第1話 本日は平和です。
――……嫌な夢を見たな……。
目を覚まし、真っ先に浮かんだ思いが、それだった。夏の暑さもあってか、ななせのパジャマは彼女自身の汗でじっとりと濡れており、肌に張り付いていた。
ただ……、とななせ。この汗は決して、夏の暑さだけが理由ではないだろう、と。
部屋を包む熱気とは裏腹に、ななせの身体の芯は恐ろしく冷えていた。これもすべて、嫌な夢を見てしまったせいだった。
……いや、「夢」ではない。ななせにしてみれば、一年以上経過した今でも、生々しい「現実」として、その心に深く刻まれていた。ノミで深くえぐられたような心の傷は時折、彼女のことを無遠慮に揺さぶり、不幸へと落とし込もうとしてくる。そんな悪魔の引きずりを、ななせはかぶりを左右に振って、忘れることにする。
気合を入れるために、ななせは両頬をパチンと自分で挟むようにして叩く。すると、暗澹としていた思考が一気にクリアとなり、目覚めがすっきりとした。
「よし……」
自分に言い聞かせるように呟くと、ななせはベッドからとび起きると、学校指定の制服に着替える。
今日は、一学期最後の登校の日――終業式だった。
――◆――◆――
真道志具の、朝の目覚めは早い。それは別に、早起きを心掛けて健康に気をつけているというわけではなく、己の身の貞操を護るためだ。
志具は布団を押しのけ、身を起こすと、周囲を確認する。
――……よし。いないな。
どこかに隠れ潜んでいるというわけではなさそうだ。部屋の扉を見ても、少しだけ開いているというわけでもない。
ホッと胸を撫で下ろすと同時、どうしてわざわざ自分の部屋なのに、ここまで用心深くならなければならないのだろうか、という理不尽さを志具は感じた。
何はともあれ、今がチャンスだった。志具はベッドから抜け出すと、制服に素早く着替える。夏真っ盛りの七月下旬ということもあり、制服は半袖のカッターシャツと、風を通しやすい薄生地の黒いズボンである。
夜の間、部屋に熱気がこもらないように開けていた窓から、風がそよそよと室内へと流れ込んできていた。今はまだ清涼な感じを受けるそよ風だが、昼頃になると湿気と熱のこもった風に変わるのだろう。
カーテンを全開にすると、外にはどこまでも蒼穹が広がっていた。空に浮かぶ雲は、綿菓子のような真っ白なものが、風に流されていた。
「いい天気だ……」
思わず、そんな感想が志具の口からこぼれた。
「本当、いい天気だよな。この青天井の下、ベッドの上で運動会を繰り広げるのも悪くないな」
「ああ、そうだな…………って、言うとでも思ったのか! 万条院!」
つい、ノリツッコミをしてしまった志具は、すかさずその場からベッドの上に飛び退いた。見れば、抱き付こうとしていたのだろう、空振りしたななせが「おっとと……」と体勢を崩していた。
「くっ……。あと少しでベッドに押し倒し、R18チックなラヴイベントが発生したというのに……っ!」
「い、いい……いつから来ていたんだ! 君は!」
声を聞くまで一切、近づく気配を感じられなかった志具。あれだけ神経を尖らせ、用心していたというのに、あっさりと接近を許してしまうとは……。
「ふふ~ん。いつからだと思う?」
「……カーテンを開けたくらいから……か?」
「ブブー! ずばり、お前が着替えるときにはすでにいたのだ! あたしは」
えっへんと、歳相応以上に豊満な胸を張るななせ。
――な、んだと……。
志具は驚愕に顔色を染める。確かに自分は確認した。目を覚ました後、真っ先にななせが部屋に潜んでいないかを。
自分の入念なチェックを素通りしたというのか、こいつは……。
そう考える志具だが、すぐに考えを改める。
いや、万条院のことだ。デタラメを言って、こちらの心を揺さぶって愉しんでいるだけなのかもしれない。いや、絶対にそうだ! そうしかありえない!
