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詩人の密薬⑧

 その後の展開は悲惨だった。悲惨だったとあの人が言うのだから、きっと悲惨だったに違いないと私は思う。私はもう、誰かのレンズ越しでないと、何が正しいのかすら判らない。私には自信がないのだ。あなたには自身がないのよ。ああ、もう、入ってこないで。私のエリアに入って何よ、いいじゃない、あたしのお部屋よ、ここは水島羽鳥の部いいえふざけないで、ふざけてるのはあなたのだってあなたは私のあたしはあなた違うわあたしは私は水いいえそんなの認め嘘よ嘘よふざけないで何を言うのそっちは悲惨ねええ悲惨ね私たちあたしたちとっても悲惨ちょっと待ってよあなたそれ悲惨って言いたいだけなんじゃなあれ判ったのへえ意外結構だって誰だと思ってそんな話聞きたくないわどうせ意見が合わないのええそうかもしれないわでもこれだけは主張しなければ何よ言ってみなさ私はあたしはやっぱり言わせないわ言わせなさいああもういい私は水島羽鳥あたしは水島羽鳥ああそうね、とっても何てことない水島羽鳥よ。

 悲惨だったのだと、あの人は私にたったひとことだけ言った。彼女は自宅近くの路地でいきなり叫び出した。慌ててわたしが駆け付けると、そこには『常軌を逸した様子の』水島羽鳥がいた。

すっかり青ざめた顔をした彼女は、わたしが取り押さえようとしてもなお狂乱といった様で暴れ続けた。彼女はわたしの手に余った。わたしは仕方なく近くの家の門を叩いた。ドアの内からおそるおそる彼女を覗いていた主婦を引っ張り出して、わたしはその主婦と共に水島羽鳥を取り押さえにかかった。水島羽鳥を封じ込めるのに、結果的には三人の主婦とひとりの老人の力を要した。わたしが水島羽鳥のことを少し詳しく知ったのは、彼女を取り押さえてから二時間十二分五十六秒後のことだった。

 彼女はとある無職の青年によって呼び出された救急車によって病院へ運ばれた。汗だくになった救急隊員は、駆け付けるなりベルトのようなものを用いて彼女をストレッチャーに縛りつけた。役割を終え、遠巻きに彼女を眺めるわたしには、それが動物園から逃げ出した獣の捕縛現場のように思えた。わたしは彼女の温かい肌に幾度となく触れたが、しかしそうであっても、彼女が現実に存在している生身の人間であると信じるには、なおも証拠が不足していた。

水島羽鳥が意識を取り戻したとき、彼女は私の大嫌いな病院のベッドに横たわっていた。水島羽鳥は起き上がろうとするも、彼女の身体はベッドに固定されており、私はとても不愉快だった。水島羽鳥はベッドのわきに、彼女の知らない青年をみとめた。その存在は記憶の途切れた私をとても驚かせた。

「あなたは誰ですか」

 私の口からは、ごく自然にその言葉が放たれる。水島羽鳥が向けたややぎこちない視線の先に居る青年は、彼女の言葉を受け取り、消え入りそうな声で応えた。

「通りすがりの者です。あなたが、その――道で、倒れていたので」

「嘘ですね」

 私はこの気弱そうな青年の言葉を、真っ向から否定した。その根拠はいっそ明白だった。彼はあたしたちをだましているのよ。あたしと私はだまされない。そうよ、私、だまされてはいけないの。そうね、あたしが言うのなら間違いないの。

 世界はいっそ、あからさまに透明だ。

 ここにはあたし以外で信じられるものなんてないんだわ。

「道で倒れていたなんて嘘です。ありえません。どうか、本当のことを言ってください」

 青年は唖然とした様子だ。まさに、『開いた口がふさがらない』それそのものの状態だ。

「あなたは私をどうしようというのですか」

「ちょっと待ってください! 僕は、」

「ねえ水島羽鳥、あなた、」

 息をつく。ひと呼吸だけおいて、彼女は彼女の言葉を借りて喋りだした。

「は、悪い人の仲間なのでしょう」

 入れ替わり、この人のよさそうな青年の声にならない声が漏れる。

「でしょう、ねえ」

 立ち代わり、彼女はまくし立てる。水島羽鳥の口唇を借りて。

「ええそうよ、この人は、この人たちは、あたしたちを殺そうとしているのよ。いい、あなたとあたしは水島羽鳥。あたしたちが信じられるのは、あのすてきなおくすりだけ」

 人のよさそうな青年の顔が、目の前でみるみる青ざめていった。かすれて声にこそならないが、彼の小さな口の動きが、たすけてを訴えている。

「ねえ水島羽鳥、この世で最も信じられないものは何なのか、あたしの言いたいことが判るかしら」

 水島羽鳥は、唐突にも聞こえる彼女の問いには答えなかった。特に理由はなかったが、強いて言うなら目の前の青年が気の毒になったのだ。答えを示してしまうことで、この青年を否定してしまうことになるから。水島羽鳥の希薄な意識の中には哀れみ、ただ、それだけしかなかった。

 この世において最も信じられないもの。それは、『お人よし』にほかならないのだ。


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