はじまりの予感 後編
霞む目が捉えた映像は天井とおぼしき照明だった。ぼんやりとした意識の中、後頭部にひんやりとした物を感じる愛里は自分を覗き込むようにして何かを話している雅人を見て不思議そうな顔をした。
「あれぇ?確か私・・・木戸先生と・・・・・あ、そうだ先生が外人に・・・・・・あ!」
はっきりしてきた意識と記憶に勢い良く身を起こした愛里はひどい頭痛にさいなまれて額を押さえ込んだ。
「まだ動かない方がいいよ」
そう言ってコップに入った水を差し出す雅人を不思議そうに見やる愛里はゆっくりと頭を動かして今いる場所を確認した。どうやら塾のようであり、康男と周人が近づいてくるのもはっきり認識している。
「大丈夫かい?」
康男の声に小さくうなずきながらハッとしたように周人の方を見やった。
「先生!大丈夫?変なのにやられてたから!」
「あぁ、大丈夫だよ。変なのに絡まれてやられてたところに塾長と村上が来てくれて助けられたんだ」
その言葉に康男と雅人を見やる。愛里の視線を受けて思わず顔を赤くした雅人だったが、その顔を逸らさなかった。
「君を助けてくれたのも村上だよ、お礼は彼に言うといい」
目だけを周人に向けてそれを聞いた愛里は照れたような複雑な顔をした雅人に素直にお礼を言った。そんな雅人は実際は何もせずに裏から様子をうかがいつつ震えていた自分を情けなく思いながらも、ここは周人に言われたように堂々とした態度を取っていた。周人は愛里からの好意を受け取りつつも雅人の愛里への淡い恋心も見抜いていたのだ。だからといって雅人に花を持たせようとしたわけではなく、ただきっかけをやろうとしたのだ。もちろん、見たこと全ての口止めを兼ねて。
「とにかく無事でよかった」
康男の言葉にようやく笑顔を見せた愛里は雅人にもう一度礼を言った。雅人は何も言わずにただうなずいた後、窓の外の景色を眺めている周人へと視線を向けた。さっき見た周人が別人のように穏やかであり、はっきり言って弱そうに見える。だがさっきの全てを見ていた雅人はそんな周人をどこか憧れの目で見るようになっていた。ついこの間までは愛里を巡って勝手にライバル視していたのだが、今は違う。いつかはああなりたいと思わせるほどの強さを見せられたせいか、雅人はこれをきっかけに体を鍛えようと思い始めていた。
「でも、よくわかっただろ?いくら強くても危険が一杯だってこと」
「わかったけど・・・弱い先生に言われたくない感じ?」
「ま、もっともだな」
すねたような愛里の言葉に苦笑する周人を見る康男と雅人はどこか複雑だ。あれほどの強さを見せた周人を弱いと決め付ける愛里に全てを教えてやりたかったが、それを言うならついさっきまでの自分も同じだと言える。あの戦い振りを見ていなければそう言った考えも浮かんでこなかったはずだ。そう思う雅人はとぼけた表情の周人を見て自分の強さを全く表に出さずに強さを自慢することもない周人を凄いと思うのだった。
結局、部材運びを中止した周人と康男は愛里のことを雅人に任せて夕食を取るべくいつもの居酒屋に向かった。仲良く去っていく2人の背中をほほえましく見送る周人をどこか複雑な心境で見やった康男だったが、やはり周人の心の中にいる元彼女の存在の大きさをあらためて認識させられた。愛里を危険にさらした瞬間の周人の変貌。それこそ、亡き恋人への想いの現れだと痛感したからだ。一年ほど前に桜ノ宮で再会を果たし、塾で面接をした時に今でも約束を破った自分を責めていると言った周人の言葉をさっきのことに重ね合わせれば、その答えは実に簡単に導き出される。それはどんな方程式よりも簡単なものだ。
「まぁでも、みんな無事でよかった」
ビールを口にしながらそう言う康男にそうですねと答える周人はややペースを落しながらも同じようにビールを口に含む。腹部に受けた打撃のせいもあって胃が少々機能不全のようで飲むペースも食べるペースもいつもの半分だろうか。
「でも、初めて知ったよ。復讐をしていた頃の君をね」
