第15話 平和を守る者SR
人を殺してはならない。
当然である。理由などない。それは人間属性の者であろうと、魔獣あるいは竜属性の者であろうと同じだ。
わかっていても、人を殺したくなる。理由はない。それもまた、全ての属性の者たちに共通する心理なのだ。
「てめえらはよぉ、いくら平和でやる事ねーからってなあああああ!」
烈風騎アイヴァーンは叫び、拳を振るった。充分に手加減はしている。
それでも兵士の鼻は潰れ、大量の血飛沫がビチャッ! と咲いた。
「やっていい事悪い事ってのがあンだろうがあ? おう! おう! おう!」
翼をマントの如くはためかせ、アイヴァーンは身を翻した。
左足が、尻尾が、右足が、立て続けに跳ね上がって弧を描き、兵士たちを打ち据える。
何本もの槍がへし折られ、それを持つ兵士たちが吹っ飛んで行く。全員、肋の2、3本は折れているだろう。
ブレイブランド東部ゴルメド地方。領主ノーラン伯爵の館である。烈風騎アイヴァーン1人に叩きのめされた警備兵たちが、邸内至る所に横たわり、血を吐き、呻いている。
1人も殺してはいない。ここへ来るまでアイヴァーンは、辛うじて自制してきた。
その自制が、そろそろ限界に達している。
「ひぃ……」
悲鳴を漏らし、逃げようとする警備兵の1人を、アイヴァーンは左手で掴み寄せた。
「おめえよぉ、リゼル村のマーシュっておやじ知ってるよな? 税金払えねえからって牢屋にブチ込まれた、あの足悪いおっさんだよ」
怯える兵士の胸ぐらを掴み、揺さぶりながら、アイヴァーンは怒鳴りつけた。
「そいつの子供が2人、お父ちゃんを返してって頼みに来たそうじゃねえか? てめえ門前払い食らわせた挙げ句、蹴りまで入れやがったんだってなあ! そのガキどもによお!」
「し、仕方ないじゃないか……あの子供たちが、あんまりしつこいから……」
兵士が、泣きながら言い訳を口にする。
「牢屋にいる奴を勝手に釈放なんて、出来るわけないだろ……こっちだって仕事なんだ」
「弱い者いじめがテメーの仕事かあああああああッッ!」
アイヴァーンは拳を叩き込んだ。兵士の顔面がグシャッと歪み、歯が何本も折れた。
倒れた兵士の身体をアイヴァーンは、なおもガスガスと蹴り転がした。
「てめえら税金でぬくぬく生きてやがるくせに、やってる事ぁ弱い者いじめか! 仕事だって言やぁ何でも許されると思ってやがんのか? ええおい!」
「い……言わせておけば! 魔王退治の英雄だからって!」
逃げ腰になりかけていた警備兵たちが、怒り狂い、槍や長剣で襲いかかって来た。
「税金でぬくぬく生きてんのはそっちだろうが! 俺たちがどんだけギリギリな生活してるか、わかってんのかあああああ!」
「好きでこんな仕事やってると思ってんのかよ! 俺たちだってなあ!」
「こんなクソみたいな仕事でも、しがみつかなきゃ生きてけないんだよ! 今の、このゴミ溜めみたいな世の中じゃあよおおお!」
怒りを宿す全方向からの攻撃を、アイヴァーンは拳で、手刀で、蹴りで、迎え撃った。
「ゴミ溜めみてえな世の中、だと……」
手刀が槍を叩き折り、蹴りが長剣を弾き飛ばす。拳が、兵士たちの顔面に叩き込まれる。アイヴァーンの怒声と共にだ。
「甘ったれた事言ってんじゃねえ! 魔王がいた時より全然マシになってんだろーがァアアアアアアアアアア!」
何本もの折れた歯が、大量の鼻血と一緒くたに飛び散った。
その血飛沫を断ち切るように、アイヴァーンの長い脚が一閃する。
