十一章
私は一睡もすることが出来なかった。だが、タイムリミットは着実に近づいていた。時間は流れて欲しくない時に限り一瞬で駆け抜け、流れて欲しい時には意地でもその場に留まろうとする。誰にも時間は止めることは出来ず、誰にでも平等に終わりを運ぶ。朝日が昇ったとき、私には結論を出す事が出来なかった。だが、何処で何をしているかもわからない神に祈ったところで今日の二十三時五十九分には私は死んでしまう。自らの死を選べる人間というのはめったにいない。私は仕事に向かう事にした。食事は丸一日取れていなかった上に、折れた肋骨が私の歩みを邪魔していた。仕事中邪魔にならないように左のポケットに本を、右のポケットに拳銃を入れた。拳銃の冷ややかな感触は私の心を落ち着かせた。今の私に必要なのは拳銃だった。
私が向かったのは彼の家だった。自然素材で作られた白い壁は今日も清潔感を保っていた。庭は独身男性らしい特に手を入れたものではなかったが、荒れている訳ではなかった。私は敷地に入って、ドアベルを鳴らした。ポケットに手を突っ込んで彼が出てくるのを待っていたが、反応は返ってこなかった。二、三回鳴らしてはみたが、やはり誰も出てくる気配はなかった。どうやら既に出勤しているらしい。私はドアを開けて出てくる彼の姿を見なくてすんだ事に少し安堵していた。やはり、まだ自分の中で覚悟が決まっていないのだろう。私は小さく声をあげて笑った。庭を通って敷地から出るときに一匹の鳥が眼に入った。大きさを見るとまだ雛のようだった。雛はまさに今飛び立とうとしていた。私はそれを見届けることなく立ち去ろうとしたが、数歩歩いて振り返って雛を見た。雛は上手く飛べずに道路に落ちてしまっていた。すぐにまた飛んで移動するだろうと思ったが、待っていても飛び上がる気配を見せない。私は雛に近づいて、力加減に気をつけながら雛を持ち上げた。本当はこういった場合その場所から動かさないほうがいいのだが、道路に落ちたと菜っては話は別だった。周りを見渡して、適当な木の枝の上に雛を置いた。もしかしたら怪我をしているのかもしれないが、私は獣医でもなんでもないので治療行為をするのは不可能だった。枝の上に雛がしっかり留まっているのを確認してから私は彼の家を後にした。
次に向かった場所は、しばらくの間お世話になっていた、顔無しバーだった。ここならば彼がどこに勤めているのか聞けるかもしれないと考えたからだ。スイングドアを押し開けて私は中に入った。相変わらず、ここの店には上品な紳士もいなければ、ミルクを頼むと馬鹿にして喧嘩を売ってくる無法者もいなかった。いるのは西部劇にしては愛想のいいバーテンだけだった。そしてその肝心なバーテンはカウンターで突っ伏して寝ていた。私はバーテンを揺り起こした。
「おい、太陽はとっくに上がっているぞ。やってないならやってないでちゃんとclosedの表札を出すべきだ」
バーテンは声に気づいて跳ね起きた。
「うわあ!なんだなんだ!強盗か?いいぞ相手になってやる俺はジークンドーの達人だぞ」
「落ち着いてくれ私だよ。いくら酷い格好だからって人を犯罪者扱いするのはよくないな」私は暴れだしそうなバーテンから少し離れ、両手を挙げて言った。
「なんだ、あんたか。それにしても随分と酷い格好だな。もしかしてまた頭をロクデナシにでも貸してやったのかい?」
「私をどれだけお人よしだと思っているんだ?今度貸したのは胸だよ。おかげで痛くてしょうがない。これが恋という奴か?」
「その冗談は面白くないな。ところであいつがあんたの事気にしていたよ。あの後どうなったんだ?」
「機密事項ということにしておこう。彼と連絡を取る方法はあるか?」
「ああ、彼の会社の電話番号を知っている。かけてやろうか?」
「お願いしたい。仕事後に会いたい。場所は第二エンタープライズビル。来られなかったとしても文句は言わない。そう伝えてくれ」
「おい直接言わないのか?」
「今の私にはそれを直接言う事は出来ないんだ。頼んだぞ」そう言って私は外へ出ようとした。
「なああんた、今のあんたは昔のあいつみたいな目をしているぞ」バーテンは私に語りかけた。バーテンの言わんとするところがわからなかったが、私はそれを背中で受け、手を振って外に出た。恐らくバーテンは面食らうだろうが、頼んだ事はちゃんとやってくれるだろう。もしなんらかの手違いで彼に連絡が届かなかったとしても、それはそういう運命なのだろうと考えることにした。私はビルの方に足を進め始めた。今日恐らく全てに決着がつくだろう。それがどんな形であっても私は受け入れなければならなかった。
第二エンタープライズビルは、未完成の十五階建てのビルだった。この建物も建設したはいいものの、無計画に作られために誰も利用価値を見出せずに、結局数ある廃ビルのうちの一つになってしまった。私がこのビルを指定したのには特に理由がなかった。ただ、誰にも見られずに彼に会えそうな場所としてふと思いついただけだった。入り口の自動ドアはとっくに手動ドアになっていた。中は未だに資材が積み重なっていて、下手に触ると大事故に繋がりそうな場所も多く見られた。周りを見渡して、比較的安全な場所を探して腰を降ろす事にした。念のため警備員が来たときの事を考えて、入り口からは見えづらい場所を選んだ。入り口からは日の光が入っていたが、夜になるとほとんど明かりはなくなりそうだった。私は目を閉じて彼が来るのを待ち構える事にした。こうしていれば時間を認識する事は出来ない。彼が来なかったとしても、安らかな最期を迎える事が出来るだろう。
