第2話 破壊者N
魔王討伐イベントが終わった。
九条真理子、ハンドルネーム『夜叉姫』は3位である。
入手した賞品は、烈風騎アイヴァーンUR・魔王バージョン。
スマートフォンを片手に川沿いの道を歩きながら、真理子は少し困っていた。烈風騎アイヴァーンは、無印のURレベル80がすでにいるのだ。
このブレイブクエスト、多くのブラウザゲームがそうであるように、同じキャラクターでも普通のものとイベント仕様のものが存在する。
烈風騎アイヴァーンが2人いても、別に構わないと言えば構わないのだが。
「何か、浮気してるみたい……ごめんねアイヴァーン。無印の貴方も、素敵よ」
スマートフォンの画面に向かって、真理子は思わず謝ってしまった。
「……もう1人の貴方と、仲良くしてね?」
烈風騎アイヴァーン。青い鎧をまとい槍を携えた、若き竜の戦士。
整った顔立ちは傲慢なほどの自信に満ち溢れ、頭からは黒髪を掻き分けて綺麗な角が伸びている。
背中からは威風堂々たるマントの如く翼を広げ、尻からは大蛇のような尻尾を生やしたその姿は、まさに最強の竜戦士と呼ぶにふさわしい。
このゲームのキャラクターは、大きく3つの属性に分類されている。人間、竜、魔獣である。人間は竜に対して強く、竜は魔獣に対して有利であり、魔獣は人間に強い。
真理子のデッキは一応、各属性まんべんなく編成されている。
主戦力を1名ずつ、それぞれの属性から選ぶとすれば、竜属性のアイヴァーンの他には、人間属性の武公子カイン、それに魔獣属性の魔海闘士ドランという事になるだろう。
武公子カインは、鎧とも言えぬ軽めの戦闘コスチュームに身を包んだ美形の剣士で、ブレイブクエストの公式ヒロインである聖王女レミーの婚約者という設定であるらしい。
魔海闘士ドランは、真理子のデッキの中では特に異彩を放つ戦力である。その外見は、一言で表すなら武装した半魚人。ノコギリのようなヒレを広げて牙を剥き、三又の槍を猛々しく振りかざしたその姿は、醜悪でありながらも力強く頼もしい。
男が10人いるとして、全員が美形では、やはり何か味気ないというものだ。こういうモンスター系のキャラクターが、ペット感覚で1人くらいいても良い。
この3名のみならず、真理子の戦闘デッキを成す戦士たちは全員、URの最高レベル80に達している。ここまで本当に、よく育ってくれたものだ。
当然、金はかかった。
イベントで3位を取れるようなデッキを組むために、人に言えないようなアルバイトもこなしてきた。
高校生である。外見は、取り立てて良い方ではないだろうと真理子は自覚している。それでも女子高生であれば良いという男が、世の中にはいくらでもいるものだ。
そういった男どもを相手にしていれば、わかってくる。この世の中には本当に、くだらない男しかいないと。
理想の男は、やはりブレイブランドにしかいないのだ。
「アイヴァーン……あたしの、アイヴァーン……」
人気のない歩道を、真理子はスマートフォンに頬擦りをしながら歩いていた。
右手にフェンス、その向こうは川である。左手に並木、その向こうは車道だ。
暗い時間帯で、人通りも多くない。
そんな歩道を歩きながら真理子はスマートフォンを見つめ、2枚のキャラクターカードを見比べていた。
烈風騎アイヴァーン、無印のURレベル80と、手に入れたばかりの魔王バージョンURレベル1。
後者の方は、鎧の形がどこか邪悪で、顔つきのふてぶてしさも増している。
これから気合いを入れて育てなければならないが、そうすると現在のデッキから1人、外さなければならなくなる。さて、誰に戦力外通告を下すべきか。思い入れが薄いのは迅雷剣士ハヤテか鳳雷凰フェリーナだが……
川沿いのフェンスが、ガシャッ! と荒々しく鳴った。
真理子は身をすくませ、立ち止まった。
男が1人、目の前でフェンスにもたれ、道を塞いでいる。派手なスーツを着て髪を金色に染めた、そろそろ中年にさしかかる男だ。
