気な男の子を産んだ。ただ、妊娠中の病気が原因で今後の妊娠は母体に危険があるとしてこの子1人だけしか産めないことを残念がった。それでも男の子が生まれたことは素直に嬉しい源斗は生まれたばかりの我が子を恐る恐る、戸惑いながらもその腕に抱いていた。
「可愛いなぁ」
少し強面な源斗の表情も緩む。最早技の継承については何も言わなくなった鳳命も目を細めて孫の顔に見入っていた。
「名前は決めたのか?」
鳳命の言葉に静佳と源斗が目を合わせ、それから同じような笑顔を見せた。
「周人だ、木戸周人」
「しゅうと?なんというか・・・変わった感じの名前だ」
あんたがそれを言うのかと思うが口には出さない2人。
「この子の周りにいつも人がいるように・・・この子がその周りの人たちを引っ張っていけるように、そんな想いを込めました」
静佳の言葉に感心し、鳳命は眠っている周人の頬をそっと撫でた。
「お義父さん」
静佳の言葉に源斗と鳳命が同時に顔を向ける。
「もうおじいちゃん、になるのね・・・あのね、この子に技を教えていただけますか?」
そう言われた鳳命は横目で源斗を見やるが、源斗は周人へと顔を向けた。
「しかしなぁ・・・」
「何も木戸の技全部を教えて欲しいわけじゃないんですよ。この子がいつか誰かを守りたいって思った時にそれができるぐらいでいいんです。お父さんが私にそうしてくれたように」
「お父さんって・・・・こいつが?」
「出来損ないにも意地はある。なぁ、周人」
恐々抱いていた源斗も慣れてきたのか、少し体を揺さぶる余裕も出てきた。そんな源斗を見つつ、鳳命は腕を組む。横にいる祖母になった洋蘭を見れば苦笑を浮かべていた。
「まぁ、それでいいなら」
「でもきっとこの子は木戸の名を継ぎます。だって・・・・」
そう言い、静佳は夫の腕の中で眠る愛しい息子を見つめた。
「私とこの人の子供だもの。木戸の歴史の中で一番強い存在になります」
その自信に満ちた言葉に鳳命が驚く顔をする。歴代最強と自負できるほどに強い自分をさらに超えているというのか。いや、超える存在になると断言した静佳の度胸に自然と笑みが浮かんでいた。
「まぁ、とりあえず人より強い程度に仕込んでやるさ・・・・・・で、だ」
周人から静佳に目を移し、鳳命が軽く咳払いをしてみせた。何かあるなと思う妻の方を見ない不自然さで。
「授乳の時間はまだかな?わし・・・近くで見たい」
ニヘラと笑う鳳命は全員からの白い眼すら気にならないようだ。
「おじいちゃん!メッ!ですよ!」
静佳にそう言われた途端、言葉が出なくなった。何がどうなっているのかわからないが声だけが出ない。パニックになる鳳命を無視し、静佳は源斗と周人へと顔を向けた。
「トンビがタカを産みましたね」
「俺はトンビだけど、君はタカだった。だからタカが産まれた、そんな感じだよ」
「この子があなたの出来なかったことを全部してくれますよ、きっとね」
「だといいなぁ」
息子に託す願いは大きい。だから息子には大きく育って欲しいと思う。そんな源斗とは対照的に静佳は何の心配もしていなかった。確かに周人を取り巻く運命は過酷だ。しかし、それを乗り越えた先には約束された成功が待っている。自分の能力を呪った日もあるが、今は違う。この子の先には明るい未来しか見えないのだから。
仕事と師範の両立はなかなか難しい。本社ではなく地元の支社に移ったのはそういう事情もあってのことだ。これまでの営業としての実績がその無理を会社に押し通したわけだが、別に気にしてはいない。1人息子の傍にいたいし、何より愛する妻のいる家に帰りたいのだ。今日は土曜日で休日出勤をしたが、意外に仕事が捗ったために午前中で帰ることになった。昼食を適当に済ませて土手を歩く。再開発で川は整備され、あの懐かしい鉄橋はもうコンクリートの頑丈な橋に生まれ変わっている。それでも草で覆われた河原はあの頃のままだった。そんな昔を思い出す哲也の足が止まる。男の子2人が言い争う声、それを止めようとする女の子の声があの橋のすぐ下でしたからだ。