蹴り飛ばされた兵士たちが、壁に激突した。あるいは豪奢な調度品にぶつかり、もろともに倒れた。飾り物の甲冑がバラバラにぶちまけられ、高価なのであろう壺が砕け散る。
「や、やめろ……やめてくれぇ……」
大広間の隅で、1人の男が、震え上がりつつも声を発していた。小太りの、中年貴族。
この館の主、ゴルメド地方領主ノーラン伯爵である。
「こ、このような無法が許されると思っているのか……わっ私はな、王弟ダルトン公より御厚遇を賜る身であるぞ……」
「そのダルトン公に、どんだけの賄賂を贈りやがった?」
ノーラン伯の薄い髪を、アイヴァーンは鷲掴みにした。
「その賄賂、どうやって捻出しやがった? ええおい」
「わ、賄賂などと人聞きの悪い……私はただ、ほんの心ばかりのものをダルトン公に」
「だからそいつをどーやって捻出したのか訊いてんだろうが!」
訊くまでもない事ではあった。上への賄賂に用いる財物など、下からの搾取で得るしかない。
不当な臨時徴税が行われている。
ゴルメド地方の領民からのその訴えが、国王に届く前に、ダルトン公によって危うく握り潰されてしまうところだったのだ。
鳳雷凰フェリーナによる調査の結果、次の事実が判明した。
ノーラン伯は、魔王による災厄のため滞っていた昨年の納税を、不正な方式で計算し直していた。その結果生じたものを、ゴルメド地方の民は無理矢理に徴収されていたのである。
今アイヴァーンが叩きのめした兵士たちが、民の家々に押し入って、強盗も同然の事をしていた。人々の僅かな貯えを奪い、女子供を拉致して売り飛ばそうとした。
それを、仕事だから生活が苦しいからという理由で許してやるつもりが、アイヴァーンにはなかった。
人は殺さぬように、とフェリーナから釘を刺されていなければ、皆殺しにしていたところである。
「魔王に苦しめられていたのは民衆だけではない、我ら貴族だって大いに損害を被っているのだぞ……」
未練がましい事を言っているノーラン伯爵の顔面を、アイヴァーンは思いきり壁に叩き付けた。
「てめえは食うのに困ってんのか! 住む場所ねえのか! 生活出来てねえのか!」
いや、思いきりではない。充分に手加減はしている。
それでもノーラン伯の顔面は鼻血に染まり、前歯は全て折れた。
「村ごと焼かれちまった奴らだって大勢いるって事わかってんのか! わかってねえだろ? おう! おう! おう!」
小太りな伯爵の身体を、アイヴァーンは球技の球の如く蹴り転がした。
潰れた蛙のような悲鳴を上げながら、ノーラン伯がゴボゴボと血を吐き散らす。
構わず蹴りを入れながら、アイヴァーンは怒声を響かせた。
「まずテメエらが生活切り詰めなきゃいけねえに決まってんだろぉーがあああああああああああああッッ!」
「……そこまでにしておけ、烈風騎」
たくましい手が、後ろからアイヴァーンの片腕を掴み、ぐいっと引き寄せる。鋭い爪と水掻きを備えた、水棲魔獣の手。
所々で刃物のようなヒレを広げた、物騒なほど力強い身体に、青黒い甲冑をまとっている。
首から上は、凶暴な肉食の怪魚。その眼差しは、しかし自分よりもずっと穏やかだとアイヴァーンはいつも思っている。
魔海闘士ドラン。魔獣属性の勇者としては、轟天将ジンバと双璧を成す男である。
「まったく、こんな事になっているだろうとは思っていたよ。烈風騎アイヴァーンを1人で行動させてはならんと、鳳雷凰にも言っておかなければな」
「うるせえ! 邪魔すんな!」
アイヴァーンは拳を振るった。この男が相手ならば、鬱陶しい手加減は必要ない。
強固な手応えが、返って来た。