真理子に向かってニヤニヤと微笑む顔は、そこそこ整っているが醜い。魔海闘士ドランの方が100倍ましだ、と真理子は思っている。
「いよう、ユキナちゃん」
男が言った。ユキナというのは、仕事をする時の真理子の名前である。
「梶尾さん……何の、用ですか」
後退りをしようとして、真理子は気付いた。背後に2人、男が立っている。梶尾の、仲間というか子分のような者たちだ。
囲まれたまま真理子は、とりあえず言った。
「お金足りてるから、お仕事はしばらく入れないで下さいって……お願い、したはずですけど」
「それを決めるのは君じゃあないんだよユキナちゃーん」
梶尾がへらへらと笑い、金歯を見せる。
「指名、入っちゃってるからさあ。一緒に来てくれるよね? ね? ね?」
車道に1台、ライトバンが止まっている。運転席にいるのは、やはり梶尾の仲間だ。
拉致される。
その恐怖に、真理子は立ちすくんだ。頭の中で、思考が激しく空回りを始める。
110番。いや、警察は駄目だ。これまでのアルバイトがばれてしまう。逮捕されたら、恐らくスマートフォンも没収される。ブレイブクエストが出来ない。アイヴァーンに会えなくなる。
悲鳴を上げるしかないか、と思った時には、真理子の口は後ろから塞がれていた。
「指名入ってるっつったろ? お客様を待たせちゃ駄目だぞうユキナちゃん」
「知ってる? 君って結構、人気あるんだぜえ」
「この業界、不況知らずなんだからさあ。女子高生でいられるうちにガッポリ稼いじゃおうよ、ね?」
梶尾たちが3人がかりで、真理子の身体をライトバンに押し込もうとする。
男の片手で口を塞がれたまま、真理子はじたばたと空しく暴れた。
(嫌っ……!)
声にならぬ悲鳴が、塞がれた口の中に籠った。
(現実の男どもなんて、もう嫌……助けて、あたしのアイヴァーン……!)
激しい水音が、聞こえた。
今、川に飛び込んだのか、ずいぶん前から川の中にいたのかは、わからない。
とにかく男が1人、川から這い上がって来てフェンスにしがみついたところである。
口を塞がれたまま、真理子は目を見開いた。梶尾たちも、呆気に取られている。
向こう側からフェンスをよじ上り始めたその男は、全裸だった。
筋肉が力強く盛り上がり引き締まった裸体が、やがてフェンスを上り越え、梶尾たちの近くに落下・着地する。
「……どこだ……」
全裸の男が声を漏らし、顔を上げる。
若い男だった。20歳前後、であろうか。
髪は白い。いや、銀色か。染めたものだとしたら、相当に金をかけている。
顔立ちは美形の部類に入るが当然、烈風騎アイヴァーンの足元にも及ばない。
「ここは……どこだ……」
全裸の銀髪男は呻きながら、焦点の定まらぬ目を梶尾たちに向けた。
「……貴様らは、何者だ?」
「……そいつぁこっちの台詞だっつうの」
梶尾の仲間たちが、口々に言い始める。
「おめえ何のつもりだ、いきなりそんな丸出しで……な、何かのパフォーマンスか?」
「そんならよ、もっと明るい時に街中でやんなきゃ」
「ま、まさか俺らにスカウトして欲しいワケじゃねえよな? いくら裸でも、男は駄目に決まってんだろ」
「まあまあ」
梶尾が、全裸男に向かって進み出る。
「んー……割とイケメンだし、いい身体してんじゃねえの兄ちゃん。どうよ、俺んとこで仕事してみねえ? 男の方がイイって客も」
「貴様ら、何者だ……一体、何をしている……?」
銀髪の男には、どうやら会話をしようという意思がないようだ。
それでも梶尾は辛抱強く、会話を試みている。
「えっとまあ、確かにアレだ。女の子拉致ろうとしてるようにしか見えねえけどよ、こっちも仕事なんだよねー。仕事はほら、キッチリやんなきゃ駄目じゃん? だからアンタもさ、正義の味方ぶって……この子、助けようとか思わねえ方がいいよん?」
「その娘を、放せ……そして俺の視界から、消えて失せろ」
銀髪男の顔で、両目の焦点がしだいに定まりつつある。鋭い眼光が、激しく燃え上がってゆく。