「お前が初めにそう言ったんだろうが!」
「俺じゃねぇし!」
「だいたい、羨ましかったんだろ?俺がラブレターを貰ったことが!」
「調子に乗ってんじゃねえよ!誰が!」
「もう止めてよ!」
夏休みを前にしているため、3人とも夏の制服姿だ。白いシャツも眩しい。
「やれやれ・・・またか」
哲也はため息をつくが止めに行く気などない。中学2年生という多感な時期だ、止めても結局またこうなるだろう。だったらとことんまでやればいい。それに見てみたい。自分の息子と親友の息子、どちらが強いのか。
「止めるなよ、ミカ!」
「ああ、これは男と男の決闘だ!」
そう言いながら2人が同時に靴と靴下を脱いだ。それは本気の証でもある。ハラハラした顔をする須藤ミカは14歳でありながらその存在感を抜群にアピールする胸を揺らして2人から少し離れた。こうなった2人がどうなるかは幼馴染であるミカにはもう理解できている。あとは2人に怪我がないことを祈るだけだ。
「決着をつけようぜ、木戸無明流」
「いいぜ佐々木流」
「俺に勝てるヤツは俺の父さんだけだからな!」
「じゃぁ今日でもう1人増えるわけだ」
「バカか?お前は、今日、ここで、死ぬんだ!」
「バカはオメーだろ?死ぬのはお前だよ!」
こうまで本気になっていがみ合う2人は初めてだ。だからミカにも傍観者である哲也にも緊張が走った。ただ、おろおろするミカとは違って哲也はどこかワクワクしている。あの日のことを思い出し、そして静佳の言った予言が真実かどうかを見極めたいのだ。
「シュー、手加減しねーからな」
「俺もだよ。テツは今日で死ぬ」
「死ぬかよ!」
駆けたのは佐々木哲生だ。やや長いその髪は校則違反ギリギリのラインだ。父親に似ず好戦的になってしまったが、静佳の言った通り哲也をも超える才能を持っていた。だが、まだ真にその才能は目覚めていない。哲生は目にも止まらない早さの拳を数発見舞う。だが相対する木戸周人はそれを難なく避け、受け止めて前に出た。瞬時に右足が舞い上がり、哲生の顎を狙うが、哲生もそれはお見通しだ。上体を逸らせてそれを避け、舞い戻って頭頂部を狙う踵落としに変化したその蹴りも避けていた。見もしないで、気配だけで。
「ほぉ」
感嘆の声が出た哲也は自分の息子が思った以上の実力を発揮していることに驚いた。自分との手合せではこんな動きは見せなかった。その才能に鳥肌が立つ。
「チッ!」
避けられた周人がそう舌打ちしたのは蹴りを見切られたからではない。避けると同時に舞う右の回し蹴りを受けざるを得なかったからだ。崩れた態勢からこんな蹴りが出せるのかと思う。そんな周人の襟元を掴み、胴に拳を見舞った後でそこも掴んで一気に投げた。打撃と投げを両立させる。それは総合格闘技の究極に位置する木戸無明流に対する対応だった。凄まじい速度で投げられた周人は頭から地面に叩きつけられた。それなのに瞬時に間合いを開けるその対応力。しかも笑みが浮かんでいた。悪鬼の笑みが。グラグラする頭を無視し、周人はそのまま間合いを詰めた。笑みをそのままに。哲也は背中をゾクリとしたものが駆けるのを感じていた。あれだけ完璧な投げを受けた後で笑えるその神経はもう人間ではない。
「鬼どころか、化け物を棲まわせてやがる」
「いや、タカがタカを産んだだけだ」
