二章
翌日、頭痛で目を覚ました私は、昨日の夜シャワーを浴びずに寝たことを思い出した。まだ一文無しだった私は宿主との交渉の末、通常より五割増しの料金を払う代わりに、シャワーの使用料と朝食代を後払いにすることに成功した。五分以上の利用をすると更に料金を取られるため、囚人のような手際で全身の汚れを洗い流した。朝食は目玉焼きだったが、白身は焦げて喉を通るときに猛烈な不快感を提供する上、黄身は完全に固まってしまっていた。私は宿主に嫌味を言うことにした。
「この料理を何と呼べばいいか私は知っているぞ。これは日本の伝統的な菓子で、煎餅と言うんだ」
「文句があるなら下げさせてもらおう」彼は顔をしかめて言った。しかし、本当に不快だと思ったわけではなく、いつもの冗談と捉えたようだった。私としては冗談ではなかったが、目玉焼きが原因でこの宿を追い出されるような事があったら笑えないので、抗議の意思を示すために眉根を寄せながら、目玉焼きを一口で無理やり口の中に押し込んだ。焦げが喉に引っかかったが水代を請求されたくないので黙って席を立った。御馳走様の一言を要求する彼を尻目に、私は宿を出た。外は太陽の見えない曇りだった。あまり清掃の行き届いているとはいえない歩道を通り、私は銀行に向かった。銀行は企業に所属していない人間でも使える数少ないサービスだったが、だからといって好き好んで行きたい場所ではなかった。ここに来るのは仕事を終えたとき、つまり人を殺したときの後に行くことになる場所だったからだ。冷たいコンクリート建ての銀行の前には二つの列が出来ていた。一つの列は様々な企業の正社員が給料を引き出したり、金を預け入れたりするための普通の銀行の入り口に続く列。私がいるのはもう一つの列だった。自分自身が並んでいるこの列の人間を私はどうも好きになれなかった。誰もがどこかこそこそしているが、目は常に明確な意思を表していた。もし目の前で人が倒れようものなら飛び掛って物を奪う、強盗の目をしていた。お互いに警戒しているので、誰もがポケットの中の膨らみに手を触れていた。私としてもいつ襲われても生き延びられるように銃はポケットの中に忍ばせていた。正社員達の列は明らかにこちらを無視していた。どんな理由があろうとも、警備員は彼らの味方であり、ここで強盗殺人を成功させるには、昔のハリウッドの映画スターのような筋肉と銃と運が必要だった。彼らにとってはこちら側に並んでいる者など蟻の行列と同じくらい興味がなく関わりがないものだった。私の列は五分程度で中に入れたが、武器を持った人間がこちらを狙っているかもしれない状況は、私にとってはクリスマスの日を待つ子供のように長く感じられた。もっともそのサンタの服が赤いとしたら恐らく別の理由だろう。銀行の中には非正規労働者が10人ほどいた。彼らはみんなここで報酬を受け取るため、それともう一つ重大な目的があってここにいた。私は報酬を受け取るための機械の前に立ち、依頼者からあらかじめ伝えられた数字を入力した。しばらく間があって、機械は報酬の金と数字列のかかれた紙を排出した。私たち非正規労働者は仕事を受ける際、裏切りを予防するために遠隔操作爆弾を装備する。もし依頼人の意向にそぐわないような事態が発覚すれば私たちはその場で自らの身体にお別れを告げる必要が出てくるようになっている。上の言うことが聞けないなら死ねばいいという論理が平気でまかり通っていても、何の力も持たない私たちはこの制度に賛成することも反対することも出来なかった。この呪縛から逃れるには依頼達成時に出てくる数字列を爆弾のパスワード入力画面に打ち込めば、めでたくその人はあまり多いとは言えない報酬とつかの間の安堵を手に入れることが出来る。私は今回無事に依頼を達成したためその両方を手に入れることが出来た。だが、もし依頼を失敗してしまった場合は自らの命をもって依頼主にその旨を伝えることになる。ここにいる人間は機械に並ぶまではもしもの事態を考えて脂汗をかいているが、機械から離れたとたん、フランス革命後の市民のような表情を浮かべていた。しかし、私はこの場所で鏡を見てもそんな顔はしていなかっただろう。何故ならフランス革命後の市民がどうなったかを知っていたからだ。
