02:とある日常
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南海電鉄。
薄紫色の電車が難波駅から和歌山駅まで、大阪を縦に割るように走るのは南海本線だ。
停車駅は約四十ヶ所。
その駅の中の一つ、樽井駅の改札を出た所に古川・弥沙希は立っていた。
二年に昇格したばかりのこの季節は、まだ肌に冷たく、セーラー服にカーディガンという格好だ。
「うげぇ……」
猫背気味な姿勢で溜め息をつき、前を見る。
薄い眼鏡越しに見るそこには、二車線の車道があった。
一直線に延びるその車道を視線で追い掛ける。
そうすると、その先を見る為に、自ずと頭が後ろに下がっていった。
色のある店屋がその道を挟み、上って行くのは、坂道だ。
大阪は坂の街と言われるが、これを見れば頷ける。
長い坂道がそこにあった。
見上げた高さに太陽がある。
その陽光を弥沙希の眼鏡が反射し、何やら不気味に光った。
太陽の高さからして十時過ぎ程か、高校生が通学するような時間帯ではない。
しかし、弥沙希は疲れていた。
欠伸が溢れる。
昨日のイレギュラー消去のせいもあるが、おそらくはその後、大蔵の仕打のせいだろう。
考えるとまたイライラしてきたのか、眉毛が寄っている。
この坂を登り切った先に、弥沙希が通う〈大阪府立泉南高等学校〉があるのだが、思う様に足が進まない。
引き返そうかと思う程だ。
しかし行かなければならない。
天才的頭脳を持っているのに、だ。
理由はある。
と言うのも、世間は弥沙希の仕事内容を知らない。
家族にですら怪しまれる訳にはいかない。
そのため、普通の女子高生として生活しているのだ。
「あぁあーだるいー」
杖が欲しい。
そんな声が坂道を転がった。
無気力に、道路の突起に跳ねる。
しかし、その声を拾うモノがあった。
それは低い音、バイクが排気を破棄だす音だった。
「おうッ遅刻か!」
その声は苦しそうに坂を登る弥沙希の横で聞こえた。
後ろから来たバイクが並んだのだ。
「げっ久兄ぃ」
バイクだと思われたソレは、改造が施された原動機付き自転車、カブだった。
それに跨るのは古川・幹久。
弥沙希の兄である。
幹久はカブの力で悠々と坂道を登ってきた。
その格好はと言えば、緑の制服をだらしなく着こなし、ヘルメットを首にかけている。
「不良女子やなぁ」
「煩いわ。仕事のカブを改造する様な奴に言われたくない」
「じゃあ何や? 不眠少女か? グワッ!」
笑う幹久のカブの横腹に、弥沙希は丁寧な前蹴りを浴びせた。
丁寧ではあるが、威力は容赦ない。
「お、お前危ないやんけ! 割れもんやぞ!」
綺麗に横倒しになったカブを起こしながら幹久は叫んだ。
対する弥沙希は無視をきめこむ。
荷台に付いた社名がプリントされたボックスを開け、中を見る。
どうやら無事な様だ。
「無茶すんなぁ」
と間を開けるようにし、
「……ふぅ」
弥沙希は再び溜め息を溢す。
「なんや? 疲れとんのか?」
「ん……バイト、詰め過ぎたんよ」
兄や親は弥沙希が犯罪まがいな仕事をしているとは知らない。
と言うか全国民も知らない筈だ。
だというのに、あの男、大蔵・一誠は深夜のニュースで放送した。
幸い、兄には知れていないようだが、この先、学校でどうなる事か。
考えると、更に疲れが増し、肩や背中にのしかかってくる。
見上げる坂はまだまだ長い。
結果、弥沙希は三度目の溜め息をつくことにした。
「あんま無理すんなや、皺と白髪が増えるで。只でさえ老けとんのに……ぅおぉい!」
カブ横転、再び。
急ぎ立て直そうとする幹久の尻にも前蹴りを喰らわす。
「ぎゃっ!」
打ち所が悪かったのか、幹久は下腹部を抑えた姿勢で地面に蹲る。
セルフで腰の辺りを叩いたりしている所を見ると、カブのどこかが急所に直撃したらしい。
「せ、せっかく乗せたろ思たのに、絶対乗せん!」
