第36話 異世界へ近付く者R
1つ、わかった事がある。頭ではなく、身体で理解した事だ。
自分など、仮に本気で殺意を燃やしたところで、双牙バルツェフを殺す事は出来ない。
今のバルツェフは、徒手空拳だ。
一方、村木恵介の手には剣が握られている。バルツェフの、双剣の片方だ。
彼が常日頃、片手で軽快に振り回しているそれを、恵介は両手で握っている。片手で保持する腕力を、やはり付けるべきなのだろうかとは思う。
姿勢低く構えた剣の切っ先を、恵介はバルツェフの左胸に向けていた。
このまま突っ込んだところで、狙い通りに彼の心臓を刺し貫く事など出来はしない。
それがわかっているので恵介は、本気で突きかかる事が出来た。
「うおおおおおおおおおおおッ!」
気合を振り絞り、声を張り上げる。もしかしたら近所迷惑かも知れない。
とにかく恵介は、踏み込んだ。
踏み込んだ片足に、衝撃が来た。
背中が地面に激突し、息が詰まった。
鳩尾を、踏みつけられた。
全てが同時に起こった、と恵介は感じた。
「恵介、お前……少しは、腕上げた」
片足で恵介の腹を踏み付けながら、バルツェフが言う。
「油断してる奴、後ろから刺す……それだけならお前、出来る」
「……褒めて……くれてんの? それって……」
呻きながら恵介は、バルツェフの足をはねのけて起き上がる、事が出来なかった。
一見すると恵介よりも小柄な、魔獣属性の少年。頭にはピンと獣の耳を立て、尻からはフッサリと尻尾を伸ばし、まるで擬人化された仔犬のようでもある。
そんな小柄な少年による踏み付けを、しかし恵介は押しのける事が出来ない。体重ではないものでバルツェフは、恵介を完全に抑え込んでいた。
「畜生め……俺って今、何された……?」
恵介の片足に、衝撃が残っている。激痛ではないが、1つ間違えば脛の骨が砕けていただろう。
どうやら、足払いを喰らったようである。
自分の動きを、恵介は頭の中で再現してみた。
まず、刺突をかわされた。それと同時に、足を蹴り払われた。
仰向けに転倒し、踏み付けられて今に至る。
頭で、そう分析する事は出来る。だが。
「頭で考える……お前、無理。そこまで頭、良くない」
恵介の鳩尾から片足をどけながら、バルツェフが容赦のない事を言う。
「身体で覚えろ。今みたいな攻撃する、こういう反撃喰らう……頭で覚える、絶対無理」
「……練習あるのみ、って事か」
ようやく上体を起こしながら、恵介は呟いた。
早朝。村木家の、庭である。
双牙バルツェフか轟天将ジンバのどちらかが、毎朝こうして稽古をつけてくれるのだ。
今朝は、バルツェフだった。ジンバは今、恵介の母・浩子と一緒に朝食を作っている。
いや、それも済んだようだ。
「ごはん出来たわよ〜」
村木浩子が、リビングから声をかけてくる。
「いつも恵介を鍛えてくれて、ありがとうねぇバル君」
「お、俺……」
俺を、きちんと名前で呼べ。などとバルツェフは言おうとしたのだろうが、浩子は言わせなかった。
「恵介ってば弱いくせに意地張るから、手加減するの大変でしょう? お手柔らかに頼むわね」
「自分の息子がボコボコにされてる場面で……もうちっと他に言う事ねえのかよ」
恵介は文句を言った。文句が、返って来た。
「だって本当にケンカ弱いじゃないの、あんた。なのに意地張って警察にも行かないから……今度あんな事があったら、お母さん何があっても警察沙汰にするからね」
「……警察でどうにかなる相手じゃねえんだよなぁ」
恵介は頭を掻いた。
警察でどうにも出来ない相手を、自分がどうにか出来るわけがない。それも、頭ではわかっている事だ。
高架下の駐車場に、ライトバンが1台、停まっている。
「離して下さい……あたし、やっぱり行きません……」
「おいおい、ここまで来といてそりゃねえだろ」
学業も仕事もしていないと思われる、若い男が3人。
怯えている女の子を1人、無理やりにライトバンの中へ押し込もうとしている。
高校生、であろうか。制服を見るに、恵介とは違う学校の女子生徒だ。
「ナンパされてよ、ここまでついて来たって事ぁよ、要するにオッケーって事だろ? ん? ん?」
「いや……嫌です! やめて離して!」
「おうてめえ、いい加減にしねえと山ン中とかに捨てちまうぞ!?」
男の1人が、少女の面前でバチッ! とスタンガンを鳴らした。
少女が悲鳴を詰まらせ、青ざめている。
恵介は溜め息をついた。
警察を呼ぶべきであろうか。
いや、警官が到着する前にライトバンは走り出し、少女は連れ去られてしまう。
ならば、どうすれば良いのか。
などと考える事もなく、恵介は駐車場内に歩み入り、声をかけていた。
