16.使命
本日は2話分割投稿です。
よろしければ「15.守護者」を先にご覧ください。
ダナン王国――
かつて、大陸の北方にて栄華を誇ったその島国の名を、今も知る者は少ない。
決して広くはないが豊かな国土と、勤勉で高潔な国民性、そして上古の時代から伝えられた神話の遺産と魔法の技術によって支えられた、高い国力。
それを統治する王族は古の神々の血を引くとも言われ、己の国民から愛され、他国からも敬意をもって接せられていた。
そんな歴史ある強国ダナンの名は、現在の地図のどこを見ても存在しない。
20年前――"人"と"魔"が互いの生存を賭けて争った先の大戦にて、ダナン王国は"魔王"の軍勢の襲撃を受け、滅亡したのだ。
王家に伝わりし神剣を手に、自ら最前線で戦った国王ファリアス4世は、"魔王"を相手に壮絶な戦死を遂げ。
騎士も魔術師も国民たちも、無尽蔵に押し寄せる魔物の大軍に果敢に立ち向かうも、抗しきれず散っていき。
僅かに生き残った者たちは、悲しみと屈辱を胸に"魔王"に占領された故国から逃れるより、他になかった。
大戦そのものは"勇者"とその仲間たる英雄たちが、その命を賭けて"魔王"を討伐したことで終結した。
だが戦争の爪痕は深く、旧ダナン王国の領内には今だ無数の魔物が蔓延り、到底人が住むことのできない状態が続いている。
――いつの日か、故国の再興を。
それが、国なき民となった旧ダナン王国の人々の願いだった。
彼らには希望があった。
それは、王国の象徴たるダナン王族の血を継ぐ者。
戦火を生き延びた先王ファリアス4世の弟と、王妃ミディアの間に生まれた、双子の姉妹。
リーア・ファリアス・デ・ダナンと、ファル・ファリアス・デ・ダナンの二人が。
――彼女たちの人生は、産声を上げた瞬間から"使命"と共にあった。
それはダナン王国を再興するという、旧王国の民と臣下、そして父と母から託された願いを果たすこと。
そのために、二人には王族の姫として必要な、ありとあらゆる教育が施された。
一般的な教養、語学、数学、哲学、神学に始まり。
旧王国の歴史、文化、地理、制度、経済、法律――帝王学から剣術に至るまで。
物心つく以前から、洗脳に近い量の教育を彼女らは受けてきた。
彼女たちが生まれた時、すでに王国は滅亡し、"魔王"との大戦も終結していた。
大人たちが口々に語るかつての王国の栄華の姿を、彼女たちは知らない。
それでも「"使命"を果たせ」と。
見たこともない故郷のために、会ったこともない民たちのためにその人生を捧げよと、彼女たちを取り巻く人々は強要する。
――それは、もはや呪いに等しい。
――決して破れぬ誓約を、彼女たちはその心と体に刻まれたのだ。
彼女たちが13歳になった年。
大戦を生き延びた王族の最後の一人であった母が、息を引き取った。
リーアとファルは、王家の血を引く最後の生き残りとなった。
今だ若い身で、彼女たちは使命のために大陸中を奔走した。
だが、各国の君主に謁見し、国土奪還のための支援を要請するも、折り良い返事は得られず。
兵や資金を集めようにも、まだ若く、滅びた王家の血統以外に何も持たぬ彼女たちを援助する物好きはいなかった。
大戦終結から、すでに20年近く。
大陸の人々の心は戦後の復興から、今ある平和を謳歌することに移りつつあった。
ダナン王国など、彼らにとってはもはや過去の存在だったのだ。
――このままでは、使命を果たせない。
2年間、何一つ成果を得られない日々を重ねたある日、リーアは決断する。
今の自分たちは名も力もない、ただの小娘でしかない。
王国再興のためには、自分たちの名を大陸に知らしめる必要がある。
そのためにリーアは、妹とともに冒険者となった。
冒険者ならば年齢も性別も身分も過去も関係なく、己の実力ひとつで成り上がれる可能性がある。
一介の農民だった冒険者が、数々の偉業を経て王国を築いた例も、歴史には実在するのだ。
そして、彼女たちは"迷宮都市"ファースを訪れた。
今だ踏破されぬ迷宮の"守護者"を討ち果たせば、必ずやその名は轟く。
その名声を糧として、王家再興の第一歩を踏み出す。
これは、そのための戦いだ。
だから、決して負けられぬ戦いなのだ。
「は、あああああああッ!!!!」
裂帛の気合を込めて、リーアは大蛇目掛け大剣を振るう。
9つある首の一つを狙って放たれた斬撃は、ギンッ!! と硬い音を立てて相手の鱗を抉る。
――硬いっ!
