第8話 正義の味方R
新永山高等学校、2年E組。
いつも通り、とも言える面倒事が、教室の隅で起こっていた。
「なー、ほんっとウザいんだけどアンタ」
女子生徒が4人、壁際で群れている。3人が1人を取り囲んで、汚い言葉を浴びせているのだ。
「もーちょっとさあ、愛想良く出来ないワケ? 見ててマジむかつくんだよね」
「あたしらに不愉快な思いさせてるっての、わかってる? 人に迷惑かけてんだよアンタはいるだけでっ」
飯島麗華、村越江美、石塚恵。
ここ2年E組で、特に強大な権力を持つ女子生徒たちである。
飯島麗華は女王とも呼ぶべき存在で、柄の良くない男友達も何人かいるようだ。村越と石塚は、飯島の側近のようなものである。
そんな3人に囲まれているのは、九条真理子だ。
今日も暗い顔をして化粧気もなく、髪にも服装にもあまり気を使っていない。
もう少し明るく振る舞えば、かなり可愛く見えるのではないか。中川美幸は、そう思っている。美貌そのものは、少なくとも自分などよりずっと上だ。
その美貌が、飯島たちに囲まれ、俯いている。
教室内の生徒たちは男女問わず皆、会話も弾まず、居心地悪そうにしている。教室の隅で起こっている事態を視界に入れまいと、一生懸命になっている。
真理子の髪を、飯島麗華が乱暴に掴んだ。
「……ねえ、人の話聞いてる? 何か言いたい事あるんなら言ってみなよ」
「あたしら別にイジメやってるわけじゃないから。あんたの話もちゃあんと聞いてやるからさぁウザメス豚ちゃん」
「あの、ちょっと」
美幸は意を決して席から立ち上がり、声を発した。
飯島が、石塚と村越が、ジロッとこちらを向く。
「中川さん……あたしらに話しかけてる? もしかして」
「はい……あの、すごく迷惑してますから」
まずは、しっかりと話をしておくべきであった。言うべき事は、言っておかねばならない。
「あたしだけじゃなくて、みんな嫌な気分になってます……だから、やめて下さい。そういう事」
「ふーん……」
飯島麗華が、興味深げにニヤニヤと笑いながら、歩み寄って来る。
村越と石塚が、それに続く。
その場に取り残された九条真理子が、相変わらず暗い顔で、じっと美幸を見つめる。
嫌な目に遭っていたクラスメートから、嫌な目に遭わせていた者たちを引き離す事には、とりあえず成功した。
問題は、ここからだ。
「思った通り……真面目ちゃんなんだぁ、中川さんって」
飯島が片手で、美幸の髪を掴んだ。
「あたしらなんか見習わなきゃいけないねぇ、ホント」
「……!」
美幸は痛みに耐えた。1度か2度、引っぱたかれる事くらいは覚悟しなければならないか。
「……おい、やめとけよ。もう」
男子生徒が1人、立ち上がって声をかけてきた。
「中川さんの言う通り、確かに俺らも嫌な思いしてる。だから、やめてくんねえかな」
村木恵介だった。同じクラスとは言え、美幸とはほとんど会話がない。
「意外な展開……まさか、村木君がそんな事言うなんてねえ」
飯島が、美幸の髪から、とりあえず手を離してくれた。そして恵介の方を向き、嘲笑うように言う。
「どうしちゃったの一体。今まで単なる背景だったくせに、急に自己主張始めちゃって」
「女の子に声かけた事もない村木君が、まさか麗華にそんな事言うなんてねえ」
村越と石塚も、笑っている。
「一念発起ってやつ? 女の子にモテたくて、いいカッコしちゃってるわけだぁ」
「そういうわけじゃねえけどよ……やめといた方がいいんじゃねえかな、そういう事は」
困ったように頭を掻きながら、恵介は言った。
「今ほら、いじめに関しちゃ色々とうるせえし……な?」
「イジメやってるわけじゃないって言ってんだけど。村木君、ちょっと言葉に気ぃつけてくんない? ねえ」
飯島の美しい顔が、凶悪に歪んだ。
「北岡の事、覚えてるよね? 北岡光男。1年の時、村木君のズボン下ろしたりお金取ったりしてた奴。今は違うクラスになっちゃったけど、あたし最近……あいつと、仲いいのよね」
「北岡は関係ねえだろう。とにかくやめろって、もう」
「関係ないとか言ってる。村木君すごーい」
村越と石塚が、はやし立てた。
「村木君が何かすごいカッコ良くなっちゃったって事、北岡に知らせたら何て言うかな? ねえ」