「……おい、やめとけよ」
「ああ? んっだテメエ」
男の1人が、狂犬のような目を向けてくる。
その顔面に、恵介は拳を叩き込んでいた。
相手は3人である。対話で平和的に解決する努力など、している余裕はない。
男が、鼻血を噴いてのけぞりながら尻餅をつく。
もう1人の男が、恵介にスタンガンを向けた。
「てめえ……!」
「駄目だよ、そういうものは見せびらかしちゃあ」
言いつつ、恵介は拳を振るった。
いや違う。拳に握り込んでいたものを、振り回した。
「相手にブチ込むまで、隠しとくもんだぜ……こんなふうによッ!」
靴下の中に乾電池をいくつか詰め込んだ、即席の凶器。轟天将ジンバの振るう鉄球を見て、思い付いたものだ。
それが唸りを立て、男の側頭部に隕石の如く激突する。
「正々堂々、得物を見せびらかして戦うなんて……あいつらにしか、出来ねえよ」
豪快に鎖を振るう轟天将ジンバも、鮮やかに白刃を閃かせる双牙バルツェフも、光り輝く剣を凛と掲げる聖王女レミーも、ここにはいない。今は恵介が、自力で戦わなければならないのだ。
側頭部に痛撃を食らった男が、いくらか危険な倒れ方をした。
救急車を呼んでやる必要がある、にしても3人目の男を大人しくさせてからだ。
「てめ……この野郎……ッッ!」
男が、ナイフを構えている。恵介は口笛を吹いた。
「いいねえ、そういうもの持ってもらえると俺も助かる。正当防衛って事に出来るからさ」
即席の凶器をヒュッ! と威嚇の形に振るってみる。
「これは、ただの靴下。電池買ったんだけど袋がなくてよ、代わりに入れてるだけだから」
恵介は言うが、男はすでにナイフを足元に落とし、両手を上げていた。
「ご、ごめん悪かった……俺、こんなナンパ乗り気じゃなかったんだよう……」
「だから何で謝っちまうの、そこで」
躊躇いなく恵介は、乾電池入りの靴下を握り込み、その拳を男の顔面に叩き付けていた。
くちゃっ、と鼻の折れる手応えが返って来た。
鼻血を噴いた男の胸ぐらを掴み、ライトバンに押し付ける。
そうしながら恵介は、凶器を握り込んだ拳を立て続けに食らわせた。
「駄目だよ謝っちゃあ。謝るくれえなら最初っからバカやってんじゃねえよ。やっていい事か悪い事か、最初に考えなきゃ駄目だろ? なあ、なあ、なあオイ」
語りかけながら、恵介はひたすら拳を叩き込んだ。鼻血と涙にまみれた、男の顔面にだ。
その顔が、ある男の高慢な美貌と重なった。
恵介は、止まらなくなった。
くちゃ、くちゃっ、と餅つきのようでもある剽軽な音が淡々と響く。
粘ついた血飛沫が、恵介の顔と制服を点々と汚す。
洗濯は自分でやるしかない、と恵介は思った。母に見られたら、何を言われるかわからない。
思いながら、恵介はひたすら拳を振るった。
拳が、止まった。横合いから手首を掴まれていた。
たおやかで綺麗な五指が、しかし信じ難い力で恵介の前腕を掴み止めている。
優美に鍛え込まれた肢体を、ブレザーの制服に包んだ少女。短いスカートとニーソックスとの間で、格好良く引き締まった太股が目に眩しい。
どこの学校の女子生徒か、などと考える必要はなかった。
「レミー……」
「……これは、しても良い事ですか? 悪い事ですか?」
聖王女レミーの言葉に、恵介は俯くしかなかった。
男たちに拉致される寸前であった少女が、アスファルト上に座り込んで呆然としている。
そちらへチラリと横目を向けながら、レミーは溜め息をついた。
「恵介さんは、見て見ぬ振りが出来ない性格……人助けのための暴力を否定する資格など、私にはありませんけど」
「……人助けじゃねえよ。俺はただ、ムカついたからブチのめしただけだ」
聖王女の眼差しを直視する事が出来ず、恵介は目をそらせた。
レミーはしかし逃がしてくれない。いくらか厳しく引き締まった美貌が、恵介の顔を覗き込んでくる。
「正直にお言いなさい。この人たちのお顔が……武公子カインに、見えてしまったのでしょう?」
「…………知らねえよ、あんな奴」
「あの男には、私が必ず罰を与えます……などと言ったところで、恵介さんは大人しくして下さらないのでしょうね」
男3人のうち、2人は自力で動けない状態だ。片方は鼻血と涙にまみれたまま座り込んで小便を漏らし、1人は危険な倒れ方をしたまま微動だにしない。
比較的、軽傷なのは、最初に恵介に殴り倒された1人である。
その男が、動けぬ仲間2人を感心にもライトバンに運び込んでいた。
自力で病院にでも警察にでも行けばいい、と恵介は思った。
自分はもしかしたら、少年院に行く事になるかも知れない。