「もっとひどかったですよ・・・だからこその『魔獣』なんですから」
「けど、それがあるから君を信用できる」
康男の言葉が解せない周人はジョッキを置くと表情でその疑問を表現した。『魔獣』と呼ばれるほど無茶苦茶をしてきた自分の本性を知って何故信用できると言うのか。いつ生徒にも暴力を振るうかもしれないというような危機感はないのかと思う。康男はそんな周人の気持ちを表情で悟り、神妙な顔つきになってジョッキを置いた。
「誰かを守るための技だと、昔の君は言った。だがそれに反するかのように暴力を振るった君が今、その原点に戻っている」
「本当に守りたい人を守れなかった報いですよ」
「その優しさと強さで生徒たちを包んでやってほしい、こっちでも、向こうでも」
「包めるかどうかはわからいけど、精一杯やります」
にこやかに微笑む周人に康男も笑顔を見せた。周人の彼女だった磯崎恵里とデートをしていた頃の笑顔には程遠いが、それでも恵里を失って復讐をしていた頃の周人に比べれば雲泥の差がある。それを知っている康男は周人には幸せになってほしいと心から願い、そしてその手助けをしたいと思っていた。だが、今の康男には無理だ。
「西は可愛い子も多い。青山さんなんてその筆頭・・・あ、いや、もう一人いたなぁ」
何かに思い当たったのか、康男は何故か渋い顔をしながら頭を掻いた。美人がいるのに何故頭を抱えるのかわからない周人はそれを不思議に思いながらも興味がないのか、枝豆を食べながらビールを口にした。
「青山さんは大学に仲のいい美形がいるらしいから、アタックするなら早めにな」
「しませんけど」
「新城君は多分、青山さんラブだな。彼と争うのも面白いかも」
「争いませんし」
素っ気ない返事は予想通りだ。冗談でも乗ってこない周人を周人らしいと思う康男はいつか彼に恵里を超えるような素敵な女性と引き合わせたいと心から思うのだった。
いよいよ来週から周人が来ることとなり、康男は今日、生徒たちにそれを告げることにしていた。そして今日は授業が終わった後で今後の激励も兼ねて新城と恵を食事に誘ってもいた。そんな康男が送迎用のバスで生徒たちを集めてきて塾の前で下ろしていると教材を手にした新城が職員室から出てくる。そしてバスの扉が開くや否や、一人の少女が勢い良く飛び出すと新城に抱きつくほどの勢いでその目の前に立った。
「せぇんせっ!おっす!」
指を開かないピースを額のところでかざしたのは中学生とは思えないほどの美少女だ。胸元まである茶色めの髪を風に揺らせる少女はかなり大人びて見えるがまだ来月に十五歳となる中学三年生だ。胸も中学生レベルではない発達を見せるその美少女は勝手に新城の腕に絡みつくようにしてみせながらクラスメートの男子を虜にしている笑顔を向ける。
「おっす。うっとぉしいからくっつくな」
露骨に嫌な顔をする新城がその腕を振りほどこうとするが少女は力を込めてそれをさせまいとした。自慢のバストを腕に押し付けるが毎度のことなれど新城に動揺はなかった。
「だぁってぇ・・・一週間に2度しか会えないんだよ?いいじゃん」
「来週からは週一だけどな」
「ん?それ何の冗談?」
「今日説明があるけどさ、来週からシフト編成変更で俺が教えるのは英語だけ。数学は交代で俺は中二を担当だ」
「・・・・誰が決めたの?」
「塾長に決まってるだろう?」
その言葉に可愛い顔も台無しな怒った顔をした少女は腕を組んで仁王立ちすると駐車場にバスを止めている康男の方を睨みつけた。周囲は触らぬ神にたたりなしとばかりに素通りしながら教室のある3階へと向かっている。やがてバスを降りて近づいてきた康男を睨みつけた少女は怒りのあまり片方の眉がピクピク動いていた。康男は早速きたなと思いつつ平静を装っていつも通り声をかけた。
「どうした?早く教室へ行かないと」
「来週から新城先生の授業が減るってどういうこと?」
「あ、もう聞いたのか?今から説明するから、おいで」
「私は納得しない!新城先生以外の授業は受けないから!」
「好きにすればいいよ」