「知らせたきゃ知らせろよ。とにかく、こんな事はもうやめとけ。な?」
恵介の口調は、穏やかだ。
飯島の美貌が、さらにヒステリックな歪み方をした。
「あんた…………!」
罵詈雑言が迸りかけた、その時。教室の扉が開き、先生が入って来た。
国語科の吉沼教諭。こういう問題に関して頼りになる先生ではないが、それでも教師である。飯島も、村越も石塚も、席に戻った。
その際、飯島が美幸を睨み、一言だけ残した。
「これで済むなんて、思ってないよね……?」
何も言い返さずにいる美幸に、九条真理子が、ぼそりと声をかける。
「一応あたしを庇って、人道主義者の顔が出来て……中川さんは満足? 気が済んだ?」
(だからね、九条さん……そういう性格だから、飯島さんたちに)
美幸は思わず、そう言ってしまうところだった。その前に、九条は自分の席に戻った。
起立、の声がかかる直前、村木恵介と一瞬だけ目が合った。
大変だったな、と言いたそうな微笑を、彼は浮かべていた。美幸も、微笑み返した。
これまで会話のなかった男の子と親しくなる、きっかけくらいは掴めたのかも知れなかった。
自分たちの姿が美麗なイラストとして表示されているのを見て、聖王女レミーも轟天将ジンバも、さすがに驚いていたようだった。
ブレイブランドの戦士たちが描かれた絵札。それを使った遊びが、30万人近い人々の間で流行っている。
レミーとジンバが、その説明をどれほど理解してくれたのかは不明である。
この世界に追いやられたという魔王を探すため、2人は今頃、村木家を拠点として捜索を始めているはずであった。
雲を掴むような話だろう、と恵介は思っていたが、存外そうでもないらしい。
ブレイブランドにある「死せる湖」という場所が、こちらの世界と繋がっているという。
正確に言うと、こちらの世界の日本という国の、この辺り。死せる湖は、それ以外の場所とは決して繋がっていないという。
魔王であろうと聖王女や轟天将であろうと、死せる湖を通れば、自動的にこの界隈に出てしまうという事だ。
すなわち魔王は、この辺りにいる。全世界をくまなく探す必要などない。レミー王女は、そう言っていた。
「まさか、この学校にいたりしてな……」
呟きながら恵介は、新永山高校・B校舎とC校舎の間を歩いていた。路地裏のような狭い空間である。購買部へ行くには、ここを通るのが近道なのだ。
魔王とは、ブラウザ上でなら、恵介は何度も戦った。何度も討伐した。
実際こちらの世界に魔王が現れたら、自分に出来る事など何もないだろうと恵介は思う。何しろファイヤーヒドラやソードゴブリン相手にも、何も出来なかったのだから。
「あの、村木君……」
後ろから、声をかけられた。
振り返ってみると、中川美幸が追い付いて来たところだった。
「さっきは、どうもありがとう」
「大変だったよな」
恵介は思い返してみた。
中川を、助けるような行動を取ってしまった。少し前の自分であれば、絶対に出来なかった事だろう。
ファイヤーヒドラやソードゴブリンに、殺されかけた。
あれ以来、自分は変わった……とまでは、恵介は思わない。
ただ大抵の物事が、あれに比べれば大した事はない、と思えるようにはなった。
「あたしのせい、なのかな……」
中川が、申し訳なさそうにしている。
「村木君……飯島さんたちに、目ぇ付けられる事になっちゃったね」
「ん? ああ、大した事ぁねえよ」
恵介は笑った。
飯島麗華は、確かに恐い女の子である。
だが聖王女レミーや闘姫ランファに比べれば、何という事はない。
「……言ってくれるのね」
声がした。冷たく陰湿そうな、女の声。
恵介は振り向いた。
飯島麗華がそこにいた。石塚恵と、村越江美もいる。
それに、男子生徒も数名いた。全員、飯島の男友達である。
「誰が、大した事ないって? 村木君……何か本当に、カッコ良くなっちゃったよねえ。北岡と違うクラスになっちゃった途端に」
「よおよお、どーしちゃったの村木くぅん」
飯島の男友達の中から、特に柄の悪そうな1人が進み出て来た。
北岡光男。1年生の時は、同じクラスだった。
おかげで恵介にとっては1年間、地獄の日々が続いた。
「何か、俺がいねえ間に調子ぶっこくようになったって? なあ、なあなあなあ」