「志具も随分と漢な肉体になりつつあるよなぁ。腹筋とか胸筋とか、割れていたし……。あと、ヘソゴマの掃除をしっかりとしているところも、ポイントが高いな」
「どれだけ細かいところを見ているんだ、君は!」
「ふふ、知りたいかぁ?」
不敵に目を細め、口元を緩めるななせに、思わず一歩退く志具。彼女のこの異様な自信は、大概自分を危機的状況に陥らせるものであることを、志具はこれまでの付き合いで知っていた。
「……いや、いいぞ。別に言わなくて」
「ほうほう、そんなに知りたいのか。なるほどなぁ~。他者の意見を聞くことで、自身の肉体をより磨こうと考えているんだな! 主にあたしのために!」
「誰もそんなこと言っていない!」
自分の主張とは真逆に理解するななせに、志具は口を挟まずにはいられなかった。
「ずばり! あたしはお前の身体についているホクロの数を知っている!」
「適当なことを言う――――」
言うな! と叫ぼうとしたとき、ガタン、と扉が大きく動く音がした。
志具は振り返る。彼の視線の先には、学校の制服の上にフリルのついた白いエプロンを着た、花月菜乃がいた。
菜乃は目を水晶玉のように丸く見開き、呆然と突っ立っていたが、やがてハッと正気に返ると、
「そ、そうですか……。ついに……ついにお二人は、そういうご関係になられたのですね!」
感激と衝撃の入り混じった声の菜乃。
ああ、とななせは事実無根なことを堂々と頷いていた。
慌てて志具が誤解を解決しようと、言葉を発する。
「ち、違うんだ、菜乃! 万条院の言っていることはまったくの嘘で……」
「あら。お気になさらなくて結構ですよ、志具様。薄々そう言うご関係になられているのではないかと、勘付いてはいましたし……。だって、ここ最近のお二人のパジャマ、変に濡れていますし……」
「それは夏のせいで暑いからだ!」
「きっと汗でぬれているのは、ベッドの上で、愛の契りを交し合っていたから……」
「人の話を聞け!」
「あ、そうそう。志具様、ななせ様。朝食の準備ができましたので呼びに来たのですよ。来たのですが…………」
と、チラチラと志具とななせを交互に見ると、ふふ、と微笑みを浮かべ、
「お二人の朝食は、どうやらベッドの上で摂るようで」
ピシッ……。
衝撃発言に、志具が氷の中に閉じ込められたように固まった。そんな志具に対しななせは、「まあ、志具がどうしてもって言うのなら、あたしはいつでもOKだぜ」と菜乃の言葉に乗っている始末……。
「それでは、ごゆっくり~……。あ、そうそう。ちゃんとあれはしないといけないですよ。二人ともまだ学生なんですから」
最後にそう付け加えると、菜乃は扉をパタンと閉じ、トタタタタ……、と一階へと駆けていった。扉の向こうで「今夜は赤飯ですね、ウフフ……」などと志具の頭痛の種となりうるような言葉を残して……。
魂が抜けきったように、その場に立ちすくんでいた志具の両肩を、背後からななせはがしっと掴むと、耳元で囁く。
「さあ、始めようか。志具」
熱をもった言の葉とともに、志具をベッドへと引きずろうとするななせ。
だがその直前、ハッと我に返る志具。
「人の話を聞けええええぇぇぇぇ――――‼」
志具の心からの叫びが、早朝に響き渡った。
――◆――◆――
空はどこまでも蒼く、澄み切っていた。それに反し、志具の心は、早朝のななせと菜乃の行いのせいで、どんよりと鉛色の雲が覆っていた。
「冗談だって。機嫌戻してくれよ~、志具」
ななせはケラケラと笑いながら、志具の肩をバンバンと無遠慮に叩く。正直、反省の色がまるで感じられなかった。
現在志具は、ななせと菜乃と一緒に学校へ登校中だ。夏の季節ではあるが、まだ初夏だということもあり、日差しはそれほど厳しくない。時折海方向から吹く風も清涼で、暑さの辛さをさほど感じなかった。
志具は機嫌を取り戻そうとしてくるななせを、横目で見ると、
「……君は何かと冗談だと言うが、世の中には冗談ではすまない言動もあるものだ」
「そりゃ……そうだけど……。でも、許嫁とのラブラブイベントの改竄なんて、別にそこまで気にすることじゃないだろ? むしろ、男の格が上がったとかで、プラス要因じゃないか」
「勝手に決めないでもらいたいな」
取りつく島なし、とばかりに志具は言い放つ。ちらりと志具がななせを見やると、彼女は何やら難しい顔をしていた。どうにかして、自分を丸め込むことができないか、思案に暮れている顔だった。