「貴様らのしている事は、何故だか俺を……いらいらとさせる……その娘を解放し、立ち去れ。俺が貴様らを、皆殺しにしてしまう前にだ」
皆殺しになど、出来るものならしてくれて一向に構わない。真理子は、そう思った。
「たまんねえなオイ……皆殺しだってよぉ!」
梶尾が、それに他の男たちも、笑い始めた。
「正義の味方キターッ! 悪い奴らは皆殺しってかあ?」
「皆殺しだよ、皆殺し! なかなか聞ける台詞じゃねーぜえ」
「兄ちゃんよ、いい身体してんから格闘技か何かやってんだろーけどよォ」
1人が、ポケットから黒い小箱のようなものを取り出した。スタンガンだった。
「んなものクソの役にも立たねえってコト学習しやがれやぁああああッ!」
銀髪男の裸身にスタンガンが、けたたましい音を立てて押し当てられる。
そのスタンガンを全裸男は、無造作に掴み奪った。そして握力を込めた。
「これは……電撃、のつもりか?」
銀髪男の手の中で、スタンガンがぐしゃりと潰れ、残骸がバラバラと落ちた。
馬鹿笑いをしていた梶尾たちが、一斉に青ざめる。
「貴様ら、電撃をもって俺に刃向かったと。そういう事で良いのか?」
「な……」
梶尾の声に、がちがちと歯のぶつかる音が混ざった。
「何……しやがった? てめえ今……」
「握り潰した。見てわからんか」
言いつつ全裸男が、フェンスを掴んで引きちぎった。鋼鉄のフェンスが、まるで貼り紙のように引きちぎられていた。
「貴様らも今、このようになる……」
引きちぎったフェンスを、銀髪男はギチギチメキメキッ……と雑巾のように絞った。
梶尾たちは捨て台詞もなく、真理子を歩道に放置してライトバンに逃げ込んだ。
そのライトバンが、事故を起こしかねない速度で走り出し、夜闇の中へと消え去って行く。
もしかしたら走って車を追いかける事も出来るのではないかと思える全裸男が、しかし梶尾たちを追おうとはせず、フェンスの残骸を川の中へと放り捨てた。
真理子は歩道に座り込んだまま、立てなかった。
全裸男は立ち尽くし、左手で己の頭を押さえている。
「くそ……ここは、どこだ……俺は……」
牙を剥くように歯を食いしばり、銀髪男は呻いている。
「俺は……誰だ……何者だ……」
呻きながら、真理子を一瞥もせずに歩き出す。
「誰か、教えろ……俺は、何者なのだ……」
そんな言葉と共に夜闇の中へと遠ざかって行く背中を、尻を、真理子は呆然と見送るしかなかった。
「何……何なのよ……」
そんな言葉が、漏れてしまう。
もはや姿の見えない全裸男が一体何者であったのかは、わからない。
が、真理子に恐い思いをさせる現実世界の男である事に、違いはなかった。
「もう嫌……ろくでもない男、恐い男しかいない、こんな世界はもう嫌ぁ……」
スマートフォンを握り締め、真理子は泣き出していた。
「アイヴァーン……あたしを、連れてって……あたしを、ブレイブランドに連れてってよォ……」
魔王討伐イベントが終わった。
村木恵介、ハンドルネーム『K太郎』は3982位である。
ブレイブクエスト全プレイヤー公称25万人の中の、3982位。健闘した方ではないかと恵介は思っている。賞品として、と言っても参加賞に近いものであろうが、回復アイテムを割と多めにもらった。
学校帰りに立ち寄ったコンビニエンスストアで恵介は今、電子マネー売り場をじっと睨んでいた。
ブラウザコイン1万円、5000円、3000円、1000円のカードが売られている。これらを購入し、カードの番号をパソコンなり携帯電話なりに入力して、ブラウザゲーム内でのみ使用出来る通貨に変換してもらうシステムである。
イベントでトップ100位内に食い込むプレイヤーというのは、1万円のカードを月に何枚も買っているに違いない。
恵介は何日か前に、1000円のカードを買った。今月はそれで終わりである。次に買うのは、来月の小遣いをもらった時だ。
月に1000円。そう決めている。自分で定めたその決まりを、破ってしまおうかと思った時も、ないではないが。
「ま、そこまでハマってるわけでもねえし……って」