康男は素っ気なくそう言うと建物外部にある鉄製の階段を上っていく。しばらくその場で康男を睨みつけていた少女は怒った顔に怒った歩調でガンガン音を鳴らしつつ階段を上がっていくのだった。
康男からの発表に怒声と悲鳴、そして落胆のため息が教室に響き渡った。新城のファンクラブを自称するさっきの美少女、吾妻由衣をリーダーとした5名は露骨なブーイングをもってその発表に真っ向から意義を申し立てた。騒然となる教室の隅では由衣からのすがるような目から逃れるように目を閉じてこの雑音を振り払う新城がいる。そんな新城も康男が力任せに教壇に手の平を叩きつけた音にビックリして目を見開いた。
「これは塾の方針だ、意義は認めない。そして君たちは受験生だ、それを考慮しての編成でもある。文句があるなら直接聞こう。ただし、その教師の授業を受けてからだ!」
有無を言わせぬ大声と迫力にあれほどうるさかった教室がしんと静まりかえった。みんな康男の怖さは知っているがゆえの反応だ。だが、そんな沈黙を破ったのはやはり由衣だった。
「じゃぁその先生が無能だったら交代もあるわけね?」
「無能じゃない、その人は優秀だよ。とにかく授業を受けて意義がある場合は受け付ける。だが、正当な理由がない場合は意義は却下するからな!」
康男はそう言い残すとさっさと去っていった。新城は緊張感が残っている今のうちに授業を開始しようと全員の注目を集めながら教材を配るのだった。
職員室に戻ってきた康男は自分の席につくと大きな大きなため息をついた。そんな康男を見やった恵は読んでいた小説を机の上に置くと康男の傍にある空き机の上に腰掛けた。今日の担当である小学生の授業を終えている恵は本来であれば帰宅している時間だ。だがこのあと食事をすることにしている今日は週末とあって遅くなっても平気なのだった。
「やっぱモメました?」
「ブーイングの嵐だよ・・・あの中で木戸君がどこまで真価を発揮できるか心配になってきた」
「吾妻さんの新城クンへのラブパワーは凄いですからね・・・木戸さん、ヘコまなきゃいいけど」
「彼のことだ、ま、何とか乗り切ってくれるだろう」
その言葉に自分たちにはない厚い信頼感を感じた恵は周人のことについて聞いてみることにした。
「木戸さんって、塾長とはどういう関係なんですか?随分親しいようですけど」
「昔の教え子ってのは言ったよね?昔から彼は優秀でね。卒業してからもちょくちょく会ってはいたんだ」
そう前置きした康男は今は実家を離れて一人暮らしをしていること、そして自分からアルバイトにスカウトしたことを話して聞かせた。恵はそれらに丁寧にうなずきつつ、一つだけ質問してみることに決めてそれを口に出した。
「あの・・・木戸さん、私のこと何か言ってました?」
その言葉に不思議そうな顔をした康男は何を思ってかニヤリと意味ありげに微笑んだ。
「青山さん・・・一目惚れかい?」
「ち、違いますよ!ほら、第一印象って大事だから・・・」
「仲良くやれそうだと言ってた」
康男は少し意地悪をしてやろうかと思ったが、さすがにこの時点でそれは良くないと判断して素直に返事を返した。恵は心に引っかかっていたあることが取り越し苦労に終わってよかったような悲しいような感情を胸にそうですかと返して自分の席に戻っていった。
「電車のこと、覚えてないか・・・」
そうつぶやいた恵は思ったより声が大きかったのではと康男の様子を伺うが、康男は背伸びをしながらあくびをしていて今の言葉を聞いていないようだった。ホッとした恵は小説を手に取るとさっきの続きに目を通していくのだった。
「由衣ちゃん・・・新しい先生、追い出す気?」
授業が終わった教室を出るべく靴に履き替えていた小川美佐はトレードマークのポニーテールを揺らしながら幼なじみである由衣にそっと問い掛けた。由衣が同級生にいろいろ貢がせていることに頭を痛めているが、それ以上に新城以外の男性講師をことごとくけなし、蔑み、追い出している由衣に心を痛めていた。少し前までの由衣は素直でいい子だった、その由衣を知っているだけに今の由衣を見るのはどうにも耐えられないのだ。
