6.黒猫の奴隷
「いや……誰か、助けて……」
行き止まりとなった洞窟の奥深く、涙混じりの声で助けを呼ぶ、一人の少女がいた。
年の頃はおよそ13、4。
濡れ羽のような黒髪に、暗闇の中で薄らと輝く黄金の瞳。
冒険者としてもあまりに粗末な衣服に、首には無骨な鉄製の枷。
そして、ぴんと立った三角の耳と尻尾は、彼女が猫の獣人であることを示している。
「グルルルルッ」
彼女の前に立つのは、優に身の丈3メートルはあろうかという、巨漢の魔物だった。
彫像のような筋骨隆々とした肉体を、野獣の如き剛毛が覆い。
丸太のような腕には、人の体など易々と両断できそうな両刃の大斧を携えている。
しかし、何よりも特徴的なのは、その魔物の首から上が紛うことなき雄牛のそれであったことだ。
ミノタウロス。
魔物の中でもとりわけその凶暴さ、残忍さ、そして剛力によって知名度の高い種である。
「グルルルルル……ッ」
「い、いや、来ないで、来ないでっ」
ずしん、ずしん、と重い足音を響かせ、牛頭の魔物が少女に迫る。
まるで、怯える少女の姿を愉しむかのような鈍重さで。
少女は必死に後ずさろうとするが、退路は無慈悲にも土壁に塞がれている。
ここまで逃げてくる途中で挫いたのだろう、その足首は痛々しいほどに腫れ上がっており、走ることもできない。
「グルル……グ、フフ」
牛頭の口元が笑みのように歪められたように見えたのは、少女の恐怖ゆえの錯覚か。
いよいよ獲物を追い詰めたミノタウロスは、少女の目前でゆっくりと巨斧を振り上げる。
まるで手入れのされていない、刃毀れと錆の目立つボロボロの斧。
しかしその重量と魔物の怪力は、ただそれだけで少女に必殺の一撃をもたらすだろう。
少女にそれを回避する術はない。
迫り来る"死"を、ただ受け入れることしかできない。
「いや……いや……」
「グルルルルルッ!!」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
ミノタウロスが雄たけびと共に斧を振り下ろした瞬間、少女は思わず瞼を閉じた。
避けられぬ絶望と死から、せめて目を逸らすために。
そして静寂が訪れる。
一瞬か、一秒か、あるいは数秒か……少女にとって、それは永遠にも等しい静寂だった。
「……………………?」
ふと、少女は訪れるはずの痛みが、いつまで経っても来ないのに気付く。
あるいは痛みすら感じる間もなく自分は死んでしまったのか、とも考える。
だが、挫いた足首が訴えるズキズキとした痛みが、まだ生きていることを教えてくれた。
少女は、恐る恐る瞼を開く。
そして、そのまま目を見開いた。
「え……?」
ミノタウロスの首から上が、無かった。
胴体だけが、力なくその場に棒立ちになっていた。
死んでいる。
魔物と言えども生物だ。首を刎ねられても生きている種など、そうはいない。
その象徴たる牛頭を失ったミノタウロスは、誤解の余地無く絶命していた。
だけど、何故? 何が、いや、誰が?
瞼を閉じた一瞬の内に起こった魔物の死に、少女が感じたのは安堵よりも困惑だった。
垂れ下がった魔物の腕から、ガラン、と音を立てて斧が落ちる。
その後を追うように、絶命した魔物の骸は魔力となって霧散していく。
そして……散っていく光の粒子の向こう側に、少女は見た。
残心の構えを解き、ゆっくりと刀を鞘に納める、一人の少年の姿を。
「あ……」
少女と少年の目が合う。
呆けたようにへたり込んだまま少年を見上げる少女に対し、少年は安堵の笑みを浮かべて。
「良かった。間に合ったみたいだ」
少女は、その少年から目を離すことができなかった
――これが、彼女の運命を変える出会いだった。
ダンジョンの中を全力疾走で駆け抜けた先にいたのは、牛頭の魔物に襲われる女の子だった。
あと少しでも遅れていたら、彼女は命を落としていただろう。あの大斧の一撃を食らえば、およそマトモな死体が残るかすら怪しい。
……間に合って本当に良かった。
「【身体強化】解除」
体を覆っていた魔力の光が消えると同時に、脱力感が全身を襲う。
この魔術、身体への負担もそれなりに大きいから、乱用はしたくないんだよね。だからゴブリン戦では使わなかった。
まあ、今回は緊急時だったから仕方ない。
「ケガはない?」
僕は彼女を怖がらせないように、なるべく優しい声を心がけて話しかける。
なにしろ命の瀬戸際だったのだ。ヘタに刺激するとパニックを起こすかもしれない。
「え、あ……えと……」
彼女はまだ困惑しているようで、黒い耳と尻尾が所在無さげにぴこぴこと揺れている。
猫の獣人か。町でも見かけたけど、こうして近くで見るのは初めてだ。
なんとなく彼女を観察していると、片方の足首が大きく腫れているのに気付いた。
おそらくは捻挫だろう。命に別状はないだろうけど、一応治しておくかな。
「ちょっと、いいかな」
「え? あ、あの、何を」
「大丈夫、治療するだけだから」
警戒する彼女にゆっくりと近付き、患部にそっと手をかざす。
「【治癒】」
「きゃっ……あれ、痛みが、消えて?」
白い光が患部を包み、腫れがみるみるうちに引いていく。
「これでよし。立てる?」
「は、はい。ありがとう、です」
か細い声でお礼を言いながら、恐る恐る少女が立ち上がる。
……と、丁度そのタイミングで、後ろから二人分の足音が聞こえてきた。