腰の引けた姿勢で、やっとこさカブを起こした幹久は、素早くそのシートに腰を乗せる。
「あっ!」
弥沙希が手を伸ばした時には幹久は高笑いを上げ、一気に坂を登っていた。
「精々足が太なる様がんばれ!」
流れる風が最後の言葉を残した。
この時、弥沙希の中に沸々と殺意が芽生えていた。
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弥沙希が泉南高校に着いたのは丁度二時間目後の休み時間だった。
教室に並ぶ机のまわりには、机の数以上の人が居た。
隣のクラスから遊びに来たりしているのだろう。
その中を縫う様にして自分の席に着くと、直ぐにその椅子に腰をかけ、机の表面と同化する様にへばりついた。
生徒達は弥沙希に何の反応も示さない。
昨夜のニュースは大蔵が仕組んだモノだったのだ。
民間放送には流れてない。
自分の家だけに飛ばされたモノなのだ。
それに気付きながらも、気に止めない。
「だるぅー」
かわりに声が漏れる。
その声は机に溢れると、ゆっくりと端へと転がり、床へと消えていった。
机の端を落ちる時に、こちらに振り向き、親指を立てた様に見えたが、頭を振ってかき消す。
疲れているのだ。と、自分にいい聞かせた。
そうこうしている内に、弥沙希の机に近付く一つの影があった。
「弥沙希様、遅かったですのね!」
「げっ」
机の前にひょっこりと現れたのは三つ隣のクラスの女子。
宮崎・りるか(みやざき・りるか)だ。
可愛く巻かれている赤みのかかった髪の隙間、そこから覗く広いオデコに汗が浮いているのを見ると、どうやら廊下を走ってきたらしい。
しかし、それすらも可愛らしく見せるのは、彼女の産まれもっての特権だろう。
その可憐な髪を揺らすと、りるかはいきなり弥沙希目がけて飛び込んだ。
「やめい!」
「ギャッ」
それを椅子を引く軽い動きだけでかわし、前を飛ぶりるかを机に叩きつけた。
その音と短い悲鳴に教室が一瞬押し黙るが、しかしいつもの事と再びざわめきはじめる。
そう。いつもの事なのだ。
日本有数の大型ITサービス企業。
その社長令嬢であるりるかは、昔から。幼稚園時代からこうだった。
こんな府立の学校に通うのも、弥沙希に付きまとう為だと誰もが理解している。
しかし、その理由は不明だ。
クラスの誰もがりるかの事を同性愛者だと思っているだろう。
「痛ぁ〜」
りるかは机から体を起こすと、恐らく打ったと思われる広いオデコを両の手で撫でる。
それを見ながら弥沙希は思うのだ。
(なぜうちのまわりには異常者しか居らんのや…)
自分もその異常者の一人とわかっているのかは不明だが、大きな溜め息が教室に溢れた。
「ほら。チャイムなるで、はよ戻り」
ほっておくと泣き出しそうなりるかの頭をポンと叩くと、携帯電話の時計を見せる。
授業が開始される10時40分まで後一分も無い。
その事をりるかに伝える。
結果、りるかはハッと顔を上げ、
「また後で来ますの!」
と、だけを残し、風の様に去っていった。
それを薄い眼鏡の奥の細目で見送り、机につく。
またも大きな溜め息が溢れた。
溜め息の多い人生だなと、若い内から答えを出した時、校内に授業開始のチャイムが鳴り響いた。
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時間は12時40分。
校内は今、誰もが待ち望んだ昼休憩だ。
廊下を歩く者は食堂に行くのだろう。
その手に小さな紙切れの券を持っている。
教室では机をくっつけている者や、空いた椅子を勝手に使っている者も居る。
そんな中、教室の隅、窓側の一番後ろの席で一人、カツサンドを食べている女子が居た。
弥沙希だ。
誰とも話さずにゆっくりと、カツサンドを口に頬張る。
少し噛んだ後、パックのオレンジジュースを少量、口に含んだ。
「弥沙希様!」
「うごっ!」
