一章
酷い雨が降り続いていた。分厚い雲が太陽を覆い隠し、辺りは薄暗くなっていた。かつてはそこそこ繁盛していたかもしれない個人商店が並んでいるこの通りは、多くが下品な落書きだらけのシャッターに閉ざされていて、かろうじて生き残っている商店にも客はおろか商品さえもほとんど見られなかった。その陰鬱な雰囲気のおかげか昼ごろだというのに人通りはまばらで、各々が地雷原を進むように重苦しい歩調で、一定の距離を取りながら歩いていた。傘を買う金すらも持ち合わせていない私は小走りで目的地へ向かった。すれ違う人々は寒色の傘を差し、せわしなく目を動かし辺りの様子を伺っていた。誰もがいつ来るかもしれない死に神におびえていた。彼らが何かの罪を犯した訳ではない。それでも何もない所に罪を見出し、そして罰を与えようとする人間はいるのだ。仕事上仕方なくやったこととは言え、それにより被害を受ける人は存在する。そして恨みを持つ。一昔前ならここで話は終わっていただろう。しかし、時代は変わってしまった。国家権力の存在しなくなったこの世界は警察も同時に失ってしまったのだ。人々は誰にも報復を咎められなくなり、「報復の自由」なる言葉まで聞こえてくるようになっていた。いつ、どこで、誰に、どうして狙われるのか、それすらわからず命を落とす。そんな馬鹿げた時代だから誰もが外套の下に身体と心と拳銃を隠す。
目的地は人通りのほとんどない閑散とした歩道で辺りには放置された生ごみとそれによる臭いが立ち込めていた。私は仕事の準備を始めた。とは言っても自分で用意できた物といえばどこにだって売ってある果物ナイフと、最早骨董品と化したブローニングハイパワー一丁、胸に着けた依頼主から用意された自決用の遠隔操作爆弾、それだけだった。私の身形はいかにもホームレスといった風情で、ボロボロのジャンパーと穴の開いたジーンズを着ていた。私は目標が来るまでゴミを漁るホームレスのふりをしていた、実際にはふりではなく本当に食べられそうな物がないのか探していたのだが。ゴミ箱の中はほとんどが不燃ごみであり、汚物も所々に見られたが私は祈るような気持ちで賞味期限切れの食料を探していた。結局下痢を引き起こしそうな物しか見つからず、私は仕方なく路面に腰を降ろした。雨は相変わらず強く降り続いており、私は時折震えながら銃を服の中に隠し、目標を待っていた。しばらくすると一人の男が通りがかった。彼は上等のダークスーツを着込み羽根飾りのない帽子を目深に被り、紺色の傘を差していた。恐らく50代の純血の白人と言った所で、立派な髭を蓄えていて、整った顔立ちには少しだけ悲しみが滲んでいた。やや急ぎ足でこちらの前を通り過ぎるときに、雨だというのに路面に座り込む不潔な男を軽蔑のこもった眼差しを一瞬だけ向けたが、すぐに紳士らしく視線を外し私の前を去ろうとした。私は彼の視界から私が完全に消えると同時にゆっくりと立ちあがり、ジャンパーから銃を取り出し両手で構えた。雨の音のせいか彼は私の動きに気づくそぶりも見せなかった。寒さのせいか、それとも別の理由か、手が震えてしまっていた。シングルアクションの軽いはずの引き金が、今の私にはグランドピアノを片手で支えるよりも重く感じた。それでも何とか狙いを定め引き金を引いた。一発目の銃弾は狙いを外れ、彼の横を通り過ぎた。彼が銃声で反射的に振り向き、銃を抜こうとすると同時に私は二発目の銃弾を放った。銃弾は彼の腹部に吸い込まれてゆき、鮮血がほとばしった。彼は倒れそうになるのを堪え銃を撃ったが私の腋の下を通り過ぎただけだった。私は立っているのがやっとの彼に対して連続して引き金を引き、そのうちの一発が彼の左胸部を貫通した。彼は糸が切れた人形のように前のめりに倒れた。身体から流れ出す血がタイルの間を縫って進んだが雨はそれを無感情に洗い流した。私の手は未だに震え、心臓は今にも私の身体を飛び出して彼の胸元に行こうとしているようだった。私は彼の遺体に一切手を触れなかった。もしそこで彼の懐から家族や恋人からの手紙が入っていようものなら、間違いなくその場で自分の頭を石榴に変えていただろう。私は右のポケットに凶器をしまい、代わりに懐から取り出した工業用アルコールのような臭いのする安いバーボンを一口飲むと、彼の平凡だが幸せだったかもしれない、または波乱万丈だったかもしれない人生の最期の地に背を向けて、雨の降り続く陰鬱な街を後にした。私の拠点まではここから三時間ほど歩く必要があったが、一休みしようという考えは全く浮かんで来なかった。耳の早い人間が私に復讐の復讐をしてくるかわからないし、何より足を止めれば自分の中にあるだろうちっぽけな良心が私を殺しにかかるのはわかりきっていたからだ。こういう時に私が出来る事は教会の懺悔室で芝居のかかった声色で罪を告白する事ではなく、自分の心がどこにあるのかわからなくなるまで安酒を飲み続ける事だけだろう。しかし、私は拠点としている宿屋に戻るまでの間も琥珀色の液体を何度か口の中に流し入れたが、幾ら飲んだ所で私の胸につかえたものは流れていかなかった。