背後から聞こえた声にあわてて振り返れば、そこにいたのは普段着の源斗であった。気配を感じなかったのではない、感じる余裕がなかったのだ。それほどに周人に戦慄していたということになる。
「タカ?」
「俺はトンビだが、静佳はタカだよ」
「混ざり合って龍を産んだか」
トンビやタカでは当てはまらない周人の強さをそう表現した哲也に源斗は苦笑した。
「継がせない、はずだったよな?」
嫌みの1つも言いたくなる。自分の息子は自分すら超えていく天才だと理解している。だからこそ木戸の息子に負ける要素などないと思っていた。しかし、今繰り広げられている戦いはその理解を崩すものでしかない。周人は哲生以上の天才だからだ。
「そのつもりで俺もじーさんも周人を鍛えたさ・・・けど、あいつは天才だった。しかも超がつく天才だ。その才能に惚れ込んだじーさんが全てを教え、周人は全てを吸収した」
「やってられんな」
ため息が出る。左右同時の蹴りを哲生に放ち、それ避ける哲生は確かに天才だ。身体能力も人の域を超えつつある。それなのに周人はその蹴りを放った直後に再度同じ技を繰り出すのだ。こちらの身体能力も人間の域を超えている。
「まだまだ未熟だそうだが、俺にしたらもうわけがわからない次元の強さだよ」
苦笑交じりにそう言う源斗が哲也の肩にポンと手を乗せた。
「どうせ決着はつかないし、まだ2人ともその名を継いではいない。ただの喧嘩だ。だから飲みに行こう」
「はぁ?」
「決着は2人が名を継いで、それで俺たちの立会いの下で行えばいい」
「・・・・喧嘩の結果で一喜一憂はしたくない、か」
哲也は微笑んだ。そう、これは子供の喧嘩だ。勝つも負けるもない、ただの喧嘩。
「昼間から飲んで怒られないのか?」
「お前と一緒って言ったら納得する」
「ほぉ・・・静佳の中ではまだ俺の信用度は高いんだな?」
「幼馴染だし、ご近所だ」
「そうだな」
小さく微笑むそこに友情がある。離れていた時期もあったが2人は幼馴染で親友なのだから。
「奢らないぞ」
「え?そうなの?」
「当り前だ」
「大企業の役職付で道場の師範なのに稼ぎが少ないのか・・・」
「バカいえ!」
「お前に奢られるのも気持ち悪いけどね」
「ぬかせ!」
悪態をつきながらも並んで歩く。その背後ではまだ喧嘩は続いていた。
「2人とも!もうやめて!」
普段はおっとりしたしゃべり方のミカが怒鳴り、投げを打ちかけた哲生の動きが少し鈍った。その投げを返そうとした周人の動きもまた同じだ。だから2人は態勢を崩したままで横に体が流れた。その結果、段になっていた部分に足を置いたせいで転がるようにして川に落ちる。あわてて川から出てきた2人はびしょ濡れの状態であり、そのせいかもう殺気も消えていた。肩で息をする2人は睨みあいつつももう戦う意志はない。どちらともなく立ち上がると濡れたままの格好でカバンへと近づいた。
「決着はつけるからな」
「当り前だ!」
睨みあいつつもお互いの実力を認めた光が目に宿っていた。もっと強くならねばならない、そんな意志が込められた目だ。2人は土手に上がると歩き出す。あれだけの喧嘩をしたのに並んで歩く不思議さに首を傾げるミカがその後を追うのだった。
「ただいまぁ」
声のトーンが低いせいか、周人の昼食の準備をしていた静佳が玄関に顔を出すと、そこには全身ズブ濡れの息子が立っていた。
「夏休み前に制服ごと泳いだの?」
時々自分の母親が天然に思える。今回も冗談ではなく、本気でそう言っているように聞こえたからだ。
「テツと喧嘩して、んで投げの最中にミカが邪魔して川に落ちた」
素直にそう言う周人に向かってにこやかに微笑んだのは一瞬だった。その後は目を細め、そして腰に手を当てる。濡れたことを怒られると思った周人が静佳から視線を外した。