別に構わない、などと思っている自分に恵介は気付いた。気持ちが、荒んでいる。それを、頭では自覚しているのだ。
ライトバンが、走り去って行く。
それを見送りながら、レミーは言った。
「私たちのせい、なのでしょうね……恵介さんが、そこまで荒んでしまったのも」
「……そうなの?」
「私たちが、こちらの世界に魔王を追い込んでしまった……全ては、そこから始まって」
「やめようぜレミー。誰かのせいじゃねえ、俺は……元々、こういう奴だったんだよ」
喧嘩に負けた。容赦なく叩きのめされた。虫ケラの如く、扱われた。
その鬱憤を、自分より弱い者たちに叩きつける。人助けのふりをしながらだ。
自分は元々その程度の人間なのだ、と恵介は思った。
「それよりレミーは、必要以上に気にしてるみてえだけど……魔王を、こっちの世界に押し込んだ事」
「私たちは、この世界に災いを押し付けてしまいました」
「災いってほどでも、ねえと思うな。だって魔王、あれから何にも悪い事とかしてねえし」
闘姫ランファと武公子カインを引き連れて、魔王は姿を消した。配下の魔物たち、もろともにだ。
あれから、少なくとも恵介の身の回りでは、ソードゴブリン1匹の出現すら確認されていない。
「魔王は……一体どこで、息を潜めているのでしょうか」
俯き加減に、レミーが呟く。
「さらなる災禍を、この世界にもたらすべく……」
「隠れて悪だくみをしてるってか? あの魔王が、そんな事するかなあ」
恵介は思い返した。
魔王が突然、学校に現れ、北岡光男の顔面を凹ませた時の事を。
あの時、恵介は確かに、魔王に助けられたのだ。
「あの魔王は別に、こっちの世界で何か悪い事してるワケじゃねえ。クソみてえな連中を、ちょいと殺しまくったりはしたみてえだけどな……それどころじゃねえ何かを、魔王がやらかすとしたら」
梶尾康祐が、用心棒のような形で魔王を雇っていた。
梶尾は死に、その子分のような男たちが今もまだ魔王と行動を共にしている、としたら。
「そいつらが魔王を、担いで騙くらかすなりして、何か大変な事が起こっちまう可能性はある。けどよ、そりゃこっちの世界のクソどものせいだからな。レミーたちが責任感じる事じゃねえよ」
「恵介さんは……私を、慰めてくれているの?」
レミーが、ふっ……と暗い微笑を浮かべた、その時。
駐車場に、車が突っ込んで来た。
先程の、ライトバンである。運転席で、男が喚き立てている。
「てめ、ブチ殺してやるぁああああああああああああッッ!」
拉致される寸前であった少女が、路面に座り込んだまま、か細い悲鳴を上げた。
彼女もろとも恵介もレミーも轢き殺す勢いで、ライトバンが突っ込んで来る。
泣き喚く少女の腕を、恵介は掴んだ。引きずるようにして、彼女を無理矢理に立ち上がらせた。
そして思いきり、ライトバンの進路上の外へと突き飛ばす。
即座に、恵介も跳んだ。
ライトバンが、傍を猛然と通過して行く。真っ二つになりながらだ。
大型の車体が、暴走しながら左右に分かたれ、片方は高架線の支柱に、もう片方は別の自動車に、それぞれ激突した。
乗っていた男たちが、どうなったのかを、恵介は考えない事にした。
「ごめんなさいね。かわすだけ、にしておくつもりだったのだけど……つい」
レミーが、ふわりと着地した。短いスカートが一瞬だけ舞い上がり、清楚な下着の白さが恵介の目に焼きついた。
もう1つ、白く眩しく輝くものがある。
レミーの右手に、いつの間にか握られている長剣。抜き身の刃が、白色の光を帯びていた。
初めて会った時、巨大なファイヤーヒドラを斬殺して見せてくれた、あの時と同じように。
車に轢かれそうになれば、身体が勝手に戦闘行動を取ってしまう。ブレイブクエストの勇者であれば当然だろう、と恵介は思った。レミーに、全く罪はない。
それより、警察が来る前に、この場を立ち去るべきであった。
まあ鑑識が調べたにしても、女子高生姿の美少女が光の剣を振るってライトバンを両断した、などという結論にはなかなか至らないであろうが。
「ブレイブランドからの来訪者は、いとも簡単に人を殺す……恵介さんは、そんなふうに思っているでしょうね」
「……俺だって、同じようなもんさ」
靴下と乾電池を握り込んだ拳に、感触が残っている。
「レミーが来てくれなかったら俺、たぶん止まんなかったと思う」
「恵介さんは」
スイッチを切られた蛍光灯の如く光の失せた長剣を、左手の鞘にスラリと収めながら、レミーは言った。
「もしかしたら、私たちに近い存在になりかけている……のかも知れないわね。それが良い事だとは思わないけれど」