「あったりまえじゃん。私はね、十六歳になったら先生と結婚するの!その障害になるものは叩き潰す!」
グッと拳を握りしめて悪女のごとくにんまり笑う由衣はどこか怖い。美佐は深々とため息をつくと付き合ってられないとばかりに早々と教室を後にした。夜空に浮かぶ星も美佐の心にかかった雲せいかどことなくその輝きも薄い。
「由衣ちゃん、このままじゃダメになっちゃうよ・・・」
悲痛な心の叫びもどうすることもできない。美佐は泣きそうな顔をしたままとぼとぼと階段を降りると出てきたバスに一番に乗り込んで顔を伏せるのだった。一方で由衣は時間ギリギリまで、それこそ康男に催促を受けるまで新城に付きまとった。そんな由衣に疲れた表情を見せた新城だったが、それをすぐに笑顔に変えて去りゆくバスに手を振るのだった。
給料の入った直後とはいえ、かなりの贅沢をしていると思う。目の前には美味しそうなお寿司が数種類並んでいる。桜町随一の繁華街である桜ノ宮の本屋にやって来た周人は夕食をちょくちょく利用する寿司屋で取っていた。といっても本格的な寿司屋のために給料日の後、しかも生活にゆとりがある時以外は来ないのだが。
「そういえば、先々週、警部が来たよ。赤と黄色の派手な髪の毛した男たち連れて」
店の主人の言葉に思い当たる節があるのか、周人はタコを口に運びながらうなずいてみせた。
「千早兄弟か・・・元気にしてんのかねぇ」
「茂樹って黄色の毛のアンちゃん、あれはなかなか男気溢れるヤツだな」
主人のその言葉に自然と周人の口元もほころんだ。今、主人が言った警部とは周人が復讐をする際に協力してくれた秋田警部であり、警視庁でも一目置かれる切れ者だ。彼がいなければ今ごろここでこうしてのんきにお寿司を食べてはいなかっただろう。そして黄色というよりは金色の髪をした千早茂樹は日本最強の暴走族ミレニアムの総長であり、復讐をしていた周人と戦い、周人に純粋に戦うことの楽しさを再確認させた男だ。なにより『キング』との決戦時には力強い味方となってくれた男だった。そして赤い髪の芳樹は茂樹の弟で同じチームの特攻隊長をしているケンカの強い男だ。こちらも『キング』との決戦の後は会うこともなく、今ではどこで何をしているかはわからない。そんなことを思う周人は店に来たその2人の事を主人と語り合い、当時のことに思いを馳せるのだった。
苦々しい顔をして書類に目を通す福山はパソコンからメールが届いた音を聞いてそちらに目を向けた。午前中の会議で『キング』に関わる全ての人物のリスト、現在の状況から個人情報におけるあらゆる情報をまとめたそのリストの作成状況と2代目『キング』の選定が難航していることを報告した際、計画そのものを見直す案がでたために昼からずっとしかめっ面で仕事をしている。そんな福山があることを調べさせていた部下からの報告メールを見てその顔を穏やかなものへと変貌させた。
「木戸無明流か・・・・・・戦国時代に生まれた武術・・・・・」
部分部分を声に出しながらアゴに手を当てて何かを考え込むようにしていた矢先、新しいメールが届いた通知が鳴り、福山はそのメールを開いた。
「江崎?さすがだな・・・俺のこのメールアドレスを嗅ぎ付けるとはな」
今、福山が見ているメールは私用でもなければ仕事用でもない。機密事項によって厳重にプロテクトを掛け、尚且つ極少数の政府高官しか知らぬ特殊なものなのだ。そのメールアドレスをどうやって調べたかはわからないが、裏社会、いや、あらゆる世界の情報ネットワークを駆使する『破滅の魔女』だからこそ出来た芸当だと言えよう。
「心配するな・・・ジャックとダニエルは処分した。感情を殺せない部下はいらん。街中で銃を撃つなどもってのほかだ」