並の魔物とは桁違いの防御力。
鱗は削れても肉に刃が届いていない。
『どうした、その程度かッ!!』
脳裏に響く声と共に、二本の首が左右から同時に襲い掛かる。
杭のように太く長い牙が、少女の身体を食い千切らんと迫る。
「くっ!」
リーアは紙一重で一方の首の攻撃をかわすと、もう一方の首を大剣で受け止める。
牙と剣が鍔迫り合い、膂力と質量の差でリーアが吹き飛ばされる。
「重い……っ!」
体制を整えて着地するリーアに、すぐさま次の首が襲い掛かる。
複数の首を利用した隙の無い攻め。
それでいて、すべての首を一度に攻撃に使用することはなく、常に何本かは不測の事態に備え温存している。
実に狡猾で効率的な戦法だった。
『貴様の力はもう限界か? 存外つまらぬな』
「まさか……ここからが本番ですよ」
退屈だと言わんばかりのヒュドラの呟きに、リーアは不敵に答える。
次々と襲い来る首と牙をさばきながら、彼女は自らの剣に意識を集中させていく。
リーアの魔力が、剣に流れ込んでいく。
その手の中で、剣がかたかたと震えだす。
「目覚めよ、【クラウ・ソラス】ッ!!」
高らかに剣の名を唱えた瞬間、刀身から眩いばかりの光が放たれる。
それは室内全体を明るく照らし出し、ヒュドラの目を眩ませた。
『この、光は……そうか、その剣、我と同じく、神代の遺産か……っ?!』
「その通りっ!」
これぞ、神代の時代よりダナン王家に伝えられし神剣。
王家の血を引く者だけが手にできる宝剣。
かの"魔王"にさえ傷を負わせた、絶対必断の聖剣。
「神剣よ、断ち切れッ!!」
光に包まれた剣を、渾身の力で一閃する。
その刃はリーアの手にまったく抵抗を感じさせぬまま、ヒュドラの鱗と肉を断ち、その首を宙高く刎ね飛ばした。
『ガ……ッ!』
9本の首のうち1つを失ったヒュドラが、初めて苦悶の声を上げる。
失われた首の断面から、滝のような鮮血が溢れ出る。
「いける……っ!」
追撃のために踏み込もうとしたリーアの足が、不意に止まる。
ぞぐん、と。
心臓の奥から何かを奪われる感覚。
神の遺産を人の身で振るうことの代償。
真の力を目覚めさせた神剣は、使い手の魔力と命を奪っていく。
「……まだ、まだぁっ!!」
虚脱感を気力で捻じ伏せ、リーアは駆けた。
討つべき敵の首級へと、剣を振るう。
『グ、ゥ……!』
二本目の首が宙を舞う。
神剣にさらなる魔力を喰わせながら、リーアは三本目の首も刈り取らんと――
――その瞬間、横殴りの衝撃が彼女を襲った。
「――――ッ?!」
骨と内臓の軋む音が聞こえた。
吹き飛んだ少女の身体は、何度も跳ねながら床を転がる。
辛うじて衝撃から意識を保ったリーアは、苦痛を無視して即座に体を起こす。
そして見たものは、ヒュドラの首と胴を守るように前方に伸ばされた大蛇の尾。
首による攻撃にばかり気をとられ、他の部位の注意が疎かになっていた。
攻勢に逸ったところを、あの尾に弾き飛ばされたのか。
『見事だ、娘よ。この身、幾度の傷を負うことはあれど、首を落とされる事など何百年ぶりか』
二本の首を失いながら、ヒュドラの声は今だ余裕に満ちていた。
顔をしかめながら、リーアは再び剣を構えなおす。
「すぐに残りの首も落としてやりますよ。覚悟しなさい」
身体は動く。
神剣の光も今だ消えてはいない。
リーアの魔力が尽きれば、神剣は再び眠りにつくが……それまでにヒュドラの首を落としきる時間は十分にあると、彼女は判断する。
だが、再びリーアに神剣の刃を向けられてもなお、ヒュドラの態度が揺らぐことはなかった。
『その気概、そしてその剣を操る資格と技量については、素直に賞賛しよう――だが、まだ足りぬな』
