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十章

 本を読み終えた私は身体が痛まないようにゆっくり立ち上がり、来たときと同じようにガラスに気をつけながら外に出た。陽はビルの群れの向こう側に沈もうとしていた。日が完全に落ちる前に本を読み終えられたのは幸運だった。夜に私を照らしてくれる存在はどこにもいなかった。この辺りの電灯は全く整備されておらず、ほとんどが地面に生えた棒以上の役割を果たしていなかった。私は陽が完全に沈む前にこの辺りを出ることにした。ここは夜になったら闇が支配する領域になるだろう。そのような場所では人間は無力だ。明かりがなければどこに向かって歩いたらよいかもわからない。

 人の支配している領域に戻るため、私は足を進めた。途中で企業のロゴが印字されている紺の制服を着た警備員の一段に出会った。警備員達は私の方を睨んだ。私も睨み返してやりたいところだったが、今彼らと殴り合いでも始めようものなら折れた肋骨が内臓に刺さって、そのまま蝿の養分にされる可能性が高いだろう。私はすぐに目を逸らした。警備員の目線は不信と軽蔑が混ざったものだった。警備員からしてみれば私は不法に住居を占領している浮浪者にしか見えないのだろう。しかし、他人に疑いを向けるのが彼らの仕事であると思うと彼らを非難する気持ちは失せて行った。私が目を逸らした後も警備員達は私を見つめているようだったが、警備員に見つかったのに特に動揺していない様子が私を不法侵入者でないと思う根拠になったのだろう。もっとも、実際には先ほどまで不法侵入していたので、警備員の推測は外れていたのだが。

 私の足は意志に反して最も忌むべき場所へと向かっていた。そこは美徳と悪徳が逆転する場所、神が死に悪魔が支配する場所、そしてこの世で最低最悪の人間が最後に向かう場所、それはハローワークだった。ここで紹介される仕事は絶対に誰もがやりたがらない仕事しかない。そしてその大半が殺人だ。この仕事を請け負うのに最も必要とされる資格は、誰からも必要とされないことだった。仕事を請ける際に内容の説明はあるが、何処の誰が依頼しているのかは全くわからない。労働者は依頼を達成したらわずかな金を手に入れ、達成できなければ機密保持のために爆弾をもって肉片に変えられる。こんな仕事、普通は誰もやろうとしないだろう。しかし、能力や住居、所属を問われない仕事はこれしかない。そしてこの三つを持たない場合、日のあたる世界へ這い上がる事はほぼ不可能だった。

 ハローワークは治安が悪いと名高い地域にあった。一般的な会社員なら危険地帯としてまず避けるような場所だった。お薬を求める血走った目をした男。だらしなくよだれをたらした半裸の女。意味もなく手に拳銃を握る男。そういった人物がこの地域の構成員だった。私はポケットに手を突っ込んでいつでも拳銃は抜けるようにしておいた。ここでは理由なんてものは存在しない。なんの合理性もなく突然襲い掛かる獣以下の存在があちこちにいる以上用心するに越したことはない。私のように仕事を求めてきた者もいるだろうが、それらの人間も信用は出来ない。ここにいるのは銀行で同じ列に並んでいた連中であり、紳士ではない。ここで信じていいのは自分だけだった。しかし、今の私には自分を信じる事すら難しそうだった。

 ハローワークは一見民家にしか見えない建物の中にあった。入り口には何の表札も出ていなければ、見張りもいなかった。ドアを開けて中に入ったが、これもまた普通の玄関にしか見えなかった。奥に続いている廊下も部屋も全て普通、というよりも普通すぎるのだった。私はここに来るたびにモデルルームの中に入った強盗のような気分を味わっていた。私はトイレのドアを開けて鍵を閉めた。そこで仕事に必要な全ての道具、つまり爆弾を起動して身につけた。いつもは、ここで5分ほど迷ってから起動していたが、今日は何もひっかからずに準備を終わらせる事が出来た。しばらく待っていると、トイレの奥の壁が動き始め、ついにトイレは奥の部屋に繋がる廊下になった。恐らく爆弾の起動を何らかの方法で確認してから開けているのだろう。何故定番の本棚ではなく、トイレに隠し部屋を作ったのか私には理解できなかった。もしかしたら、この世にある後ろめたいものは、清潔と不潔の境目となる場所に隠されているのかもしれない。

 先ほどの普通の部屋とは打って変わり、奥の部屋にはFAX付き電話機が一台あるだけだった。灰色の打ちっぱなしのコンクリートで覆われたこの部屋に一台だけ電話機がある状況はどう見てもここが異常な場である事を示していた。しばらく床に座って電話機がなるのを待つ事にした。胸部の痛みと空腹が私を安らがせる事を拒否していた。しばらく待っていると電話機が不愉快な音を立てて、着信を知らせた。私は受話器を取った。

 「今回の依頼はとある人物の暗殺だ。報酬は規定額の通り。ボーナスはなし。失敗した時の処置も規約の通りだ。目標の死亡が確認され次第報酬は引き出せるようにしておく。目標については、通信終了後に資料を送信する。期限は明日の二十三時五十九分までだ。それでは」依頼主は非常に簡潔で、非常に無機質な声で最低限の内容だけを話した。一応依頼主とは言ったが、電話先の相手が依頼主とは限らない。むしろ下請けや下請けの下請けの可能性が高いだろう。私は資料が送られてくるのを待っていた。願わくば私の手に負える人間が良かった。規約にこの部屋に入った時点でどんな理由があろうとも依頼を拒否する事は出来ないと書いてあるため、目標が誰かを考えるのは無駄でしかなかったが、それでも資料が送られてくるまでの間の時間は緊張せざるをえなかった。着信音が目の前で響くのとほぼ同時に受話器を取り、FAXを受信した。紙が段々と機械の中からせり上がってきているのを黙っていたが、写真が見えた瞬間、私は小さく悲鳴を上げた。それは私には殺せるかどうかわからない人物だった。私は何も考えられなかった。落ち着いた上で、よく考える必要があった。私は全ての資料をFAXが吐き出す前に急いで部屋を後にした。


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