千江美のメールの内容は木戸周人のその後の動向と事件に巻き込んでしまった少女のことに関してのものだった。結局ジャックとダニエルは福山の思惑を超えた暴走を見せたために処分、八神に至っては元の殺し屋に戻すことは出来ずに逮捕、拘束している。目的は周人の現在の腕前を知ることと、2代目『キング』に成り得るかどうかの調査だったのだ。そのために一般市民を巻き込んだことは自身も反省すべき点だが、周人を殺そうとしたり銃を発砲しようとしたりしたことは明らかな暴走行為に当たる。
「木戸周人の腕はともかく、『キング』にならないというのは同感だ」
千江美のメールには周人の腕は3年前とほとんど変わっていないという見解と、彼が『キング』には成りえない人物だと記されていた。だが福山的には腕前は期待していたよりは大したことはなく、『キング』にはそぐわない人物だと判断していた。その点に関しては意見が一致する福山は小さくほくそ笑むとソファに体重を預けるようにした。
「木戸無明流か・・・・興味深いな」
つぶやく福山は机の上に置いてあったタバコを1本取り出すと火を点けずにそれをくわえた。
「礼を兼ねて、食事にでも誘ってみるかな」
千江美の持つ情報網を利用したくて近づいたわけだが、一人の女性として興味が湧いている。確かに美人で頭も切れる上にあらゆる情報を持つ女。それ以上に、普段の彼女がどういった人物かを知りたくなったのだ。
「『魔女』の毒牙にかかってみるのも案外面白いかもしれないなぁ」
珍しく砕けた口調でそうつぶやいた福山はタバコに火を灯すとやや表情を緩めながらメールの返事を軽快なタッチで打ち込んでいくのだった。
さくら塾でのシフト編成の影響を受けない中学2年生の授業を終えた周人はいよいよ明日からと迫った西校での授業に少々ながら不安を抱えていた。人見知りをするタイプではないが、今時の子供はどこかシビアであり、ともすれば環境になじめない可能性もある。幸いなことにこのさくら塾東校ではそれもなく、バレンタインデーにはお返し狙いとはいえたくさんのチョコレートをもらうほどの人気講師となっている。向こうでもそういった感じで授業ができるよう努力することを自分に誓うが、人数もここの倍ほどとなれば多少の不安は出てくるものだ。思わずため息をついた周人がホワイトボードに書き連ねられた文字を消そうとした矢先、愛里が笑顔を振り撒きながら周人に近づいてきた。あれから数日経ったせいか、彼女の心も完全に癒えているようだった。
「先生、あっちと掛け持ちになるんだって?」
「あぁ。でも、君たちに影響はないよ」
「よかった。変な先生に当たったらイヤだったから」
可愛い笑顔を見せながらそう言われれば嬉しくもなる。周人は小さく微笑むと手際よくホワイトボードを消していった。
「ここに変な先生なんかいたか?」
「新しく入ってくる可能性もあるじゃん」
「そんな余裕があったら掛け持ちしないって」
「そっか・・・そうだよね」
苦笑する周人に自分で自分の頭を軽くコツンとやりつつピロっと舌を出す愛里はかなり可愛く見える。だからといって周人がときめくわけもなく苦笑を淡い微笑に変化させた。そんな笑みを見て思わず顔を赤くした愛里は自分を呼ぶ声に勢い良く背後を振り返った。
「新垣!早くしろよ、行くぞ!」
玄関口で靴に履き替えている雅人の言葉に膨れっ面を見せたが、すぐにそれを元に戻して周人の方へと向き直った。
「彼氏が呼んでるぞ」
「別に彼氏じゃないし・・・じゃあ先生、またね!さよなら」
愛里は照れたような笑顔を見せつつ周人に軽く手を振って玄関口へと駆けていった。あの事件以来急接近をしている愛里と雅人の関係はなかなか良好のようで、毎回雅人が愛里を家まで送っていくのが常になっていたのだった。
「村上も新垣さんも気をつけてな!」
その言葉に愛里は手を振り、雅人は無表情のままぶっきらぼうに手を挙げたがその真剣な瞳に『わかっている』という意思が宿っていた。周人は仲良く去っていく2人が閉じたドアをしばらくの間見つめていたがホワイトボードを消す作業を再開していく。
「青春だねぇ」
どこかオヤジ臭い言い方をしながら全てを消し終えた周人は大きく背伸びをしつつ窓の外できらめくパチンコ店のネオンを見つめるのだった。
