04:始まりの波紋
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深い。
そこは深い闇だった。
せの中で、体を包み込む様な感覚がある。
何かに逆らうでも無く、しかし重力を感じる事も無い。
この感触を知っている。
産まれる前の感覚に似ている気がするのだ。
ふと、その中で光が生まれた。
白い光だ。
それはゆっくりと、その空間に反射して、更に光を伸ばしてゆく。
そこに居たのは一人の少女、古川・弥紗季だ。
体育座りに姿勢をする体には何一つ纏わず、その姿を光が撫でる。
始め、白かった光が今は青い。
澄みきった水色だ。
弥紗季は今、包む様なこの感触を水だと理解した。
まるで海の底の様に、水が弥紗季の裸体を流れる。
しかし、その場所に底は無く、見渡す限りが青だった。
「……」
弥紗季はまず指を動かし、その流れで両腕を各々(それぞれ)の耳につける。
水がぶつかる感触があった。
次に、何一つ邪魔するモノの無い足を揃え、そして両手を左右に広げる動きと同時に両足を交互にしならせる。
動いた。
青だけの世界で、水が流れる感触が髪を分け、肌の上を滑ったのだ。
自由に、自分の進みたい場所へと泳げる。
その感覚を弥紗季は心地良いと感じた。
左右上下の無い世界で、弥紗季だけが色をつけてゆく。
流れる様に、緩やかに、その線は波を描きだし、光に反射して美しく煌めいた。
次第に口元が緩む。
いつも不機嫌そうな弥紗季の表情が和らいだ。
が、少しして弥紗季の動きが止まった。
「声?」
青い中に耳を澄ませる。
だが、聞こえない。
「誰や?」
『……みさ……』
微かに聞こえた。
名前を呼ばれた様な気がしたが、誰かはわからない。
『みさきさ……』
「誰か居てるん?」
青い世界に問掛ける。
弥紗季だけが存在する青い世界。
その中に返事は無い。
『弥紗季……』
名前だ。
「?」
次に聞こえた声、それは
『弥紗季様ぁぁああアアあ!』
宮崎・りるかの叫びだった。
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「弥紗季さん。弥紗季さん!」
二段ベットのカーテンを開け広げ、覗き込むのは、ベージュのスーツを着こなす女性。
サラ・ウィンベルだ。
その視線の先には弥紗季が寝ている。
しかし、その表情は険しく、苦しむ様な声が漏れていた。
「大丈夫ですか! 弥紗季さん?」
セーラー服姿のまま寝転んでいる弥紗季は、足を寄せた姿勢で丸くなっている。
が、ふとその目が揺らいだ。
薄く開かれたのだ。
「弥紗季さん……?」
サラがその動きに気付き、問掛ける様に名前を呼んだ。
心配気に眉を寄せたその表情は、それでも綺麗に見えるだろう。
「サラさん……?」
対する弥紗季も同じ様な声を返した。
「どないしたん?」
ゆっくりとベットの上に起き上がろうとするが、天井が低い。
「弥紗季さん、うなされてましたよ?」
「うなされ……?」
と、そこまで口にした後、弥紗季の体が大きく震えた。
夢の事は覚えていない。
だが、感覚だけは残っていた。
両片を抱く様にし、自分で震えを感じる。
弥紗季の中に何かがひっかかているのだ。
それは学校を早退する前の昼休憩から、ずっと、ずっとだ。
部屋に一つだけある窓の外は暗い。
ベットにある充電器から携帯電話を取り外し、そのデジタル時計を見た。
そこから八時を過ぎたあたりだとわかる。
寝すぎたな。と自分でも思った。
頭をかき、起き上がろうとしたが、天井が近い。
二段ベットの上とはこんなモノだ。
うねる様な低い声を垂れ長し、半分寝転んだ様な、片膝をついた様な姿勢で眼鏡を取った。
と、その時だ。
「あ! それどころじゃなくって!」
突然の声に驚き、その方向に視線を向ける。
ベットの側で金髪が揺れたのがわかった。
弥紗季は二段ベットの上から、下を見る様に顔を覗かせる。
そこには緊張した様な声があった。
「イレギュラー反応です!」
その声が弥紗季を確実に目覚めさせた。
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南海本線最後の駅、難波。
今そこは、立ち並ぶ店の明かりに照らされ、イルミネーションの様に光を放っていた。
都心と言うにふさわしい街並みに人は溢れ返り、いくつもある商店街を満たす。
その殆んどが徒歩で、そんな人が溢れる場所で車が思う様に動く筈がない。
隙間の無い街だ。
その中で、三人。
難波駅、改札の前のコンビニの側で、座り込んだ姿があった。
流行りを集めた様な格好をした、金髪の三人組だ。
「遅い……」
「本間に来んの?」
「来る言うてたもん」
「信用できんの?」
三人は駅の改札の方を見る。
が、直ぐにまた視線を元に戻した。
「まあ、他の友達も連れて来る言うてたし」