丁度その時だ。不意に誰かに後ろから抱きつかれた。
そのため、口に含んでいたオレンジジュースは食道を通らず、気管に入ってしまった。
思わずむせる。
苦しい咳を何度か出すが、胸の違和感は消えない。
「り……る、か……」
首に巻き付く細い腕、それを剥がし、見上げた場所にりるかの顔がある。
満面の笑みだ。
対し、弥沙希はと言うと、無表情に等しい。
口元から溢れた呼気は紫色を帯ていた。
と、咳が治まったのか、何かが切れた様に弥沙希が跳ね動く。
そして徐にりるかの首を絞め上げたのだ。
「ぐ、ぐるじい……です、の……」
りるかから漏れるのは苦鳴だ。
しかしとうの弥沙希は、その手を緩めない。
「いい加減にしいや、りるか……」
と、脅しかける。
「ご、ごめんな、ざい……」
がっちりと掴んだ腕を、りるかはタップする。
顔色が若干青くなってきたのを見て、弥沙希はその手を離した。
「はぁ…はぁ、はぁ……」
りるかは、両手を膝についた姿勢になり、急いで酸素を取り入れようとするが、中々に苦しい。
「ひどいですの……はぁはぁ。」
「煩い、いきなり抱きつくな!」
「り、りるかはただ弥沙希様に愛妻弁当を」
とそこで押し黙る。
弥沙希の顔を見たためだ。
今の弥沙希は視線だけで人を殺せるかも知れない。
しかし、その表情もじきに元に戻る。
どうやら落ち着いたらしい。
そのせいか、教室のざわめきがより一層増した気がする。
昨日の夜のイレギュラーの話や野球の話、それらが今、この教室に溢れかえっているのだ。
弥沙希は黙る。
そして視線を教室の真ん中に集まる金髪の女子達に向けた。
教室の中で一際声が大きかった為だ。
化粧をした金髪の女子三人は、行儀の悪い姿勢で、弁当やらを食べながら会話をしていた。
その内容は嫌でも耳に入ってくる。
「見てみコレ! 超男前やろ?」
「誰よコレ。どこに居てんのこんな男」
「モバともやで! 今日会うねん!」
ふと気になるワードがあった。
〈モバとも〉とは、今、弥沙希の前に居る宮崎りるかの父親の会社が経営するサービスの一つだ。
その内容は、携帯電話を使ったコミュニティサイトで、日本全国の人々とコミュニケーションを取る事が出来る。
今、日本の若者の殆んどがその会員に入っているだろう。
それほど大型のサービスなのだ。
と、弥沙希が何やら険しい顔を浮かべる。
「?」
対するりるかは、その表情を不思議そうに見ていた。
それを横目に、
「ちょっと待ってな」
と制すと、その三人組の方へと足を向けた。
その中で、先程携帯電話を見せていた女子に話しかける。
「あんまりそういうんで人と会うんわ、よした方がええで」
その声は酷く静かだったが、ちゃんと届いただろう。
しかし、女子達は対した反応を見せなかった。
俗に言う、無視だ。
(まぁ、別にどうでもええけど)
その言葉は口には出さない。
こういう場合、きっとめんどくさい事になるだろうとわかっているからだ。
これが現在のあり方なのだ。
携帯電話の普及により、大量の電子が飛び交う様になった。
それらは海を越え、例え裏側の世界と言えども繋げる事が出来る。
結果、世界との交流は広まり、交渉はスムーズになり、色々な処理が素早く行える様になった。
だが、それらは生活のリズムすらも変えてしまったのだ。
嫌な感覚が弥沙希の頭の隅に生まれ、見え隠れする。
教室を眺めた。
今の世界の状況で、危機感を持つ者が果たしてこの中に居るだろうか。
「どうしたんですの? 早く屋上に行きましょう!」
突然、りるかが弥沙希の脇にその細い腕を絡めて来た。
それも、結構な勢いで、引っ張るようにだ。
「あうっ」
いや、確実に引っ張っている。
と言うより、引きずっている。
視界が一気に右へと流れ、弥沙希は倒れ込んだ。
しかし、それでも止まらない。
りるかは倒れた弥沙希を引きずりながら、教室から出ていった。
時間を見れば12時46分。
昼休憩はまだ続く。