客が1人、店内に入って来た。
矢崎義秀だった。すぐに、目が合った。
「よう恵介君。今、帰り?」
「まあね」
浩子に何かお使いでも頼まれて来たのか、単にブラブラしているだけなのかは、わからない。
とにかく矢崎は、入口近くのラックから求人情報誌を1冊、手に取った。恵介は、思わず言った。
「ほぉー、働く気になったかい。居候の間男が」
「まあ、ちょっとでも浩子さんや恵介君の助けになればね」
父が、海外で仕事をしている。母もパートで働いている。その上、この居候がアルバイトでもするようになれば、村木家の家計は大いに潤う。恵介はつい、そんな事を考えてしまった。
「それにしても恵介君さ……学校行く時も帰る時も、大抵1人だよね」
菓子パンでも買おうかと売り場を眺めている恵介に、矢崎が失礼な言葉を浴びせてくる。
「もしかして恵介君、友達いない?」
「うるせえな。何か文句あんのか」
普通に会話をする程度の友達なら、学校へ行けば何人かいる。全員、男だが。
「ま、男の友達なんて何人いてもウザいだけだけどさ……恵介君、彼女もいない?」
「……うるせえな。何か文句あんのか」
恵介は睨みつけた。矢崎は、へらへら笑っている。
「恵介君もさあ、1度ナンパでもやってみなよ。もちろん最初っから上手くいくわけねえけどさ、1日じゅう粘って300人くらいに声かけてみ? 1人か2人は絶対、引っかかってくれるから。恵介君、イケメンなんだし」
「んなワケねえよ……」
「イケメンでしかも童貞! 肉食系なお姉ちゃんたちが放っておかねえって!」
「で、でけえ声で言うなバカ!」
恵介は大きな声を出した。店員が、ちらりと目を向けてくる。
咳払いをしつつ恵介は、1人の少女の姿を思い浮かべていた。彼女とか恋人とかいう言葉を聞いて真っ先に頭に浮かんで来るのは、常にその少女である。
いささか際どい水着鎧を身にまとった、金髪の美少女剣士……聖王女レミーの、美麗なイラスト。
(……バカ野郎、相手は二次元キャラだぞ!)
恵介は、心の中で己を怒鳴りつけた。
(ったく、そこまでハマってるわけじゃねえってのに……)
こんな事だから童貞などと、矢崎にも馬鹿にされてしまうのだ。
声を小さくしながら、恵介は言い返した。
「どっ……ど、童貞で何が悪いんだよ。間男よかマシだろうが」
「はっはっは恵介君。女の人に養ってもらうって、男として最高の生き方なんだぜー?」
大勢の女性の間を渡り歩いて、働かずに暮らす。最高の生き方かどうかはともかく、自分にはない能力であると、恵介は認めざるを得ない。
へらへら笑っていた矢崎が、少しだけ真面目な顔をした。
「? ……今、何か聞こえなかったかな」
「聞こえたっつうか……」
恵介も感じた。店全体を揺るがす、震動のようなもの。他の客たちも店員も、怪訝そうな顔をしている。
地震とは少し違う、と恵介は感じた。何か巨大なものの足音のような、響きだった。
店の外から、どよめきが聞こえて来る。どよめき……と言うか、悲鳴だ。
恵介と矢崎は1度だけ顔を見合わせ、店の外へと向かった。
自動ドアが開いた瞬間、凄まじい熱風が押し寄せて来た。何やら得体の知れぬ、生臭さと一緒にだ。
「うっ……ぷ……」
恵介は、よろめきながら鼻を押さえた。
目の前で、炎が燃えている。
小さな家なら丸焼けにしてしまいそうな炎が、路上の通行人たちを巻き込んで激しく渦巻き、すぐに消えた。
黒焦げの塊がいくつも、路面のあちこちに残されている。全て、よく見ると人の形をしているようでもある。得体の知れぬ生臭さは、それらが発しているようだ。
「何だ……ってんだよ……」
鼻を押さえたまま、恵介は呆然と呟いた。
人間が大勢焼け死んだ、とでも言うのか。そんな事が、現実に起こり得るのか。
店員が、店の外へ出て来ると同時に悲鳴を上げ、尻餅をついた。
悲鳴を上げている者は、他にも大勢いる。皆、座り込んだり逃げ惑ったりしている。
呆然としながら恵介は、おかしなものを見た。