烈風騎の本気を宿した一撃を、ドランはかわさなかった。古代魚にも似た厳つい顔面に、アイヴァーンの拳が叩き込まれている。
「あ……」
「……気が済んだか?」
少しだけ痛そうに、ドランが微笑む。
アイヴァーンは拳を引き、俯いた。
「……悪い」
「そんな拳で俺は倒せんよ。平和になって、少し鈍ったのではないか?」
アイヴァーンの肩を1度ぽんと叩いてから、ドランは血まみれのノーラン伯に言葉をかけた。
「ゴルメド地方領主ノーラン殿、貴公と結託していた人買い商人どもは全て捕縛した。領民を売り飛ばしての不法収入を企んだ罪……軽くはありませんぞ。大人しく法の裁きを受けられよ」
「こ……このような目に、遭わせておきながら……法の裁きを、受けよと……」
ノーラン伯が、前歯の折れた口で泣き呻いている。
「搾取を行って、何が悪い……我ら貴族には、それしかないのだぞ……良い思いをする、手段がなぁ……」
「よせ」
蹴りを入れようとするアイヴァーンの身体を、ドランが押さえとどめた。
ノーラン伯爵が、なおも泣き言を吐く。
「貴様らは良い……英雄などと呼ばれ、そうやって好き勝手に力を振るっておれば……良い思いが、出来るのだからなあぁ……」
「俺が……いい思いしてるとでも思ってやがんのかああッ!」
アイヴァーンの怒声に、ノーラン伯はビクッと身を丸め、それきり何も言わなくなった。無言で、震えている。
兵士たちが、ぞろぞろと入って来た。
アイヴァーンが叩きのめした、この館の警備兵たちの仲間……ではない。ドランが引き連れて来た、憲兵隊である。
血まみれのノーラン伯爵が、死体寸前の兵士たちが、彼らに助け起こされ連行されてゆく。
「我らも行くぞ、アイヴァーン……仕事は終わりだ、酒でも飲もう。おぬしは1杯で潰れてしまうだろうがな」
「なあドラン……平和ってのは、こんなもんか?」
意味のない問いかけであると、アイヴァーンは頭ではわかっていた。
「俺たちは……こんなもんのために、魔王と……」
「……魔王との戦いは、楽しかったな」
ドランは声を潜めた。このような事、大きな声では言えない。
「あの時、俺たちは間違いなく生きていた。生きている、と思える日々だった。生き抜いて今ここにいる」
「こないだ、封印宮に魔物どもが攻めて来やがったんだってな」
戦姫レイファや魔炎軍師ソーマが、大いに戦って封印宮を守り抜いたらしい。
「俺も、そっちにいたかったぜ……畜生、何で俺ぁこんな事してんだろうなあ……」
「……飲もう。そして酔い潰れてしまえ」
ドランがもう1度、アイヴァーンの肩を叩いた。
歪んだ人間性と、性格の暗さが、顔にも雰囲気にも出てしまっている。男を惹き付けるような美少女ではない。同性からも嫌われる方であろう。いじめられていたのも頷ける。
だが、顔立ちそのものは悪くない。もう少し外見に気を使えば、そこそこの美貌にはなりそうだ。
妾として、ダルトン公に献上する。それも選択肢としては有りだろう。
(でもまあ……今日のところは、これでいいわね)
思いつつフェリーナは、伴って来た人物をダルトン公に引き合わせた。
「公爵閣下、赤の賢者殿を御紹介いたしますわ」
真紅のローブに身を包み、フードを目深に被って顔も隠した、体格からどうやら女性であるという事だけがわかる人物が、無言で跪いて頭を垂れる。とりあえず、そうするように言っておいた。
「赤の賢者、だと……青の賢者の、同類とでも言うのか」
長椅子に身を沈めたまま、ダルトン公は不機嫌そうである。
まあ当然であろう。定期的に賄賂を贈ってくれた地方貴族が1人、捕縛されてしまったのだから。