報酬を手に入れた私は、街を散歩することにした。とはいっても、ほとんどの店は利用できないため、ただ目的もなく歩き続けた。今回の報酬でしばらくは文化的な最低限度の生活を送れるようになったが、無駄遣いをすればあっという間に消えてなくなる程度の金額なので、先に酒代と生活費を分けておく事にした。私は節制が出来る人間ではないが、酔った時に分けて入れておいた金の存在を思い出せるほど賢くもなかった。自由に出来る金を手に入れるのは久しぶりだった。せっかくだから私は本屋に向かうことにした。誰もが利用できる本屋なので品揃えはよくなかったが、そこしか利用できないならしょうがない。本屋はシャッター街の中で唯一ある程度の活気を保っていた。非正規労働者とはいえ人間だ。辛い人生を生き抜くためには意味が必要だった。自分の人生には意味がないなんて信じられる人はほとんどいない。最期のその時まで何らかの意味を持ってなければ、正確には意味があると信じられなければならない。そんな意味を探すために私たちはこの本屋に集まっていた。ほこりが被って色の変わったガラスのドアを通り、私は中に入った。天井のスピーカーからはビートルズのアルバム、Abbey roadの曲が流れていた。私の所持金で考えると買う本は一冊が妥当だった。何を買うかはまだ決めていなかったので様々な本を手にとって見ることにした。新約聖書を見かけたが、それには手を触れなかった。最後に私は二都物語を手に取った、そしてこれを買うことに決めた。中身は読まなかったが、タイトルの響きと表紙にどこか惹かれるものがあった。私は店主の元に行き、少し値段交渉をしてから本を購入した。店主の髪の毛は店のドアと同じような色をしていた。目は白内障なのか、白く濁っていた。とてもではないが、『救われている』人間とは言い難かった。私はお釣りを貰って店から出た。スピーカーからはGolden slumbersが流れ始めていた。
まだ宿に帰るには早い時間だった。とはいえ、外は雨が降り始めていたから散歩を続けるにはあまり良い天候とはいえなかった。私は近くにバーがあるのに気が付いた。辺りは鉄筋コンクリート製の建て物が並んでいたが、そのバーだけは年季の入った木造建築だった。看板にはセブンズヘブンと書かれてあったが、店の様子はどう見ても天国というよりは煉獄に近そうだった。私はここで一杯引っ掛けてから、いい気持ちになったら宿に戻るという簡素かつお粗末な計画を建てた。
私はドアにOPENとかかれた板がぶらさがっているのを確認してから、ドアを開けて中へ入った。内装はよくいえばアンティークといえなくもない様相だった。私は木製のカウンターの前に腰を降ろした。カウンターの向こうにはなじみのない酒が多く並んでいた。照明は抑えられていて、どこか優しさを感じるような心地よいものだった。私はバーテンにモヒートを注文して、ポケットからさっき買ったばかりの本を取り出した。数ページ目を通すと注文したモヒートが出された。ミントの葉が目にも涼やかで、私はこれを飲めばすがすがしい気分になれるのではないかと思った。本を置き一口飲むと、口の中に爽やかな味わいが広がったが、少しばかり苦みがあった。私は本を読むのもそっちのけで酒を飲み続けた。気が付けば外は暗くなっていて、テーブルに座る客も増えていた。私は珍しく良い気分になれたため、存在を忘れかけられていた本をポケットにしまい、値段より多めの金を払い、席を立った。視界は大分ぼやけていて立ち上がるときもややふらついていたが、なんとか歩くことは出来た。途中で誰か男に声をかけられたが私は気にも留めなかった。私はその時ドアを開けて、帰り道で歌を歌いながら歩こうかと考えていた。ありがとうヘミングウェイ、あなたのおかげで私はとてもいい気分だ。私はドアに手をかけようとした。そして次の瞬間、私は後頭部に鈍い衝撃を受け、完全に意識を失った。