「なに?」
『確かにその神剣であれば、我の鱗と肉を断つは容易かろう。だが、我を殺すにはまだ足りぬ』
「なにを言って……!?」
怪訝そうに眉をひそめたリーアの表情が、次の瞬間、驚愕に染まる。
二本の首を失ったヒュドラ。その断面から血が止まり、肉が盛り上がり、鱗が覆っていく。
顎が形作られ、牙が生え――ぽっかりと開いた四つの眼窩が、下を向く。
『こういう事だ』
ぎょろり、と。
再生した四つの眼球が、リーアを睥睨した。
【再生】。
一部の魔物が有するという、驚異的な肉体の治癒能力。
だがそれは通常、失った四肢を数時間から数日かけて生やす程度のものである。
脳や心臓などを含む重要器官を一瞬で再生するなど、常識では考えられない。
『創造主より、我は限りなく不死に近い肉体を授かっている。首の一つや二つ落とされた程度で支障はない』
「っ……なら、再生されるよりも早く、首をすべて落としてしまえば……っ?!」
揺らぎかけた心を叱咤し、駆け出そうとするリーア。
その視界が、不意にぐにゃり、と歪んだ。
「な、に、これ……?」
身体が、思うように動かない。
目は霞み、指先は震え、呼吸と鼓動は異常に激しくなる。
戦闘の疲労に、神剣使用の消耗があっても、ここまでの不調は起こらないはずだ。
だが、本人の「まだ戦える」という認識とは裏腹に、彼女の身体は苦悶を訴える。
『そして、貴様が勝てぬ理由がもう一つある』
「なん、ですって……」
なんとか体勢を保とうとするリーアは、ふと周囲の異変に気付く。
霧だ。
この部屋に最初に踏み込んだ時に立ち込めていた紅い霧が、広がっている。
晴れかけていたはずのそれが、再び濃くなっていたのだ。
この霧が、突然の不調の原因なのか?
そこまで思い至った所で、リーアはある結論にたどり着く。
「まさか、毒……!」
『正解だ。さらに言うならば、この霧は我が流した血よ』
リーアがヒュドラの首を落とした際に流れた血。
それが霧となってこの部屋を覆い尽くしているのだ。
そして、ヒュドラの血はあらゆる生物の命を蝕む、猛毒だった。
これが"鋼獅子の旅団"が敗北した理由である。
ヒュドラに傷を負わせれば負わせるほど毒の霧は濃くなり、自分の首を絞めることになる。
"無疵"の二つ名を持つ冒険者も、ヒュドラの牙を防ぐことはできても、毒に耐えることはできなかったのだ。
「なん、の……こんな、毒くらいで……」
急速に蝕まれていく身体で、それでもリーアは駆けた。
残された気力と体力を振り絞って、攻撃のみに意識を集中する。
毒が回りきる前に決着をつける。
それ以外にもはや勝機はない。
「せ、やあああああああっ!!」
彼女は全身全霊の力を込めて、神剣を振るう。
だが、その斬撃は明らかに精彩を欠いていた。
『――遅いわ』
大蛇の尾が、再びリーアの身体を吹き飛ばす。
「っ、が……!」
壁に叩きつけられた衝撃で、彼女の手から神剣が落ちる。
使い手の元を離れた剣は光を失い、からん、と音を立てて床に転がった。
「ま……まだ……っ」
リーアは必死に神剣へと手を伸ばそうとする。
だが、毒と戦闘のダメージの蓄積した身体は限界に達し、立ち上がることすらできない。
『ここまでだ。若き剣士よ』
芋虫のようにもがくリーアを見下ろしながら、ヒュドラは告げる。
その声音は、戦いの決着を惜しむようでもあった。
『貴様はよく戦った。意志も実力も、あるいは我に届きうるものであった。だが、未熟だな』
「うるさい……私は、まだ……っ、ごほっ!」
咳き込んだリーアの口から、赤黒い血が溢れる。
毒の影響か、先の一撃で内臓を傷つけたか……あるいは両方か。