見上げる天気はどんよりとした曇り空。それは自分の心を表現しているような気がしていた。天気予報では曇りのち晴れだったのだが、とても晴れそうにない。第一今はもう夕方であり、東の空は藍色の暗さをもって夕闇の到来を告げているのだ。信号待ちをしているバイクに跨ったまま、フルフェイスのヘルメットのバイザーを押し上げた。暖かな風を直に感じるがその程度の風ではとてもじゃないが心にかかった分厚い雲は吹き飛ばせそうにない。大きくため息をついた周人は信号が青に変わりそうなのを見てバイザーを下げ、クラッチを入れてゆっくりとバイクを進めながら青に変わった瞬間に爆発的な加速をもって交差点を駆け抜けた。そして先にある高架となっているさくら谷駅の交差点を左に折れてバスターミナルを横目に見ながら一路さくら塾西校へと向かう。今日から始まる掛け持ちの日々は周人の心に不安ばかりを与えてくるのだった。やがて塾の駐輪場となっている空き地にバイクを止めた周人はヘルメットをしまうと職員室のドアを開いた。
「こんにちは」
「こんにちは!木戸さん、少し早いですね」
「木戸でいいよ・・・それにタメ口でね」
背負ったリュックを何も置かれていない机の上に置いた周人の言葉に恵は照れた顔をしつつ引出しから教材を取り出す周人の手つきを見つめていた。
「木戸クン、向こうはどうか知らないけど、こっちは手を焼くと思う・・・負けたりしないでね」
何を思ってそう言ったかわからない周人は教材を机の上に置きながら大丈夫だよと笑顔を見せた。リュックをしまい、今日の範囲の部分を開く周人をまじまじ見つめてくる恵の視線が気になる周人は何気なしにそちらを見やった。
「青山さんって、彼氏とかいないんだっけ?」
「え?あ、まぁ、いないわね・・・でもなんで?」
「大学にいい人がいるとか塾長が言ってたから」
テキストをパラパラめくりつつそう言う周人にどこかしどろもどろになりながら返事を返す恵。
「いい人っていうか、まぁ仲が良くて気になる感じだったけど・・・最近は別の人が気になりだしたから・・・」
何故かもじもじした感じで上目遣いに周人を見ながらそう言うが、周人はそうなんだ、とだけ返事を返しながらもテキストから目を離さなかった。
「ところで、なんで手を焼くの?問題児だらけとか?」
「え?あ~・・・・まぁかなりの問題児が一人と・・・少々問題児がそれなりに」
突然話題を変えられた恵は多少ながら動揺しつつもしっかりと返事は返した。
「そう。ま、うまくやるさ」
さわやかな笑顔を見せる周人にどこか頼りなさを感じてしまう。本当に大丈夫なのかなと思う恵だったがすぐに康男が入って来たためにその会話も終わり、周人は康男と軽い打合せを始めてしまった。
「電車の時とは別人みたいだけど・・・この人、だよねぇ・・・」
つぶやく恵の言葉は打ち合わせ中の2人には気付かれず、恵は周人の横顔を見つめながら小さなため息をついたのだった。
康男が周人と直前の打合せを行なっているために送迎のバスを運転しているのは康男の甥にあたる新垣貴史だった。高校卒業後進路もろくに決めずにブラブラしていた貴史を康男がアルバイトとして雇い、そのままこの桜町まで連れてきたのだ。当初は一緒に住んでいたのだがそれに嫌気がさした貴史は近くの格安アパートを借りて一人暮らしをしている。だが塾だけのバイト料では家賃を払うのがせいぜいで半分は康男の家にやっかいになっている感じである。その貴史が中学2年生と3年生を連れて戻ってきた。同時にやや遅刻気味の新城が愛車である最新モデルのスポーツカーのシュヴァルベで登場した。由衣が新城にほれ込んでいるのはそのモデルのような容姿とこの高価な車にあった。駐輪場脇に車を止めた新城はあわてた様子で職員室に飛び込むと挨拶もそこそこに予習を開始する。いかんせん時間がないためにぶっつけ本番となってしまうだろう。
「じゃぁよろしく頼むよ、木戸君。新城君も2年生をよろしく頼む」
