第8話 コミフェス会場へ……
夏休みシーズンになると、どの時間帯に走っても混雑しているというのに、今は比較的スムーズに車は進むことができていた。
それもそのはず。現在、時刻は四時半。昼のではなく早朝の、だ。高速道路を走る自動車はもっぱらトラックが多く、大型の自動車に紛れて、黒のワンボックスカーが走っていた。その車の中は広くゆったりとした空間であるが、運転手を含め六人も乗ると、なかなか窮屈だ。
志具は朝……というか、ほとんど深夜帯に起き、出かける準備をしてマリアの家で雇われている運転手が運転する車に乗って、こうして車に揺られているわけだが……、
――どうしてこんなに朝早くに出かけないといけないのだろうか……。
マリアの話だと、コミックフェスタ――通称コミフェス――が始まる時間は十時ということらしい。場所はマリアによって伝えられていたのでわかるのだが、この車が渋滞に巻き込まれずスムーズに行った場合、五時過ぎには目的地に到着するだろう。コミフェス開催の五時間前に到着していなければならないことに、志具はどうにも納得できなかった。いくらイベントが楽しみだからといっても、せいぜい一時間前くらいに着けばいいのではないかと、志具は思ってしまう。
志具がそんな質問を、助手席に座っているマリアにすると、
「甘いよ、志具君。その考えは……角砂糖よりも練乳よりも甘いよ…………っ!」
熱を入れて力説するマリア。なにかカフェインでも摂っているのか、マリアはどこか普段以上に興奮している様子だった。
普段見せないような彼女の熱さに、思わず志具はたじろぎ、そんな彼に向かって、マリアは言った。
「志具君。この際だから言うけど、コミフェスは……戦場なんだよ!」
「せ、戦場?」
うん、とマリアは力強く頷く。
「日本全国から戦場を駆ける猛者たちが集い、戦い、己の私欲を肥やす戦利品を勝ち取るために、熱気に包まれるんだよ!」
熱気……。なるほど、と志具は今のマリアの気迫を肌で感じ、それが納得できた。
「マリアは、昔からコミフェスに参加していたんだよな?」
ふと、ななせがそんなことを訊いた。
ちなみに、菜乃となずなは現在、眠っている。あまりにも早すぎる朝の出発に、身体が追い付いていないようだった。
「そうだよ。初めは何かの記念になればいいなぁ~って思って参加したんだけど……」
「がっつり心を奪われた、ということか?」
「Yes!」
「なぜそこだけ流暢な英語なんだ」
「特に意味はないよ」
「だと思ったよ」
志具は思わず笑みを漏らした。他愛ない会話だが、そこに言葉にできない小さな幸せを感じることができていた。
昔の自分は、こんなことを感じたことはなかった。会話は淡々とこなし、必要なときしか口を開かない。ましてや、自分から話題を提示したりすることなど、ありはしなかった。
しかし……、と志具。自分は少しずつだが、変わり始めている、と確かな手ごたえを感じていた。傍目から見れば、牛歩のごとくゆったりとした速度の歩みかもしれないが、それでも志具は満足だった。
そんな、のろのろとした歩みに、少しずつ加速し、前へ前へと進めるようになってきたのは……、
「ん? なんだ? 志具」
「……いや、なんでもない」
隣に座っているななせを顔を一瞥したが、彼女に気づかれ、目を逸らす。
初めはただただ、煩わしいとか、鬱陶しいとしか思えなかった。事あるごとに急接近してこようとし、こちらの事情など考えようともしないななせに、ある種の嫌悪感を抱いていたくらいだ。
だが……。今は違う。少なくとも、ななせに対し、嫌悪などという感情は抱いていない。時折のスキンシップに煩わしさを感じることこそあるが、嫌いというところまでは感情が振り切れることはなかった。
――悔しいものだな。
と、志具。
そう。悔しいことに、自分が嫌いだった相手から、自分は教えられ、前へ前へと突き進む力をもらえているのだ。
「志具君、どうしたの? 微笑んだりして」
マリアに指摘され、志具はようやくそこで、自分が笑みを浮かべていることに気づいた。
