九章
気絶した侵入者を彼が近くにあった縄で捕縛している間、私は近くにあったよくわからないモニュメントを蹴り飛ばして、行かれた頭が作り出した言語で書かれた書類の束を壁に向かって投げた。激しく動いたせいか、また胸部の痛みが増していた.ウイスキーの瓶を取り出し、残りを一気に飲もうとした。しかし、中の液体は胃に入る前にほとんどむせ返って吐き出してしまった。
「糞ったれ!」私は誰に向かってでもなく叫んだ。彼はその様子を黙って見つめていた。
「やっぱり上手く行きすぎだと思っていたんだ。こんな幸運私には不似合いだと思った。それでも何かが変わったのかもしれないと思ってここまで来たが結局ダメだった。いつだってそうだ。幸運は終わりまで続かない。私に幸運だと思わせといて、最後に私をどん底に突き落とすんだ。いいさ、どうせこうなる運命だったんだ。もう何にも期待してはいけない、今回の件でそれを学んだよ」私は壁のほうに向かって吼えた。誰かに返事をしてもらいたかったかどうかはわからない。
「落ち着けよ。まだたったの一軒目じゃあないか。また最初の捜査の段階から始めればいい」彼は言葉を続けようとしていたが、私の大声に遮られた。
「少し黙っていてくれ。そんな事をしている間に俺の金はどこかの曖昧宿か、お薬代として旅立ってしまうんだ。もう勝負はついた。私の負けだ。放っておいてくれ。そしたら私はどこかで骨になれる」
「そこらへんに落ちている機械とかを売れば結構な金になるかもしれないぞ?この男はこっちで預かるけど、ここにある物は見なかった事にして全部君のものにする事が出来る」
「ダメだ。ここにあるものは全部こいつの手が加えられている。これを売りに行くなら、電機屋じゃなくて、鉄くず屋になるだろう。もうどうにもならない。さようならだ。君はまだここでやる仕事があるだろうが、私はお先に失礼させてもらう。私のことは忘れてくれ」そう言い残して私はドアを開けて奇妙な宇宙人の前線基地予定だった場所から脱出した。後ろから何か言っているのが聞こえたが、酔いのせいか聞き取れなかった。帰り道はわからなかったが、恐らくどうにかなるだろう。ならなかったとしてもどうでもよかった。私は光を放っている施設からだんだんと何も見通せない闇の中へ歩みを進めていった。
途中の道のりには何箇所か弱い明かりがあった。恐らく焚き火をしているのだろう。換気は上手く行っているようで、一酸化炭素中毒の心配はなさそうだった。焚き火の近くには年を取った非正規労働者たちがいた。彼らは老齢故にもう仕事は出来ないだろう。だからといって彼らに手を差し伸べる者はいなかった。彼らに出来る事はただここで朽ち果てていくのを待つ事だけだった。私は彼らから視線を逸らし、脱出を優先した。ショッピングモールの構造上右手法を使えばいずれ出口は見つかるだろう。問題はそれまでに体内のアルコールが分解されてしまう可能性があることだった。足元のふらつきがまだ酔いがさめていない事を証明していたが、いずれまっすぐ歩けるようになる代わりに耐えがたい痛みが襲ってくるだろう。当然保険に入れている訳もなく、外に出たところで痛みを和らげるには酒かいかがわしい人間が売っている薬に頼るしかなさそうだった。もう何も考えたくはなかった。ひたすらこうやって右手で壁の冷ややかな感触を味わいながら歩き続けたかった。ここから出たらまたどうにかして生きる手段を探す事になる。そうなれば私の仕事はまた機械的な殺人鬼に戻ってしまうだろう。しかし、今の私にはそれしか手段がなかった。迷っていたら確実に死が待っている。それでも考えるのは後回しにして、今はとにかく無心で歩き続けたかった。