――……まあ、この辺でいいか。
いつまでもいがんでいても、どうにもならないことだ。ななせはふざけてはいるが、自分と仲を取り戻したいという想いは本物だろうし、この辺で折れたほうがいいだろう。これ以上、長く険悪になって、修正不能な域までいってしまうのは、志具としても不本意だった。
はぁ、と志具は嘆息すると、
「……もういい。気にしていないから」
「本当か?」
「ああ。なんか馬鹿らしく思えてきたからな」
それは本音だった。こんな些細なことで、こんな膨れ面になっているようでは、身がもたないというものだ。相手が反省しているようなら、自分のほうから折れて、適当なところで和解するのが処世術というものであろう。
志具の言葉を受け、ななせはニカッと歯を見せて笑う。
「そうかそうか。よかったぜ~。ここで離婚の話にでもなったら、遺産の分配とかの手続きが面倒だもんな」
「そう言う言葉が余計なんだ、君は……」
呆れる志具。そもそも離婚って……。結婚すらしていないではないか。
先走りが過ぎるななせに、志具はため息を漏らすしかなかった。
「おはよ~、志具君!」
ふと、後ろから自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた志具は振り返る。志具の視線の先には、彼がよく知っている幼馴染みがいた。
「マリアか。おはよう」
近くまで走ってきた金髪の少女――大道寺マリアに、志具は挨拶をする。
すると、幼馴染と言えるくらいに長い時間を過ごしてきたためか、志具の様子に素早く反応した。
「ん? どうしたの? 志具君、なんだか元気ないみたいだけど」
「元気を消費するようなことをしたからですよ、マリア様」
ふふ、と微笑みとともにそんなことをマリアに教える菜乃。
それを聞き、マリアはますます首を傾けた。
「元気を消費するようなこと?」
「そうですねぇ……。一度に全部を教えてしまってはつまらないので、キーワードだけさし上げましょう」
「キーワード?」
「はい。キーワードは三つ。――男。女。ベッド。――以上です」
「お、おい。花月……」
明らかに悪意ある三つの単語に、志具は慌てるが、時すでに遅し。
「男……女…………ベ、ベベベベベットオオォォ――――⁉」
それら三つの単語は、マリアを暴走させるに十分すぎるほどの効力を発したようだ。マリアは単語をひとつずつ声として発すると同時、グラデーションするかのごとき顔色を肌色からゆでダコのような真っ赤に染め上げた。
口をパクパクとさせるが、言葉を吐き出せないマリアに、志具は弁解する。
「マリア、誤解だ。君の考えているようなことは起きていない」
「ななせ様は、志具様の身体についているホクロの数までわかる仲になっているそうですよ」
「デタラメだ! デタラメ!」
菜乃はあくまでマリアを煽っていくつもりのようだ。即座に志具が否定するが、彼の言葉はろ紙で除去されているかのように、マリアの耳に届いていなかった。
「ほ……ホクロ……。志具君の……身体の……ホクロ…………。セクシーボクロ……」
最後に変なものを付け加えたマリア。
どうにかして誤解を解きたいと思う志具だが、
「羨ましいだろ~? マリア」
と、ななせが菜乃の援護をする。
その瞬間、マリアはハッと熱に浮かされたような表情を止め、慌てた様子でななせに応戦する。
「べ、べべべべ別に羨ましくなんかないもん! わ、わたしだって……小学六年生くらいの頃、プールで泳ぎの授業があったときに志具君の裸見てるし……。志具君の、裸……裸…………。一糸まとわぬ、セクシーボディ……。ふへへへへへへへへ………………」
いったい何を思い出したのか、マリアの表情がスライムのように溶け出した。しまりがない顔とは、まさにこういうものを言うのだろう。
しかし、マリアの場合、伝えられた現実(と本人は思っている)を直視できず、過去の思い出に逃避したと言ったほうがいいのかもしれない。
……にしても、と志具。ななせたちがやって来てからというもの、マリアがやたらめったらと暴走するようになっていることはわかってはいたが、今回ほどのものはなかったように思われる。今のマリアの口から漏れ出すしまりのない笑いを聞いていると、身の底からの恐怖と不安を感じてしまうのだ。
「ん? どうしたの? 志具君。わたしから距離を取って」