「で、勝ったんでしょうね?」
「え?」
意外な言葉に目を丸くした。
「勝ったの?」
何故か怒った口調だ。だから周人はまっすぐに静佳の顔を見た。
「引き分けだよ・・・邪魔されなきゃ絶対に勝ってた。押してたのは俺だし」
ふて腐れたようにそう言うが、本心なのだろう。決着は必ずつける、そんな目に静佳の怒気も消えた。
「よしよし、それなら入りなさい。シャワーして、制服のズボン以外は洗濯機。ズボンは外に干すこと」
「え?もしかして負けてたら入れなかったとか?」
恐る恐るそう尋ねる。
「当たり前でしょ!あなたに敗北は許されていませんからね!特に、哲生君には!」
そう言い残して静佳は台所に消えた。わけもわからずため息をついた周人はびしょ濡れの靴と靴下を脱いで風呂場へと向かった。何故あんなにも静佳がムキになったのかはわからない。どうせ聞いても何も教えてくれないのは理解しているため、言われた通りにシャワーを浴びたのだった。
昼間から飲んで帰ってきた哲也は自室で寝転がっていた。2時間ほど飲んだとはいえ、そう酔ってはいない。息子の成長の話がメインだったせいか、飲むよりも話す方が多かったからだ。ああして源斗と飲んだのは久しぶりだったこともあって気分がいい。そんなふわふわした気分の中で不意にドアがノックされた。軽く返事をすればドアが開き、そこに立っていたのは哲生だった。
「どうした?」
さっきの喧嘩のことだろうと分かっていたが、その場にはいなかった事になっているためにあえて何も言わない。哲生は困ったような顔をしつつ中に入るとドアを閉じ、ドカッと床に腰かけた。
「強くなりたい」
「急にどうした?」
負けたのかと思ったが、その様子からそうでもなさそうに思えた。ならば引き分けかと勘繰る。
「シューと喧嘩した。ミカが邪魔して引き分けみたいに終わったけど・・・多分、負けてた」
「ほぅ。お前が負けを認めるとは、な」
よほど悔しかったのだろう。だが悔しさの中に納得も見えていた。それほどまでに木戸周人という男は強いのだと理解できた。
「木戸無明流に勝つことは佐々木流合気柔術の悲願だ。俺は戦えなかった。周人君の親父は名も継げない実力しかなかったし、継承者の鳳命さんは全盛期を下っていたからな」
初耳だった。木戸と佐々木の因縁は知っている。だが、哲也の想いは知らなかったからだ。
「けど、その芯の強さは体験した・・・だからお前に託すつもりだったんだが」
「だったら!だったらもっと強くしてほしい・・・あいつに勝ちたいから」
「お前はもう十分に強い。俺よりも、全盛時の俺よりも、な」
意外な言葉に哲生は動揺した。組手をしても哲也の方が強い。なのに今の言葉はどういう意味なのか。そんな顔をしている息子を見つめ、哲也はあぐらをかいて哲生を正面に見据えた。
「周人君は、彼はきっと木戸無明流というその流派の全てを体現できる天才だ。あの流派はどんな状況下であれ多数と戦える強さを追及している。枠にはまった他流派では勝つことは難しい」
「枠に・・・」
「だから、勝ちたいなら枠を外せ。軸は、基本は佐々木の技だ。それを生かすために枠を外した戦い方をすれば、彼に勝てるだろう」
「難しいよ、それ」
「お前もまた佐々木の歴史の中では群を抜く天才だ。出来ると思うぞ」
今までこんな風に褒められたことはなかったし、認められたこともなかった。哲生はそれが嬉しく、誇らしく、だからこそ負けたくないと思った。勝ちたい、そのための努力は惜しまない覚悟を得た気がした。哲生は大きく頷き、そして立ち上がった。
「名を継ぐまでには、枠を外した戦い方をマスターする」