『功を焦り、備えを怠った結果が、今の貴様の姿だ。あるいは貴様に仲間がいれば、違う結果になったやもしれんが』
ヒュドラのその言葉が、リーアの胸に突き刺さる。
反論のしようもない事実だった。
功を焦り、備えを怠り……仲間を置いて、たった一人で無謀な戦いに挑んだ。
――結局、間違っていたのは、私のほうか。
いや。そんなことは最初から分かっていた。
正しかったのは、皆のほう。
使命に取り憑かれ、功を焦る自分を心配し、宥めようとしてくれた。
そんな皆の優しさを振り払って、一人でも行くと決めたのは自分。
それが間違いだと分かっていても、それでも使命を果たすために。
そして、何よりも。
「……仲間、なら……こんな……」
『……?』
「こんな、危険な、道に……仲間を、巻き込めないじゃ、ないですか……」
脳裏に浮かぶのは、この街に来て最初の日の出会い。
強くて――そしてお人好しな、剣士の少年のこと。
初めてだった。誰かに助けられるなんてこと。
初めてだった。誰かに「仲間」と呼ばれたこと。
彼に出会って、シィに出会って、二人きりが四人になって。
それからのこの街での日々は、楽しかった。
ほんの束の間、使命のことを忘れられるほどに。
最初は、ただの戦力として利用するつもりだった。
信頼なんて求めていなかった。
なのに、彼は貸し借りなしだと言った。
こんな私を信じて、協力すると言ってくれた。
そんな彼だからこそ――巻き込みたくないと、思ってしまった。
「ファルも……本当はずっと、解放してあげたかった……」
同じ日に生まれ、同じ使命を果たすために育てられた妹。
彼女の存在は、辛く苦しい日々の唯一の支えだった。
いつしか彼女を守ることが、使命に並ぶ生きる理由になっていた。
――……やめよう、お姉ちゃん。
妹の言葉を思い出す。
思えば、彼女と意見が分かれたのはこれが始めてだったかもしれない。
使命へと突き進もうとする自分を、妹は止めようとした。
なら、彼女は自分とは違う道を進んでいける。
「だから……この使命は、私一人で成し遂げよう、って……そう思ったのに、な……」
結局、このザマだ。
身体の末端から感覚が消えていき、視界も徐々に暗くなっていく。
もう、指先ひとつ動かすこともできない。
『――強き娘よ。せめて安らかに眠れ』
ゆっくりと、ヒュドラの首がリーアに迫る。
これ以上毒の苦しみを与えることなく、牙の一刺しでその命を奪うために。
「……ごめんね、みんな」
迫り来る死の牙を前に、リーアはそっと瞼を閉じた。
使命を果たせなかった後悔と、仲間への心残りを抱いて――
「まだ早いよ、リーア」
声が、聞こえた。
優しく、力強く、少し怒ったような声が。
「え……?」
その声に導かれるようにして、リーアは再び目を開く。
そこには、彼女を庇うようにヒュドラの前に立つ、彼がいた。
「謝るのは、ここから帰ってからにしてもらおうか」
「ウィル、さん……どうし、て……?」
「追ってきたに決まってるだろ。みんなも一緒だ」
「お姉ちゃんっ!」
「リーアさんっ!」
リーアの後ろから、二人の少女の声と足音が聞こえる。
ファルと、シィだ。
二人とも、目に涙をいっぱいに溜めて駆け寄ってくる。
「みん、な……?」
戸惑う少女に、彼は振り返って。
「言いたいことも、謝ってほしいことも沢山あるけど――」
――間に合って良かった。
そう言って、彼は笑った。
『貴様ら、何者だ?』
決着の直前に現れた乱入者に、ヒュドラは唸る。
彼は静かに刀を抜くと、その表情から笑みを消し、告げる。
「僕は冒険者、ウィル・ランドール――大切な仲間を、助けに来た」