「後10分して来んかったら諦めよや」
そんな会話が街を歩く人に聞こえる筈がない。
喧騒と足音と、店々が鳴らす音楽がこの街を作り、その声をかき消して行くのだ。
ここは大阪、難波の街。
都会だ。
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夜がしっかりと広がった少し後、八時半を間近に控え、その空間を包む空気が変わった。
〈ドクターE〉の事務所内は今、少しの緊張を浴びて動いている。
その中で一人、奥のデスクに肘をつき、流れを見ている者がいた。
外出から帰って来た大蔵・一誠だ。
その額にはわざとらしくバッテンに絆創膏が貼られている。
「弥紗季君。寝起き早々、何故私を殴るのかね?」
「煩い」
対する弥紗季は一言、それだけで話を断ち切り、学生鞄の中を確認するためにジッパーを開けた。
中には携帯の予備バッテリーが三つ。
簡単な外部端末用のコードが数個。
眼鏡の予備もある。
念の為の、変えのセーラー服も入っていた。
「準備出来てるで。勇はどしたん?」
少しだけ緊張の乗った声は、事務所内によく響いた。
しかし、この中に田渕・勇の姿は無い。
「まさか今日も来ん気か……?」
弥紗季の中で罪にならない犯罪法がめまぐるしく展開される。
が、ふと声が返ってきた。
玄関口の方からだ。
「屋上で待機しています!」
その声は田渕では無く、カウンター前に座る金髪の女性。
サラ・ウィンベルのモノだった。
自身はパソコンのディスプレイ以外に視界をくれず、キーボードを見ずにプログラムを打ち込んでいる。
その手際には危うさが無い。
(勇にさしたらおもろいやろなぁ)
と、眺めるカウンターの下。
そこに置かれたプリンターから一枚の紙が吐き出された。
遠目に見ても何かわかる。
アレは地図だ。
そう確認した時だ。
「ッ!?」
突然、弥紗季は天井を見上げる事になる。
屋上から、唐突に轟音が抜けて来た為だ。
夜の風を鉄が叩く様な、束ねた紙を一気に引き裂く様な、そんな音だ。
「ハイ。弥紗季さん!」
サラが先程の紙を折り畳み、弥紗季に渡しに来た。
弥紗季はそれを受け取ると、胸ポケットへ入れ、大蔵に向き直る。
櫛で長髪を後ろに撫で流していた大蔵は、腰を深く落とし、椅子に前屈みになると、肘を付いた目線で指を組み、弥紗季を見た。
言葉はゆっくりと、しかしハッキリとつむがれる。
「大阪難波の街にイレギュラーが現れた。至急、消去をお願いしたい。いいかね? 弥紗季君」
対する弥紗季は一度眼鏡を整え直すと、いつもより固い視線を見せた。
「了解や。後の事は任せたで」
「ああ、任したまえ」
一息。
大蔵がデスクの戸を引き、何かを取り出した。
「とこでこの写真はどうしようか?」
動きは一瞬。
「ぐはぅッ!!」
弥紗季は椅子に座った大蔵の額を片手で掴むと、一気に後ろへ押し倒した。
一方、大蔵はと言えば、事務所の床で後頭部を強打したらしく、動かなくなる。
その頃には、満面の笑みを含んだ自身の寝顔写真を奪い取り、弥紗季は階段を駆け上っていた。
二階にある仮眠室より更に上、屋上へと、その重い扉を開け広げる。
壁越しに聞こえていた轟音が、一気に弥紗季の体を打つ。
そこに広がるのは夜だ。
前方に建つセンタービルで、縦に割られた夜がそこにはあった。
その夜の中に、先ほどから聞え続ける轟音の正体がある。
「弥紗季さん! 乗ってください!」
巨大なプロペラが夜の冷たい風を巻き上げ、静けさを与えない。
それはヘリだった。
二人乗りの小型ヘリ。
その中で操縦幹を握る影があった。
中途半端に延びた黒い髪に、普通の黒いスーツ。
しかし、普段の眼鏡を外した男。
今ヘリの全てを扱うのは、なんだかパッとしない田渕・勇だ。
轟々と巻き上がる風の中、弥紗季は田渕の横に乗り込み、ベルトを閉める。
同時に自動でドアが閉じられ、暴れ回る風の声を遮断した。
ヘリの中に響くのは、エンジンの駆動音と二人の声だけだ。
「場所はどこです?」
田渕が弥紗季に向く。
対する弥紗季は、その胸ポケットからサラに貰った地図を取り出す。
それを受取り、田渕はポイントの位置を探し出した。
「難波ですか、広いですが……」
「大丈夫や、急いで!」
弥紗季の声に、田渕は操縦幹を握る指に力を加え、一気に引いた。
機体が浮く感覚が全身を流れる。
鉛を体に流された様な、下腹部にくる重圧だ。
その中、景色は下へと流れ、直ぐに体が左の窓へと寄る。
風の流れで動くヘリは、機体を揺らし、プロペラの向きを合わせる事で進む方向を決める。
景色は右下へと流れを変え、やがて空でブレを整えた。
その動きは極端だ。
「頭とか、ぶつけないように気を付けてくださいね!」
その声と共に、機体が前方へと前のめりになる。
「……」
しかし横の弥紗季はと言うと、返事もせずに震えていた。
それも左側の額をおさえながら。