そう宣言して部屋を出た。哲也は笑みを浮かべて再度寝転がる。少々酔っていたとはいえ、臭い言葉を言いすぎとかと思うが本心だ、後悔などない。
「静佳・・・お前に言われた通りだ。お前の、お前たちの息子は化け物だよ。いなかった源斗の中の鬼も加えたほどの、化け物だ」
その化け物を倒すと決めた息子を誇りに思う。だから哲也は目を閉じた。いつか必ず哲生が周人を倒す、そんなイメージを膨らませながら目を閉じ、さっきまで飲んでいた源斗との会話を思い出すのだった。
「実力は俺だった、恋愛はお前。喧嘩には勝ったが、恋は敗れた」
「まぁ、そうだな」
「戦う前から結果が決まってたってのは納得いかないけど、それでも静佳が幸せならそれでいい」
「達観してるなぁ」
「哲生じゃ周人君には勝てないかもしれない」
「いや、いい勝負だろう。あの2人は天才だ・・・」
「勝ち負けは、正直どっちでもいい。ただ心が強くあれば、それでいいと思ってる」
「佐々木の悲願はどうした?」
「周人君じゃなければ期待した。哲生は佐々木の全てを継いでいる。なら、同じように木戸の全てを継いだ周人君にはかなわない。実力も才能も五分なら、勝敗を分けるのは経験の差か、血の濃さ。木戸は四百年以上で佐々木は百年だ」
「中には出来損ないもいるけどな」
「卑屈になるなよ。お前の分も息子が受け継いだ、そう思えばいい」
「それは思う。けど、あいつは化け物だ。あいつはきっともっと強くなる。その強さに溺れることが怖い。その力を悪い方に使うことが心配だ」
「心配ないよ。彼女の子供でもあるからな。踏み外してもきっと戻れる、そう思うぞ」
「静佳贔屓で助かるよ」
「彼女はお前に取られたが、ミカちゃんは取られそうにないな」
「ああ、あの子は哲生君にベッタリだ」
「あの歳であの胸だ、将来有望だよ」
「・・・・聞かなかったことにしてやるよ」
「でも、哲生が勝てないまでも、いつかは孫の世代でもいい、たった一度でも勝てたらそれでいい。出来れば俺が生きている間にそれが達成されればいいけど、哲生と周人君は同い年、そしたらきっと、孫の世代も似た年になるだろうしな」
「楽しみが増える一方だな」
「お互いに、な」
「でも勝つのは木戸だ」
「出来損ないのくせに言うなぁ」
「自分が出来損ないだから息子に夢を見る。俺が出来なかったことは周人がしてくれる、そう思う」
「お前が出来損ないで良かったよ」
「ん?」
「あれほど恨んだことだが、それもこれも将来の楽しみのためだったんだと思う」
「さんざんバカにしたくせに」
「ああ。けれど、哲生たちを見て感じたよ、あいつらは強者を引きつける。きっとこれからもっと強い奴らと出会い、戦い、高みを目指すんだろう」
「羨ましい話だ」
「ああ」
「だから夢を託せる」
「そうだな」
「俺とお前の夢の結晶だ。大事にしようや」
「そりゃそうだ」
「そんな未来に乾杯だ」
「ああ、乾杯」
コップを当てて音を鳴らし、二度目の乾杯を行った。二人の間にもうわだかまりも溝もない。あの日、あの河原で戦ったことが全てだった。勝ち負けではないものを得た。いつか息子たちもそれを知って欲しいと思う。哲也はいつでも思い出せる。あの日の心を、あの日見た、あの雨上がりの空に浮かんでいた綺麗な虹を。だから次の世代に、そのまた次の世代にすべてを託すことが出来る。あの虹の向こうに、その未来があると信じて。
これにて『くもりのち、はれ』シリーズは完結です。
といっても、姉妹編、世界観を継いだ作品や正統なる続編もあります。
ここで一旦、木戸周人は退場です。
読んで下さった方々に感謝します。
ありがとうございました。