自動車が、空を飛んでいる。グシャグシャに潰れた状態でだ。乗っている人間がどうなっているのかは、恵介は考えない事にした。
本当に全ての思考を停止させてしまいたくなるような光景が今、そこにある。
広い交差点の中央に鎮座した、巨大な生き物。
その太く長い尻尾が跳ね、また1台の車をグシャアッと打ち飛ばした。ひしゃげた車体が、ガラスの破片をまき散らしながら空を飛んで行く。
何本もの首がうねり、大口が開き、長い舌と一緒にチロチロと炎が揺らめく。
その炎がゴオッ! と膨張し、迸った。
交差点近くの雑居ビルが1軒、火災に見舞われた。炎に包まれた人間が1人、3階の窓から落下した。
広い交差点の中央で、炎を吐いているもの。それは、何匹もの大蛇だった。
いや、何匹もいるわけではない。1つの巨大な胴体から、何本もの首が分かれているのだ。
尻尾は1本だけである。それがまたしても振り回され、車2台を叩き潰し吹っ飛ばし、信号機の支柱を1本へし折った。
何本もの……正確には8本の首を生やし、口から炎を吐き出す大蛇。
この怪物を、恵介は見た事がある。ゲームの中でだ。
「ファイヤーヒドラ……」
ブレイブランドを『探索』する事でしか遭遇しないはずの怪物が今、視界の中で、現実的な破壊と殺傷を行っている。
いや、本当に現実なのか。ブラウザゲームのやり過ぎで、幻覚を見ているのではないのか。
「そこまでハマってるわけじゃねえ……んだけどなぁ……」
恵介がそんな事を呟いている間に、矢崎が駆け出していた。
なりふり構わぬ逃げ足の速さだ、と恵介は感心したが、逃げ出したにしては行く先がおかしい。
少し離れた所で、子供が1人、路面に座り込んでいる。3歳くらいの、小さな男の子だ。
その近くで、彼の母親と思われる女性が、ひしゃげた自動車の下敷きになっていた。
「ママ……ママぁ……」
目が虚ろになりかけた母親の近くで、男の子は座り込んだまま泣きじゃくっている。
矢崎は、そちらへ向かっていた。
恵介は思わず目をこすった。
ファイヤーヒドラなどよりも大変な幻覚を今、自分は見ている。そんな気分になった。
矢崎が身を屈め、女性を押し潰している車の残骸に両手をかけ、何やら力んでいるのだ。
車をどけて、女性を助けようとしている。そのようにしか見えない。
「何……やってんだよ、矢崎さん……」
矢崎とは1度、腕相撲をした事がある。あっさりと恵介が勝った。腕力で車を動かす事など、出来るわけがない。
恵介は頭を働かせた。
自分が今ここで選択すべき最良の行動、それは一目散に逃げ出す事だ。責める資格など、誰にもない。死にかけた人間の救助など、警察なりレスキュー隊なりに任せるしかないのである。この状況だ。自分が通報しなくとも、いずれ来るであろう。
車の下敷きになった女性が、それまで生きていられるか。子供もろともファイヤーヒドラに焼き殺されないと言い切れるのか。そうなったらなったで、仕方がないではないか。恵介に出来る事など何もない。ここにいたところで、あの女性のように、飛んで来た車の下敷きになるのが関の山だ。あるいは炎を浴びて、路上に転がる焼死体の仲間入りをするか。
そんな様々な思考が、恵介の中で、ある1つの感情に押し潰された。その感情を、恵介は口に出していた。
「間男に出来て……俺に出来ねえワケあるかああああああああッッ!」
叫びながら恵介は走り出し、矢崎を手伝うように車の残骸に取り付き、渾身の力で持ち上げにかかった。持ち上がるわけがなかった。
叩き潰された車体の中で、運転者の男が血まみれで突っ伏している。生きているかどうかわからないのは、下敷きになっている女性と同じだ。
いや、女性は辛うじてまだ生きていた。
「…………その子を……」
か細い声が、しかしハッキリと聞こえた。
「お願い……その子を、連れて行って……」
「……恵介君、頼む」
矢崎の、こんなに真剣な声を、恵介は初めて聞いた。
「この人は俺が何とか助ける。その子を連れて、逃げてくれ……」