ノーラン伯爵が人買い商人と結託して領民を売り飛ばそうとしていた、その証拠は魔海闘士ドランがしっかりと掴んでくれた。
まっとうに裁判が行われればノーラン伯は、軽くとも投獄は免れないであろう。当然、領主の地位は剥奪である。
ダルトン公がおかしな根回しをしなければ、の話だが。
「そのような者に……魔王の封印を解く力が、本当にあるのだろうな」
苛立ちの露わな口調で、ダルトン公は言った。
「魔王を封印より解き放ち、なおかつ思いのままに操る事が出来ねば、意味はないのだぞ」
「御安心を。百聞は一見にしかず……赤の賢者殿の御力、そのほんの一端をお見せいたしますわ」
フェリーナは身を屈め、赤の賢者の耳元に、フードの上から囁きかけた。
「さ、賢者殿……烈風騎アイヴァーンに会うための道、その第一歩ですわよ」
「アイヴァーンに……会える……」
夢見心地な声を漏らしながら、赤の賢者はユラリと立ち上がった。そして両腕を掲げ、念ずる。
ダルトン公の、広い自室内。そのあちこちに、光が生じた。
「何事……!」
公が息を呑んでいる間に、それら光がオークソルジャーに変わった。ソードゴブリンに変わった。
部隊を成す彼らと比べると少数ながら、グレートキマイラもいる。
魔王配下の怪物たちが、姿を現していた。
青ざめ、悲鳴を漏らし、長椅子からずり落ちるダルトン公。
ソードゴブリンの群れが剣を抜き、オークソルジャー隊が槍を振り立て、グレートキマイラが牙を剥き、そこへ襲いかかろうとする。
フェリーナは鞭を振るった。
電光を帯びた鞭。それがビシッ! と床を打ち据える。衝撃が弾け、稲妻の飛沫が散る。
怪物たちが震え、すくみ上がり、後退りをした。
バチバチと電光をまとう鞭で彼らを威嚇しながら、フェリーナは言った。
「御覧の通りですわダルトン公。彼女は魔王の下僕たる怪物たちを自在に召喚し、操る事が出来ますのよ」
「この……怪物どもは……」
ダルトン公が、呻いた。
「今や、私の配下にあると……そのような解釈で、良いのか……?」
「もちろんですわ」
ダルトン公を助け起こし、長椅子の上へと優しく導きながら、フェリーナは囁いた。
「赤の賢者殿は、魔王の力を使う事が出来ます。例の物を、体内に取り込んでおりますから」
「魔王の……角か……」
「ええ。ですから、魔王は彼女には逆らえません。この世でただ1人、魔王を支配下に置く事が出来る人物。それが赤の賢者殿なのですわ」
無論、魔王の角にそのような力はない。あれは、人間にとっての切った爪のようなものに過ぎないのだ。
それでも魔王の力の、残滓くらいは宿っていた。
それは今や、赤の賢者の体内にある。だからこそ魔物たちを召喚する事が出来る。
あちらの世界への魔物たちの流出も、多少は食い止める事が出来るだろう。
ダルトン公は、かつて魔王の軍勢を成していた闇の生き物たちを、こうして支配下に置く事になる。
「公爵閣下が次になさるべき事……それは魔物の軍勢を使っての、封印宮の奪取」
公の杯に酒を注いでやりながら、フェリーナは言った。
「魔王を封印より解き放ち、赤の賢者殿の御力と、そしてダルトン公御自身の威光をもって」
「従えるのだな、魔王を……」
注がれた酒をすすりつつ、ダルトン公は熱っぽく呻いた。
「だ、だが私は魔王の力を使って暴君になるわけではないぞ。ブレイブランドの民を、守るために」
「存じ上げておりますわ」
公爵の耳から脳へと、甘い毒を流し込むかの如く、フェリーナは囁いた。
「ブレイブランドの、最も偉大なる守り手に、救い主に、成られませ……」




