詩人の密薬⑨
私はあなたではありません。でも、いつの間にか、私はあなたを自分だと思い込んでしまった。あなたは、誰なの?
*
水島羽鳥が次に目を覚ましたとき、そこは楽園だった。
天井はただ白く、まるで一面の雪原のようだった。水島羽鳥はこんな雪原を見たことがなかった。私の記憶にあるのは、申し訳程度にアスファルトを覆う、街中の薄い雪だけだったから。
そして、今この瞬間に関しては、私の思考は決して彼女に邪魔されない。私はその淡くて脆い確信がこの上なくしあわせだった。
ここには彼女はいない。
私は今この瞬間、それだけを信じて立っていた。いいえ、正確には白い天井と白いシーツに包まれて、寝転がっていたのだけれど。そういえば、あの青年はどこにいったのかしら? 私を助けるふりをして殺そうとしていた、あのわるいひとは。
どこですか?
私の声はこの雪原の中、どこまでも響くようだった。さえぎるものなど何もなくて、白くて、どこまでも広がっているような。この白くて、白くて、白くて、白い、冷たくもあつくもない雪の中。私は呼びかけた。
どこですか?
あのわるいひとに向かって呼びかけた。あのひとを更生させてあげようと思ったから。彼が企んでいた大罪を犯す前に出会ったのが水島羽鳥だったのが、彼の幸運であり不幸であったのだとわたしは思う。思う。
ねえ、どこですか。
かくれていないで、でできてください。
おこりませんから。
いいえ、ほんとうはすこしだけおこっているけれど。
彼は返事をしてくれない。それどころか、この雪原のどこにもいないみたい。ああ、どこに行ってしまったのかしら。どこに隠れてしまったのかしら。あの、わるいひと。わるくておくびょうなひと。あの、卑怯者。
希薄だ。何もかも。
私の脳裏を、不意にそんな言葉がよぎった。そしてそれと同時に、急に感覚が遠くなった。世界と接続断されたような気分になった。知り合っていたはずの言葉が急に通じなくなって、まるでどこか違う星に放り込まれたような、そんな感覚がした。遠くの星へ。そこに住んでいるのは人間じゃないかもしれないような、遠くの星。希薄だ。いっそ、消えてしまいたくなるくらいに。目はかすんでいる。ああ、涙が出てきた――乾いてはいないけれど、それはそれでぼやけて何も見えない。
悪い人はどこ?
わるいひとはどこ?
私にやるべきことを与えてくれる、あの、卑怯で臆病な人はどこ? 探そうにも、今の私が動かせるのは首だけらしい。どうやらあの人の仲間が、私を動けないようにしているみたい。
ああどこ、どこ、誰がどこですか。
私は声が枯れるまで叫んだ。
返事は、どこからも聞こえてこなかった。
*
彼女、水島羽鳥という患者はずいぶんと興奮していた。さらにひどく混乱していて、まともに話ができる状態ではないようだった。彼女を助けた善良な青年は、しばらくの間眠っている彼女のそばについていたが、やがて目覚めた彼女に意味不明な言葉をぶつけられたといって我々に泣きついてきた。水島羽鳥は暴れてこそいないが、念のため身動きの取れないように手足の動きを制限させてもらった。同意は、隣町に住む彼女の家族から何とか得ることができた。
そうそう、彼女の家族はかなりショックを受けていた。あの子がまさか、信じられないといったように。まあ、常識的に考えてみて、ごく普通の反応だろう。近場とはいえ社会勉強のためにと外に出した病弱な娘が、まさか病院から処方された薬で――。