「何とか助けるって、出来るわけねえだろ……」
言ってから恵介は、自分にも何か出来るわけではないと気付いた。
出来る事があるとすれば確かに、泣きじゃくっている小さな子供を、安全な場所まで運んで行く事くらいである。
「……わかったよ、カッコつけの間男野郎。てめえなんかより、未来ある子供の命の方が大事だもんなっ!」
「そういう事」
懸命に車を持ち上げようとしながら、矢崎がニヤリと笑う。
恵介は舌打ちをしながら、車の残骸から手を離した。そして座り込んでいる男の子の小さな身体を、無理矢理に抱え上げる。
「ママ! ママを助けてくれなきゃやだああっ!」
「……ごめんな」
泣き喚く男の子を思いきり抱き締めて黙らせつつ、恵介は走り出した。が、すぐに立ち止まった。
ファイヤーヒドラの首が1つ、前方に回り込んで来たのだ。
巨大な蛇の頭部が、恵介の目の前で大口を開いている。凶悪な牙の列が見えた。それ自体が1匹の蛇のような、長い舌が見えた。そして炎が見えた。大蛇の喉の奥で燃え上がり、こちらに向かって迸ろうとしている。
泣きじゃくる男の子と抱き合うような格好で、恵介はへなへなと座り込んだ。
座り込んだ恵介の眼前に、人影が1つ、ふわりと滑り込んで来た。
白いマントに包まれた、細身の姿。
また幻覚か、と恵介が思っている間に、ファイヤーヒドラは炎を吐いていた。
白い人影が、恵介の眼前で動いた。光が閃いた。どうやら何か刃物を抜いたらしい。
ナイフ、いや刀剣である。日本刀ではない、両刃の西洋的な長剣。
それが一閃し、ファイヤーヒドラの炎を切り裂いていた。そのようにしか見えなかった。
激しい炎が、まるで高速船に切り裂かれる水面の如く分断され、恵介の左右に飛び散って消えてゆく。
白いマントが、ふわりと脱ぎ捨てられた。
煌めく金色の髪が、まず見えた。眩しいほどに白い肌と、鮮やかな青い鎧が、続いて見えた。
見覚えのある色合いだ、と恵介は思った。
「青の賢者様がおっしゃる事、あてになりませんね。こちらの世界には心卑しい人々しかいない、などと」
金髪の少女の涼やかな声が、恵介の耳を心地良くくすぐる。
「己の命を捨てる覚悟で他者を助け、弱き者を庇う……そんな勇者が、いると言うのに」
炎を切り裂いた長剣をユラリと構え直しながら、少女は恵介の方を振り向いた。
美しさと可愛らしさが、同居していた。
頬の曲線は滑らかで、顎は愛らしく尖り、鼻梁もすっきりと綺麗である。澄んだ瞳はにこやかに細められ、可憐な唇は微笑みの形に歪みながら、涼やかな言葉を紡ぐ。
「だけど本当に命を捨ててしまっては駄目。無茶はいけませんよ? 勇者様」
「勇者様……って、俺……?」
泣きじゃくる男の子と抱き合ったまま、恵介は呆然と言った。
同年代の女の子と、本当に久しぶりに会話をした。そんな事を思いながら、まじまじと観察してしまう。
自分を助けてくれた金髪の美少女の、裸に近いボディラインを。
青い胸甲に包まれた、形良い乳房の膨らみを。美しくくびれた脇腹を。
ほっそりとしていながら力強さをも感じさせる、左右の二の腕を。
ミニスカートのような腰鎧の上から何となく見て取れる、白桃のような尻の形を。
すらりと格好良く伸びた両脚を。スカート鎧とブーツ状の防具との間で、瑞々しく膨らみ引き締まった裸の太股を。
知っている、と恵介は思った。自分は、この少女を知っている。
コスプレの類であるはずはなかった。この少女は実際に、炎を断ち切る剣技を見せてくれたのだ。
呆然と、恵介は名を呟いた。
「聖王女……レミー……」
「あら? まだ名乗ってもおりませんのに……と、そんな話をしている場合ではありませんね」
恵介と小さな男の子を背後に庇い、聖王女レミーは長剣を構えた。そして、ファイヤーヒドラと対峙する。
末期症状だ、と恵介は思った。ゲームのヒロインが現実世界に現れる。そんな夢まで見るようになってしまった。
(そこまで……ハマってるわけじゃ……ねえんだけどなぁ……)