「なんでもない」
と、志具は即座に言い返したが、内心ではもちろん違った。
「はっは~ん。さては、あたしの隣に座れていることに、嬉しさを感じているんだな? そうなんだろ~?」
「なっ⁉ し、志具君、そうなの? ななせさんの隣に座って『ぐうぇっへへへ』とか思っちゃってるの?」
「誰もそんな下道な笑い方をしていない!」
何だろう。マリアの自分に対する偏見が、日に日にひどくなっているような気がする。そんな思いを、志具は抱かずにはいられなかった。
なるほど……、とななせは納得したような顔になると、
「志具は、表向きは生真面目根暗キャラ。しかし裏向きは鬼畜外道キャラ、と……メモしとかないと」
「勝手な認識をするな! 私は断じてそんな人間ではない!」
「本当に?」
え? と志具は訊き返した。
「本当に、心の底からそう断言できる?」
「ど、どうしたんだ? そんな態度を改めて……」
ななせの声のトーンが、いつになく真剣な調子になったので、志具は思わずそんなことを訊いた。
「いいから。どうなんだ? 志具。自分は正真正銘、清廉潔白だと、断言できるのか?」
真摯な眼差しを向けられ、志具はその雰囲気に押され、少し身を引く。
人間、念を押されると、しばらく考え込んでしまうことが多い生き物だ。志具も、その例にもれず、少しばかり、思考してしまう。
「やっぱり志具は鬼畜キャラだな。うん、確定」
「なっ⁉ ち、ちょっと待て! 少し考えた素振りを見せただけで決めつけるな!」
「じゃあ、違うのか?」
「も、もちろんだ」
「本当に?」
「あ、ああ……」
「本当の本当に?」
「あ、ああ……。――ていうか、また私を陥れようとしているだろう! 君は!」
「ち、バレたか」
あっさりと認めるななせ。先程の真剣みのある声のトーンも、自分を陥れるための演技だったのか、と志具は気づく。まんまとはめられそうになっていた事実を知り、志具はやや不快だった。
マリアも、ななせのそんな問いかけが本気のそれではないということを察していたのだろう。あはは……、と志具とななせのやり取りを見て朗らかに笑っていた。
何か一言言ってやりたい衝動に駆られたが……やめた。目くじら立てて怒るようなことではないと思ったし、なにより、今車内を包む雰囲気を乱したくなかったからだ。
――まあ、いいか……。
寛容にその場の空気に納得する志具。抑えるところは抑えないといけないというものだ。
車は間もなく、高速道路を抜けようとしていた……。
――◆――◆――
コミフェスの会場となっているその国際展示場は、やや海に面した場所にあった。
独特の形状をした建物だったため、非常にインパクトがあり、海上を見つけるのは容易だった。
……いや、イベント会場を見つけるのが容易だったのは、なにも会場が特徴的なフォルムをしていたというわけだけではない。イベント会場を見つけることが、それほど難くなかった理由は……、
「すごい人だな……」
思わず、そんな言葉を漏らしてしまう志具。
早朝の五時を回ったばかりだというのに、周辺は人、人、人……。会場までの道に、とんでもない人の列ができあがっていた。どれほど有名なテーマパークやアトラクションでも、ここまでの行列が出来上がることは、まずないだろう。正直、深夜帯に起こされ、車に揺られていたために眠気があったのだが、一気に吹き飛んだ。目も醒めるような光景とは、こういうのをいうのかもしれないな、と志具は思った。
マリアを除くほかの一同も、志具と同じような心境なのか、目を丸くして列を眺めていた。
ただひとり、普段以上のテンションを保っているマリアは、圧倒されている一同を急かす。
「さあ、早く並ぶよ! 少しでも早く会場に入りたいからね」
マリアに急かされるまま、一行はその列の最後尾に並ぶことにした。
志具たちが並んだ後からも、次々と人がやってき、瞬く間に蛇のような行列が、志具たちの後ろにもできあがった。
「話には聞いていましたけど、実際に現地に来ると、なおさらそのすごさがわかりますね……」