宿屋に着いた頃には雨脚は弱まり、雲の切れ目から覗く太陽は半分くらい沈みかけようとしていた。宿屋の周りには、既にシャッターが閉じられている建物や、自己主張の激しい企業のロゴが付いたスーパーマーケット、監獄のような社宅が並んでいた。宿屋はお世辞にも綺麗とは言いがたい木造の二階建てで、ドアの上の看板には大きく「オールド・パル」と店名が書かれていた。辺りは一切の話し声は聞こえず、静まり返っていた。私は薄汚れた両開きのドアを押し開けた。カウンターの向こう側にはここら辺に住む者にしては上等なワイシャツとズボンを履いた宿の主人がいて、私が入ってきた事に気づくと「おう、おかえり。仕事は上手く行ったか?」と快活な声で訪ねてきた。彼は旧くからの友人でとてもアジア系とは思えぬがっちりした体格と、満月のようなスキンヘッド、そして何よりも巨人すら跪かせるコネのおかげでこのご時勢にどこの企業の庇護も受けずに店を経営できたのであった。とはいえ、宿を存続させるので手一杯なのか、宿はお世辞にも新しいとも綺麗とも言えそうになかった。また、どこの企業にも属していないという事が私のような雇われのような家を持たない、もとい家を持てない人間にとっては神の祝福よりも有難かった。私が家を持てないのは資金面は勿論だが、建設業や不動産業も企業の管理下にあり、そして自分以外の企業に所属している人間にはサービスを提供しない方針が例外なく私にも降り注ぎ、どうやっても一軒家に住むどころかアパートを借りる事すら許されないのであった。そういう訳で私は彼には頭が前傾30度から全くあげられなかった。もっとも彼はそのような事は特に気にせず、金さえ払えばどんな仕事をしているかも聞かずに、多少不潔であまり上等ではないベッドを貸し出してくれた。
「良すぎるといったこともなければ、悪すぎるといったこともない」と私はそっけなく答えた。
「つまりはいつもどおりって事だな。でも人生なんてものはそれくらいが丁度いいんだ」と彼は口元に少しだけ気に障る笑みを浮かべながら言った。彼はたまに話の規模を大きくしすぎる事があった。
「今日は妙に静かだな。いつもだったらこの時間には愉快な連中がいたと思うが」と私は「愉快な」に嫌味な響きを持たせて言った。
「皆、企業に就職したよ。こんなに長い間ここを使い続けているのはお前くらいだ」
「どこも私を雇ってくれないんだ。しょうがないだろう」
「しょうがない物か、お前が見下していた連中だってとっくに働き口を見つけているんだ。お前がどんなに無能で屑で非生産的で腰抜けで右と左の区別も付かないくらいの大馬鹿で無能だとしても、職さえ選ばなければどこかに就職は出来る」と彼は語気を荒げながら言った。無能が二回入っているのには気が付いたが、あえて指摘はしなかった。ここで彼の揚げ足を取った所で火に油を注ぎ込むような結果になるのは明らかだった。それに彼の言っている事は紛れもなく正しかった。この間までテーブルを囲んで。どの酒が値段辺りのアルコール量が多いかだけを考えていた連中でさえ、大企業の子会社の子会社の子会社の子会社……と綽綽と追いかけていったその最後くらいの所には就職出来たのだろう。しかし、私には連中のようになる事がどうにも出来なかった。幸せというのは長続きしないと相場が決まっている。彼らに与えられるのは、白い菊と、二メートル四方の土地と石だけだろう。よって私は彼の言葉に対し、小指で耳の穴を塞ぐという子供染みた真似で返事をすることにした。彼は一瞬片眉を吊り上げたが、それ以上何かする事はなかった。恐らく、先ほどは言っていなかったが私が頑固者だということを知っていたからだろう。元より彼とそこまで話すこともなかったので、私はカウンター横を通り過ぎ、老人の歯のようになっている階段を上がった。現在この宿に泊まっている人間は自分だけのようで、三つの部屋のうちどれからも人の気配は感じられなかった。一番奥にある部屋の前に立ち、着ているジャンパーの中から鍵を取り出そうとしたが、酔いが回っているせいか、手は虚しく使用済みのティッシュペーパーや道端で拾ったライターに触れるだけだった。右のポケットに手を入れようとしたが、その中にある冷たい鉄の塊に気づいたため手を引っ込めた。鍵はジーンズの後ろのポケットに入っていて、蹴破ったほうが早いようなドアを開けた。一か月分の料金を先払いしてある部屋は昨日や一昨日と全く同じように私を迎え入れた。明かりをつけようとスイッチを押したが、蛍光灯は切れかけていて一定の周期で点いたり消えたりを繰り返していた。しばらく何も考えずに蛍光灯を見つめていたがそれにも飽きてスイッチを切った。中にあるのはベッドと自分の荷物だけだった。窓はすりガラスになっていて、外からぼんやりとした光が差し込んでいた。雨にぬれた服を着替えると、一日の疲れがどっと噴出してきた。私はベッドに行くと、鬱陶しい湿気も気にせず眠りに着いた。