北岡が、にじり寄って来て恵介の胸ぐらを掴む。力は強い。身体も大きい。
が、轟天将ジンバに比べたら虫ケラのようなものだ。
双牙バルツェフに剣を突き付けられた時と比べれば、蟻に咬まれているようなものだ。
「いけねえなぁ。俺、村木君をそーゆうふうに教育した覚えはねえんだけどぉお」
「……俺も、おめえに教育された覚えはねえよ」
つい、そんな事を恵介は口にしていた。
北岡の顔が、凶悪に引きつった。1年生の時、恵介はこの顔が恐ろしくて仕方がなかった。
「今、何つった? てめえ……」
「悪いけど離してくんねえかな、手」
恵介は言った。途端、顔面に衝撃が来た。北岡に、殴られていた。
ジンバに頼めば、殴り合いの稽古くらいはつけてくれるだろうか。そんな事を思いながら、恵介は尻餅をついていた。
「うっわ意外……村木君が北岡に、まともな口きいちゃってるよぉ」
村越江美が、面白がっている。北岡の取り巻きと思われる男子生徒たちも、ニヤニヤと笑っている。
「やめて! やめてよ!」
中川が悲鳴を上げ、恵介と北岡の間に割って入ろうとする。
「言ったよねえ、あれじゃ済まないって……」
飯島が中川を、髪を掴んで引きずり寄せた。
「わかった? あたしに向かってああいう口きくってのは、要するにこういう事なの。わかった? ねえわかった? もっとよくわからしてあげよっか? ねえ」
「……だから、やめろっつってんだろ。そういう事は」
起き上がりながら、恵介は言う。
そこに、北岡の蹴りが飛んで来た。
「てめ……ほんっと調子こいてんなあ、おい」
倒れ込んだ恵介を、北岡がガスガスと踏み付ける。
「何か、てめえ今……俺の事、バカにした? 間違いなくバカにしたよなあ?」
「……まあ、そうかなぁ」
頭を抱えて背中を丸め、急所を守りながら、恵介はどうにか声を出した。
「おめえの事、何であんなに恐がってたのかなぁ……なんて、そんな気分になっちまってさ」
「死にてえのかクソが! ゴミが! クソゴミクズがあああああああ!」
校舎と校舎の間に喚き声を響かせながら、北岡は狂ったように、恵介の身体に蹴りを降らせた。
ひたすらに身体を丸めながら恵介は、車の下敷きになっていた女性の事を思い出していた。彼女は、今の恵介などとは比べものにならないほど痛い思いをしていたはずだ。
あの車を、矢崎と2人で持ち上げようとしていた。今考えると、本当に馬鹿のようだ。
「やめて! やめさせて飯島さん! 村木君は関係ないから!」
中川美幸が、悲鳴を上げている。
飯島は、激昂していた。
「他人の心配なんかして、カッコつけてる……! 何、ヒロインか何か気取っちゃってるわけ? このブスは、メスブタはッ!」
「おいおい、そりゃあねえだろ。かわいーじゃねえか、この子」
男子生徒の1人が、中川の細い腕を馴れ馴れしく掴んだ。
「どうよ、俺ら専属の肉便所になってみる? そうすりゃこの村木君とかいうの、助けてやるぜ」
「やめろ!」
恵介は叫んだ。叫んだ口元に、北岡の蹴りが入った。
「てめカッコつけてんじゃねえよ村木のくせに! 人間ゴミ箱のくせによおおおおおおお!」
北岡の喚き声を上回る絶叫が、その時、響き渡った。
中川の腕を掴んでいた男子生徒の手が、別の手によって掴まれ、捻られていた。
「どういうつもりだ、小娘……」
そんな事を言いながら、いつの間にか男が1人、姿を現していた。左手で、男子生徒の片腕を捻り上げている。
「こういう時のために、俺と契約を交わしたのだろう? 何故、助けを求めん」
くたびれた感じのスーツを身にまとった、若い男だ。
髪は、見事に染め上げられた銀色。顔立ちは整っているが、目つきの凶暴さは尋常ではない。
スーツはくたびれていても、中身の体格は立派である。がっしりとした肩や胸板の形が、服の上からでも見て取れるほどだ。
ゴツゴツと実に凶悪な感じに筋張った手が、男子生徒の片腕を掴み捻っている。
捻られている男子生徒が、表記不可能な悲鳴を発し続けた。
「ち、ちょっと待って! 貴方はまだ出て来ちゃ駄目!」
中川が、妙な事を言っている。この銀髪男と、知り合いなのであろうか。
銀髪男が、とりあえず手を離した。