2人はその康男に元気のいい返事を返すと生徒たちがけたたましい音を立てて階段を上がるのを聞きながら教材を手に靴に履き替える。恵はこの後の授業がないためにあとは帰るのみだ。そんな恵の激励を受けた2人が外へ出ようとした時、康男が周人を呼び止めた。
「木戸君、秋までだ、秋まで頼む」
「ええ。大丈夫です、頑張りますよ」
いつになく真剣な康男に笑顔を見せる周人。恵と新城は大丈夫じゃないだろうとの予想をしつつも何も言わずにいた。とりあえず紹介をするために康人と周人が3階へ向かい、新城は2階に消えた。3階のフロアに入った2人は康男が先に教室に入り、続いて周人が入る。騒然としていた教室がしんと静まるのを心地よく感じる康男が教壇の前に立ち、その横に並んで周人が立った。もちろん全員の注目は周人の方だ。先日康男からは新城にも劣らない男前だと聞かされていたため、新城ファンクラブ会員の面々や由衣ですらも多少の期待を寄せていた。だが、今目の前に現れた男ははっきりいって康男が言うような2枚目ではない。やや目立つ左頬の傷に目が行く程度だ。
「普通・・・」
女子生徒の大半がそう思う中、美佐は周人をかっこいいと思えていた。
「今日から数学を教えてくれる木戸先生だ。向こうで実績のある先生だから教え方は文句ないよ。みんな、よろしく頼む」
別に拍手が起こるでもなく、反応の薄い生徒に少し顔をしかめた康男だったが、周人が一歩前に進んだためにその顔を元に戻して周人を教壇の前に立たせる仕草を取った。
「東校から来ました、木戸です。木戸周人。しばらくの間と思いますがよろしくお願いします」
そう言って丁寧に頭を下げた周人を睨むようにしていた由衣が体を斜めにして座りながら短めのスカートから太ももが覗くのもかまわず足を組んで大きな態度を取った。
「しゅぅ~とぉ?サッカーかよ!」
吐き捨てるようにそう言う由衣を見やった康男は早速来たなと思いながらも知らん顔をした。そんな由衣を見る周人にも何の変化も見当たらない。周人はふんぞり返る由衣を見てこの子が恵の言っていた問題児だなと思いながらもそれを表情や態度に一切出さなかった。
「別にバスケでもいいけどな」
普通にそう返した周人にカチンと来たのか、由衣は周人を睨みつけるようにして奥歯を噛み、露骨にむかついたという顔をする。そんな由衣を見て小さく微笑む周人を見た生徒たちはなかなか歯ごたえのあるヤツが来たと思うのだった。
「くっだらないっ!」
ゲーッとばかりに舌を出しつつそう言った由衣を見る周人はさっきと変わらない状態で立っている。そんな周人を見た康男はこの周人ならば由衣を正しい道へと引き戻せるのではないかと思っていた。以前から由衣の態度を問題視しており、尚且つ少し前の素直な由衣を知っている康男にしてみれば今の由衣の状態を何とかしたいとも思っていた。周人を掛け持ちさせたのは他に適任者がいなかったせいだが、この由衣のことに関しても周人以外の適任者はいないと思える。康男は授業を開始してくれとの言葉を残し、周人の肩をポンポンと叩いてから教室を後にした。
「んじゃ、ま、始めますか」
とぼけた口調が余計にむかつく由衣はその日は終始周人を睨むようにしながらも無言を貫いて終わったのだった。
新城の時とは違ってさっさと教室を後にした由衣は2年生の授業を終えて一服している新城の元へと駆け寄っていった。相変わらず腕にしがみついて可愛い笑顔を振り撒く中、周人はそんな2人を横目に職員室の中に消えた。
「木戸先生の授業はどうだった?」
その新城の言葉にお尻をフリフリしていた由衣はその動きを止め、新城から腕を放してそれを組むと膨れっ面をしてみせた。
「どうもこうもないよ!サイアクだね、サ・イ・ア・ク!うっとーしぃし!新城先生の方が教え方も上手いし、元に戻してよぉ!」
まるで答えになっていない返事に苦笑するが、相変わらずだとため息をつくしかない。
「それは塾長が決めること。ま、そのうち慣れるよ」
「慣れないし・・・ウザイし」