長蛇の列に圧倒されているのは、志具だけではなかった。前情報を得ていたなずなも、そのような感想を漏らしていた。
周囲の人たちは、大型のリュックやバッグを持っている人がほとんどで、志具たちのような軽装でいる人は、ほんの一握りだった。
ただ、志具たち一行の中にも、例外はいた。
何気なく視線を動かした先にいたマリアを見てみると、彼女は折りたたんで収納していた大型のショルダーバッグを展開し、それを肩から下げていた。
「ん? どうしたの? 志具君」
「い、いや……。いつの間にそんなものを所持していたのだろうと思って……」
「まあね。これでコミフェスに参加するのは、六回目くらいになるから、要領はある程度掴んでいるんだよ」
実際、その通りらしい、ということが、彼女を見ていればわかる。経験したことのない長蛇の列を見て圧倒される志具たちを置いて、マリアだけは風ひとつ立っていない湖面のように、落ち着き払った……というか、普段と変わらないような態度を保ち続けていたからだ。
「どうだ? 志具。お前が思っていた以上の人の多さだろ?」
「あ、ああ……。正直、舐めていたかもしれない……」
時刻はまだ早朝の五時をまわったばかりだというのに、この人だかり。志具は、未知の世界に足を踏み入れた冒険者のような心境になっていた。
「ここに並ぶのは、五時からじゃないと駄目なんだよ」
「そうなのか?」
「うん。マナーだからね」
と、マリア。どうやら、しっかりと規則のようなものが、できあがっているらしい。まあ、これほどたくさんの人が集まっているのだ。ルールのひとつ二つ作らなければ、色々と問題があるのだろう。
「でもね、そのルールを守らない人もいるんだよね。徹夜組っていうんだけど、深夜帯からいち早く会場にはいるために、シートを敷いてその場に待機している人がいるんだよ」
「そんな人がいるのか?」
「うん。というか、五時を回らないと列をつくっちゃいけないっていう規則自体、そういう人たちが他の人に迷惑をかけたりしたからできたものだし……。だいたい……」
と、マリアの声色がトゲトゲしたものになり、ルールを守らない人たちに対しての不満を、壊れた蛇口から出てくる水のごとく漏らし始めた。
マリアも、できることなら先頭近くに並んでおきたいのだろう。前のほうに並び、自分の欲しいものをいち早く手に入れたいのだ。その気持ちは、志具にもわからなくはなかった。
「こうやってルールを守らないで唯我独尊とばかりの行動をするから、無関係なオタクのわたしたちも白い目で見られちゃうんだから、まったくたまったものじゃないよ」
「マリア、不満はわかるが、その辺にしておいた方がいいぞ」
マリアの呪詛のような言葉の羅列に、周辺の人たちがちらちらと視線を向けていたので、志具が制止を呼びかけた。
我を取り戻したかのように、マリアはハッとした表情になると、
「ご、ごめんね。つい、熱くなっちゃって……」
「いや。まあ、君の不満ももっともだって思ったし、別にかまわないのだが……節度は守ろう」
志具の言葉に、マリアは、うん、と頷きをみせる。
「ちなみに訊きたいのだが、いつになれば開場されるんだ?」
「十時だよ」
「え?」
「だから十時。それまで、ここで待機するんだよ」
十時からのイベントを、五時間前に並んでいるのか……。その事実に、驚く志具。これほどまでに並ぶ時間を経験するのは、あとにも先にも今回ぐらいであろう。
「がんばろうね、志具君」
にこにことほほ笑むマリア。そんな顔をされたら、文句も言えない。
志具が呆然としていると、ななせから肩をポンと叩かれ、
「志具。ひとりの戦士としてがんばれ」
「そうだよ、志具君。志具君は今日から、聖戦士として覚醒するんだから」
「なんなのだ、それは……」
ななせの言う戦士と、マリアの言う戦士が、同じものを指しているようには思えなかった志具は、ため息をひとつつき、気分を沈めることにした。
――あと、五時間弱、か……。