「や、やっと追いつきました……」
「ウィル、走るの、速い……」
息を切らせながらリーアとファルがやってくる。
二人とも少し怒っているようだ。まあ、当然か。
「置いていかないでくださいよ、もう」
「ごめん。つい身体が動いちゃって」
「急を要する事態、なら、仕方ない……けど、せめて一言、言ってからに、して……」
「次からは気をつけるよ。本当にごめん」
独断専行がパーティからの信用を損ね、時に仲間を危険に晒すってことは、僕にも分かる。
初めての探索で申し訳ないことをしたと、僕は二人に深く頭を下げる。
「まったく。まあ、今回は許しますけどね。本当に緊急事態だったみたいですし」
溜め息を吐きながら、リーアが牛頭の魔物のいた地面から何かを拾い上げる。
淡い輝きを放つ透明感のあるその石は、彼女の握り拳くらいの大きさがあった。
「これだけ純度の高い魔石……相手はかなり強力な魔物だったようですね」
「斧を持った牛頭の魔物だったよ。不意を討てたから苦戦はしなかったけど」
「なるほど、ミノタウロスですか。それでこの子は……」
リーアが黒猫の少女を見る。
より正確には、彼女の首に付けられている鉄の首輪を。
「それ、奴隷用の"隷属の首輪"ですね。主人に置き去りにされましたか」
「奴隷?」
「たまにいるんですよ、冒険者にも奴隷を所有する人間が。大抵は荷物運びや雑用、あとは魔物相手の肉壁に使うためですけど」
「じゃあ、この子は……」
「主人に、魔物から逃げるための囮になれとでも命令されたんだと思います。"首輪付き"の奴隷は主人の命令に逆らえませんから。違いますか?」
リーアの問いかけに、少女は無言でこくりと小さく頷いた。
奴隷、か。制度としてそういうものがあることは勿論僕も知ってる。けど、実際にその扱いを知るといい気分はしない。
囮にされたこの子は、ミノタウロスに追われて必死にここまで逃げてきたのだろう。危険なダンジョンの中を、たった一人で。
仮に止むを得ない事情があったのだとしても、不快感は拭えない。
ファルとリーアも気持ちは同じようで、嫌悪感が顔に出ている。
「わざわざ"首輪付き"の獣人を使役するような、連中……絶対、ロクな奴らじゃ、ない……」
「まったくですね。酷い話です」
「そうだね。けど今はとりあえず、この子を外に連れて帰らないと」
「連れて行ってくれる、ですか?」
黒猫の少女が問いかける。
期待と不安、それと恐怖がない交ぜになった表情で。
「わざわざ助けておいて、ここに置いていくほど薄情じゃないよ。いいよね、リーア、ファル」
「勿論です! って、言いたいところですけど……」
「……その首輪、どうにかしないと、マズいかも」
「そうなの?」
「隷属の首輪は奴隷に強制的に所有者の命令に従わせる魔術がかかっています。同時に、逃亡防止の魔術もかかっているので……」
「……主人の元を離れて、一定時間が経つと、首輪が締まる」
「趣味が悪いね」
奴隷を自分の元から離れられないようにするための、正しく"首輪"というわけだ。
この子を囮にした連中は、どう転んでも死ぬと知った上で、彼女を置き去りにしたことになる。
「じゃあ、この首輪を外せば問題はないわけだ」
「けど、隷属の首輪は一つ一つが専用の鍵がないと外せないんです。鍵は所有者が持っているでしょうし、強度も強化されていて……」
「なら、壊すだけだ」
僕は黒猫の少女の前に立つ。
少女は、一体何をするのかと恐る恐る僕の顔を見上げている。
「少しだけ、じっとしててくれるかな。怖ければ目をつぶっていてもいい」
「……はいです」
信用してもらえるか不安だったけど、思ったよりすんなりと少女は従ってくれた。
耳をぺたんと伏せて、ぎゅっと目をつぶりながらぴんと立つ。
「ウィルさん、何をするつもりで……」
「――斬る」
一閃。
居合の構えから放たれた斬撃は、狙い過たず少女の首筋を捉え――キンッ、と硬質な音を立てて、少女の首輪だけを切断した。
「へ?」
「……うそ」
呆気にとられたような声を出すリーアとファル。
僕が刀を鞘に納めるのと同時、二つに割れた首輪がごとん、と地面に落ちた。
「もういいよ」
「え? 今、何が。って、首輪、なくなってる……?!」
目を開けた少女が、露わになった自分の首をぺたぺたと触る。
もちろん、少女の身体には傷一つ付けていない。
「ど、どうやったんですか、今の?」
「どうやったって……普通に斬っただけだけど」
動揺するリーアの質問に、僕は首をかしげながら答える。
別に特別なことはしていない。斬るべきものを斬り、それ以外のものを斬らなかっただけ。
父さんから学んだ剣術の基礎の一つだ。
「魔力強化された硬質化金属……術式ごと、完全に切断されてる……」
一方のファルは、首輪の残骸を拾ってぶつぶつと何か呟いていた。
……何かマズいことやっちゃったんだろうか、僕。
「え、ええと。ともかくこれで彼女を連れ帰っても問題ないよね?」
「え、あ、はい。それは大丈夫だと思います」
「……問題は、ない……」
なら、良かった。
ほっとした僕は、まだ困惑している少女にそっと手を差し伸べる。
「僕の名前はウィル。君の名前は?」
「……シィ、なのです」
おずおずと重ねられる少女の手。
白く小さなその手をそっと握って、僕は微笑んだ。