どれくらいの時間が経っただろうか。わずかだが物音が聞こえた。足音のようだ。私は目を開け、入り口のほうを見た。そこに立っていたのは彼だった。入り口からは電燈の光が差し込んでいた。どうやらもう夜になっていたらしい。私はポケットに手を突っ込んで立ち上がり、投光されている方に歩き出した。
「やあ。こないだはすまなかった」私は話しかけた。「結局あの電波受信男はどうしたんだ?」
「さあね、警備部の仕事は処罰じゃなくて逮捕だからね。わからないさ」彼はいつもと同じように言った。怒りや失望などは声の調子からは感じ取れなかった。彼は何故か制服を着ていた。ホルスターには拳銃が収まっていて、ショッピングモールに行ったときとほとんど同じ格好をしていた。
「丁度話したい事があったんだ。会えて嬉しいよ。ところで、何でこんなところに呼び出したんだい?話をするだけならちょび髭おじさんがやっているバーでよかったじゃないか」
「誰もいないところで話がしたかったからさ。大事なことなんだよ」私の声は震えてはいなかった。
「だからってこんな幽霊ビルで会う事もないだろう。一応僕の親会社の所有物だから、僕は何とか言い訳は立てられるかもしれないが、君は面倒起こしたら便所掃除じゃ済まないぞ」
「どんな掃除だってやるさ、金さえもらえるならな。それより屋上に行ってみないか?ここじゃ顔もよく見えないし、誰かが来たらすぐにバレてしまう」
「まあ、構わないけど。ライトは僕が持っているよ。仕事上手放せない物でね」彼はライトをつけて上へ登る階段を探し始めた。私はその後ろを黙ってついていった。手はポケットに相変わらず突っ込んだままだった。頬を汗が伝うのを感じたが、私はそれを拭おうともしなかった。階段はすぐに見つかった。未完成とはいえある程度は完成されているらしい。彼は私の方を振り返りもしなかった。ただ、前だけを見て歩き続けていた。
屋上に通じているであろう扉を開けた。ビルの屋上は思ったよりも明るかった。周りのビルの光が私たちを弱弱しく照らしていた。屋上は五十平方メートルくらいの広さはあったが、あちこちに建設に使うはずだった鉄骨が落ちている上、老朽化したタワークレーンもまだ残ったままだった。彼は私から十メートルほど離れたところで止まり、私の方に振り向いた。私は先に口を開いた。
「夜景を見たときに人は二種類の反応を起こす。素直に綺麗だと思う。これが一つ目だ。ただの忌々しい電気の無駄遣いだと思う。これが二つ目だ。君はどっちのタイプだ?」
「前者かな。明かりの下には人が集まってくる。ここからはたくさんの明かりが見えるね。あの光の中には様々な人が集まって生きている。僕はそれを想像しているのが好きだ。君はどうなんだ?」彼は優しい目で夜景を見ながら答えた。
「後者だ。あの光の下にいられるのは一部の人間だけだ。人は光に引き寄せられる。だからといって誰もが光の中で生きられるわけではない。出来るのはこうやって遠くから眺めることだけさ」
私たちはしばらく会話もなく夜の街を眺めていた。夜景一つとっても私たちの考え方は大きく異なっていた。同じものを見ていても、それが他人にとって同じように見えているとは限らない。彼にとっての人生はプラスサムかもしれないが、私にとってはマイナスサムであるように。
「いい知らせがある」彼は私の方に向き直って言った。「この間の一件は強盗犯の逮捕で幕を閉じた。私は上司に対して、この事件の最大の功労者は君だと伝えた。僕の勤めている会社は実力主義で、身分がどうとか住居がどうとかいう事は気にしない。上司はあいつが裁判で有罪になり次第、君を採用したいそうだ」
「待ってくれ、あまりにも話が都合良すぎないか?私があの時やった事は、あいつのレスリングの相手をしただけだぞ」私の声は震えていた。
「そこはほら…少し盛らせて頂いたよ。流石に肩にプラズマガンを付けた宇宙人の戦闘種族と戦って勝ったとは報告していないけどね」彼は軽く笑って契約書をバッグから取り出した。
彼は明らかに嘘をついていた。たまにいる宇宙からの使者をあるべき場所に返したところで、企業が人を雇うはずがない。たいていは心にもない謝辞と共に、金メッキのメダルを渡されるだけだ。しかし、目の前にある書類はどう見ても本物だった。これを手に入れるためには相当の苦労が伴っただろう。恐らく、彼自身も何かしらの痛い出費をしたに違いない。私は彼から契約書を受け取り、ポケットに入れた。
「ありがとう。帰ってから詳しい内容は確認させてもらう。君の用事はこれだけかい?」誰が見ても不自然な返答だった。普通ならこんな願ってもない話が転がり込んだら、驚愕して飛び上がるか、人によっては涙ながらに永遠の友情を誓うかもしれない。しかし、私は動揺していたが、そのような反応をする事が出来なかった。何故ならこの申し出を受けられる可能性は限りなくゼロに近かったからだ。
「ああ、僕の話はここまでだよ。それで、君の話って?」
彼は私の無感動を咎める事はなかった。彼はいつもと同じ感じのいい笑顔をしていた。
「すまない、ちょっと待ってくれ」私は思わずそう答えた。
頭の中で段取りは決まっていたはずだったが、彼の予想外の行動により私は動揺していた。少しでも時間が欲しかった。私は手を頭に当てたまま屋上を歩き回った。その間彼は私に話しかけてこなかった。
長い間があった。私はポケットに手を突っ込むと、彼のほうに向き直った。
「話す気になったかい?」彼は神妙そうな面持ちで私を見返した。
「ああ、話というよりは用事だが」私も彼の目を見据えた。全てが終わる瞬間が来ようとしていた。