吐き捨てるような言葉に嫌悪感を抱くが、ことこの子に関しては無視を決めている新城はあえて何も言わずに煙を揺らす。そんな新城のすぐ横にある職員室の中では周人がいつもにはない疲れた顔をして机の上につっぷしていた。
「問題児っていうか・・・最悪じゃないか」
普段通りの授業はできたものの、由衣のおかげで数倍疲れた感じがする。これが毎週かと思うとぞっとするが、負けられないという気持ちもまた湧いてくる。
「他のバイトが辞めるわけだよ・・・」
苦笑気味にそうつぶやいた周人はバスが出てきた音を聞いて重い腰を上げたが、やはりその足取りは重かった。
一番にバスに乗り込んで来た美佐に気付いた康男は奥へ向かおうとする彼女を呼び止めた。
「木戸先生の授業はどうだった?」
「私の感想でいいんですか?」
「君なら客観的な意見をくれると思っての質問だよ」
にこやかにそう言う康男に小さなため息をついた美佐は自分が感じたことを素直に口にした。
「教え方はすごく良かったと思います。テンポも良かったし。何より由衣ちゃんの攻撃を受け流すのが凄かった」
その美佐の言葉に感心したような顔をする康男。それは美佐が実によく周人を見ていたということと、周人が由衣をうまくやり過ごしたということから出た表情だ。
「小川さん的には木戸君は全然問題なかったわけだね?」
「はい」
「ありがとう」
笑顔でお礼を言われた美佐は軽く頭を下げてからバスの後方に向かい、1人用の椅子に腰掛けた。康男は他の生徒に早く乗り込むように急かしつつのっそりと姿を現した周人を見て意味ありげに口の端を吊り上げた。
「おう、お疲れさま」
「どうも」
新城からのねぎらいの言葉もそこそこに鉄製の階段によっこらしょと腰掛けた周人はポケットから取り出したタバコに火をつけてぼんやりとその煙を眺めていた。そんな周人の態度がどうにも許せない由衣は周人の正面に立つと腰に手を当ててふんぞり返るような態勢をとった。
「おっさんくさいヤツねぇ~。たった2時間程度でもうバテたわけぇ?」
そう言われた周人はぼーっとした視線を由衣に向けたものの何も言わず、何の反応も見せなかった。
「ジジイね」
腕組みした由衣は軽蔑したような口調と表情で周人を蔑むが、当の周人はうまそうにタバコの煙を吸い込んでいる。並みの神経じゃないなと思う新城は残るは由衣だけとなっている事に気付いて早くバスに乗るよう急かした。そんな新城の言葉にゆっくりと立ち上がった周人は由衣へと目をやる。
「気をつけてな」
「余計なお世話!」
さすがにその態度にカチンときたのか新城が声を上げようとした矢先、周人が由衣の前に立った。
「そりゃ悪かった」
すっとぼけたその言い方と表情にキッと周人を睨んだ由衣は新城に挨拶もせずバスに向かって駆け出した。そんな由衣を含めた生徒たちにひらひらと手を振る周人を只者じゃないと思う新城だったが、ただ単に何も考えていないだけかもしれないとも思うのだった。
「こりゃなかなか楽しみになってきた」
由衣が早足で乗り込んだ後、そうつぶやいた康男はクラクションを2度軽く鳴らしてからゆっくりとバスを発進させていく。
「何かが起こりそうな予感がするよ、木戸君には悪いけどさ」
手を振る新城と周人に向かって手を振り返す康男がつぶやく中、周人は携帯用の灰皿に灰を落としながらどんよりとした天気の夜空を見上げる。
「前途多難だな」
ため息混じりにそう言う周人に苦笑した新城はそんな周人に同情しつつ、仲良くやろうと右手を差し出し、周人もまたその右手をガッチリ掴んで固い握手を交わすのだった。
かつて『魔獣』と呼ばれた伝説にして最強の男がいた。最愛の人を理不尽な理由で殺され、全てを捨てて復讐を遂げたその最強の伝説はまだ終わらない。
少し前までは素直ないい子だった。年齢に似合わぬ大人びた容姿とアイドルを超える美貌を持ったその少女は今や歪んだ目で世の中を見ている今時の子供だ。
そんな2人がここで出会ったのは運命に他ならないだろう。
木戸周人、この時20歳。
吾妻由衣、この時14歳。
互いに最悪の印象で出会った2人が恋に落ちるのはそう遠くない未来である。