日光が差し込んでいる辺りに着くころには私はすっかり疲弊しきっていた。酒気は完全に抜け切って私に痛みを思い出させた。例え金があったとしても肋骨の骨折は自然治癒を待つ事になるので、即座に痛みから完全に逃れる事は不可能だった。外には出たものの私は何もする気にはならなかった。ここにいては彼に鉢合わせするであろうことは明確だったから、私はとりあえず出口に向かって歩き続けた。出口はフェンスで閉じられていた。しかし、ここの住民が外に出る時のために椅子や机が組み合わされて作られていた足場があったため、外に出る事は出来そうだった。足をかけてみると、この足場が計算で作られたものではないことがわかった。少しでも重心をかける部分を間違えたら崩壊するであろう足場だった。私は細心の注意を払って上へと登った。足元のぐらつきは私に落下の恐怖を与え続けたが、なんとかフェンスをまたぐところまで行く事が出来た。しかしここで問題が起きた。フェンスをまたごうとしたが、向こう側の足場に足がつかない。つまり、少し飛び降りないと向こう側には行けないということだ。私は動く事が出来なかった。ぐらつく足場を少しの距離とはいえ、飛び移るのは不可能のように思えた。数十秒の間私は微動だにしなかった。だが、ここでフェンスを跨ごうとしている状態から下手に動いても足元が崩れる可能性があることを考えた時、私は向こう側に行く事を決心した。フェンスを跨ぎ、一気に向こう側の足場へと降りた。しかし、無常にもバランスを崩す点を踏み抜いた私は、粗大ゴミ野山の中に落下していった。今回は落ちる可能性を考慮していたため骨折はしなかったが、既に折れている骨は自己主張を一層強めていた。あまりの痛みに情けない声が漏れるのを抑える事が出来なかった。幸か不幸か、近くに私の声を聞いた者はいなかった。全うな人間ならこんなところには近寄らないだろう。私は動けるようになるまで硬い机の上で横になった。十数分くらい待って、なんとか起き上がる事は出来たが、この状態では5歳児に一発殴られただけでKO負けを喫しそうだった。それでも前に進まねばどうしようもない。私は近くに落ちていた鉄パイプを杖代わりにして歩き始めた。どこかにベンチはないかと歩き回っている途中で、顔に冷たいものが触るのを感じた。上を見上げると小ぶりの雨が私の目に飛び込んできた。どうやら私に止めを刺したいらしい。この状態では小走りで軒先に駆け込む事は出来そうになかった。雨の中を私は歩き続けた。街は灰色に包まれていた。どうやらこの辺りは再開発に失敗した地域らしい。永遠に建設途中の建物がいくつも並んでいた。恐らくはショッピングモール建設と合わせて売り出す予定だったのだろう。私はそれらの建物を無心で見つめながら歩いた。もし全てが順当に進んでいたら、ここには幸せな家族が住んでいただろう。ベランダは観葉植物で飾られ、開け放たれた窓からは子どもの笑い声が聞こえていただろう。仕事に向かう父親を妻と子どもが見送り、子どもは遊び、妻は家事をする。そんな光景がここにはあったはずだ。しかし、ここにあるのはその夢を実現する事もなく見捨てられ放り捨てられた廃墟だった。庭になるはずの部分には雑草が大いに生命を主張していた。私はそれを踏みつけながら建物に近づいた。一階の窓ガラスは割れていた。私はガラスが刺さらないようにしながら屋内に侵入した。屋内は水漏れしておらず、雨をしのぐ事は出来そうだった。私は壁にもたれかかって座った。ポケットを漁っていると何か硬いものに触れた。取り出してみるとそれは空になったウイスキーの瓶だった。私はそれを向かいの壁に向かって思いきり投げた。壁にぶつかった瓶は砕け、床に散らばった。逆側のポケットに手を突っ込むと、一冊の本が出てきた。私は本を買った事すら完全に忘れていた。ポケットにしっかり入っていたためか湿ってはいたが、曲がっている程度で読む事は可能なようだった。どうせここにいてもやることはないし、私は本を読む事にした。今の私に出来ることは想像の翼を広げ、心を空に飛び立たせる事だけだった。文章の中では私は私から離れる事が出来る。そうした方法でしか私は自由になれなかった。そして、最後のページをめくり終えた時、私の翼は溶けてなくなり、無残に地上に落ちていくのだった。