男子生徒が、泣き叫びながら尻餅をつく。捻られていた片腕が、おかしな方向に垂れ下がっていた。そこから、血がしたたり落ちる。制服が、ぐっしょりと赤く濡れそぼっている。
骨が折れている、だけではない。皮膚も裂けている。もしかしたら、筋肉も断裂しているのではないか。
「な……何だ、てめえ……ヤー公か?」
北岡が恵介への暴行をとりあえず止め、ポケットから何か取り出した。
ナイフだった。それがバチッと刃を開く。
「暴力団がでけえ面してんじゃねえええええ!」
そのナイフで北岡が、銀髪男に突きかかって行く。
ぐちゃ、と凄惨な音が響いた。
銀髪男の右拳が、北岡の顔面にめり込んでいた。
「なあ小娘よ。貴様が暴力は控えろと言うから、充分に手加減をしてやっているのだ」
左手で難なく取り上げたナイフを、指の力だけでグニャリと押し曲げながら、銀髪男が文句を言う。
「だが、こやつら脆過ぎる。これでは手加減すら出来んではないか」
「だから、まだ出て来ないでって……言ったのに……」
呆然と声を漏らす中川の眼前で、北岡がゆっくりと倒れた。
辛うじて、まだ死んではいない。が、顔面の下半分が原形を失っている。鼻も口も一緒くたに潰れ、無惨な肉のクレーターと化していた。そこから、折れた歯がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「は……ひっ……ぎぃ……」
微かな悲鳴を漏らしながら、北岡は弱々しく痙攣した。
にゃー……と、小さな鳴き声が聞こえた。
仔猫が1匹、銀髪男の広い肩に、ちょこんと乗っている。
他に、声を出す者はいない。全員、息を呑んだり青ざめたりしている。
そんな中、まずは中川美幸が言葉を発した。
「あの……こういう人がいるんです、飯島さん」
「中川さん……あんた……」
「だから、嫌な事をするのはもうやめて下さい。お願いします」
深々と、中川が頭を下げる。
何も言わず、飯島は逃げ出した。村越も石塚も、取り巻きの男子生徒たちも。
「どうするのだ小娘。皆殺しにする事も、出来るのだぞ? それも契約のうちだ」
「……皆殺しは、やめて下さい。それが契約です」
静かな口調で、中川が言う。
恵介は、ようやく声を発した。
「あの、中川さん……こいつは一体?」
「あたしの事……軽蔑してね、村木君」
中川は言った。
「やっちゃいけない事やってるって、自分でもわかってるの……でも他に、出来る事ないし」
彼女が何を言っているのかは、よくわからない。
とにかく今、恵介に出来る事は1つしかなかった。
「誰かは知らねえが……助けてくれて、ありがとうよ」
仔猫を連れた銀髪男に、まず礼を言う。自分が助かった事は、事実だからだ。
「ふん。別に、貴様など助けたつもりはないのだがな」
「んな事ぁどうでもいいよ。あんた、今すぐ逃げてくれ」
飯島たちが、もしかしたら先生を連れて来るかも知れない。そうでなくとも、このままでは間違いなく警察沙汰になる。
男子生徒2人が、重傷を負っているのだ。1人は腕を折られて泣き喚き、1人は顔面を潰されている。
ここに警官が踏み込んで来たら、銀髪男は無論、何らかの関係者であるらしい中川美幸も、逮捕されてしまうかも知れない。
否。この銀髪男が大人しく逮捕されるとは、恵介にはどうしても思えなかった。間違いなく、暴れる。警察関係者からも、このような負傷者が出る。
「よくわかんねえけど……この人、中川さんの言う事は聞くわけかい?」
「一応……契約してる、って事になってるから」
「じゃ、この人を連れて、とりあえず逃げてくれよ」
言いつつ、恵介は携帯電話を取り出した。まずは、救急車を呼ばなくてはならない。
「この人がいると、大騒ぎになるだろ?」
「……わかったわ」
俯くように、中川は頷いた。そして、銀髪男の背中を押す。
「さあ、行きましょう。ここにいると、おまわりさんが来るから」
「俺は何が来ても構わんのだがな……まあ、契約者がそう言うのなら」
仔猫を肩に乗せたまま、銀髪男がのしのしと歩み去って行く。中川が、それに付き添う。
見送りつつ恵介は、ブレイブランドからの客人たちが言っていた事を、ふと思い返していた。
魔王は、こちらの世界にいる。この界隈に、存在している。
「まさか……な」
恵介は、軽く頭を振った。今は、救急車を呼ぶのが先決である。