正気に返ったのか、マリアがその異変に気づき、志具に尋ねてきた。
志具は平静を装いながらも、目を泳がせてしまっていた。幸いなことに、マリアはその不審な行動を疑問に感じていないようだ。
「いや、すまない。身の危険を感じたもので、つい……」
「み、身の危険⁉ ちょっとななせさん! ここは通学路だよ! 衆目にさらされている場所だよ! こんなところで志具君にいやらしいことをしようとたくらむなんて……」
「いや。今回の場合、あたしは関係ないと思うけどな」
「じ、自覚がない……⁉ これが……これが泥棒猫! 無自覚なふりをして油断させて、相手が気を緩めたところを一気に襲い掛かる作戦だね⁉」
「……志具。なんとかしろ」
ななせが志具に耳打ちする。
だが、
「すまない。私にも、どうすることもできない」
「あっ! 志具君とななせさんが何か話し合ってる……! さては逢引き⁉ 逢引きの話し合いをしているんだね⁉ ――志具君も! 確かにななせさんはいい人だし、見た目的にも間違いなく美少女の部類に入るけど……そんな誘惑に乗るなんて、ウツボカヅラの甘い蜜の香りに引き寄せられるハエみたいだよ!」
「もっと他に喩えようがないのか? それ」
仮にも親友である人間を捕まえて「ハエ」呼ばわりとは……。色々と彼女を苛むものが多すぎて、頭の中がオーバーヒートしているのかもしれない。
「あ、先輩さん! おはようございまーす!」
そんなところで、再び志具たちに合流しようとしてくる少女がひとりいた。
栗色の髪でショートカットの髪型。小柄な体躯で、小動物を思わせる愛らしさをもっている彼女の名前は――、
「なずなか。おはよう」
玖珂なずな。かつて志具の命を奪うために二度衝突した、志具の後輩だ。
あの一件以降、なずなはというと、西元佳織の住んでいるマンションに引越しした。佳織は監視目的だとは言っていたが、本当はもっと温情に満ちたものだと判断していいものだろう、と志具。佳織は特殊な部署に回されてはいるが一応は警官。その気になれば、なずなを逮捕できたのだから……。
ただ、佳織も自身の職業の矜持にかけて、なずなが同じような所業をもう一度行えば、今度こそ何らかの制裁をなずなに与えることだろう。今以上の制裁を……。そしてそれは、なずなひとりに向けられるものではないはずだ。
なずなの兄である悠里は、今も病院で入院している。なずなの話によれば、八月くらいになれば、とりあえず退院できるのではないか、と言われているらしい。ただ、長い年月眠り続けていたせいで、まともに歩くことが今もできていないらしく、退院しても車椅子生活が続くのだとか。
しかし、なずなにしてみれば、そんなことは些細なことなのだろう。なぜなら、悠里はあのまま放っておけば、間違いなくこの世を去っていたのだから……。それを考えたときの辛さと比べてみれば、兄が生きているだけでもありがたいに違いない。
兄である悠里のほうも、そう感じているらしかった。この前、なずなに連れられて一緒に悠里の見舞いに行ったとき、その感謝のほどを話していたから。
「先輩さん。ずいぶんと気を沈ませてるんですね。せっかく今日で一学期が終了して、明日から夏休みだっていうのに……もっと浮かれませんと!」
「……わかるのか?」
「はい。陰気度が五割増しになってますから」
明朗に悪意なく放たれた言葉。無邪気な故に、それは矢となって志具の心を穿った。
「……あれ。どうしましたか?」
余計に気分を沈ませた志具に、なずなは聞きようによっては無情とも言える言葉を言った。
「いや……。もっとこう……先輩を励ましてあげようとか、思わないのか?」
「いやぁ。先輩さんはMっぽいですし、こっちのほうが喜ぶかなぁ~って」
「誰もそんなこと公言してないぞ!」
勝手に変な属性をつけられ、志具は思わず怒気を孕んだツッコミをした。
……が、
「ほほう。志具はM属性っと……」
「M、なんですね。うふふ……」
「M……。どうせなら……わたしを相手にするときはSになって…………い、いやいやいや! なんでもナイデスヨ?」
ななせ、菜乃、マリアが三者三様の言葉を口々に言っていた。ただひとり、やや本筋からずれた発言をしていたが……。
「君たちは……もう少し私を労わってはくれないか? その努力をしても罰は当たらんと思うぞ」
「まさかの酒池肉林の要求⁉ そんな……。で、でも……わたしが出し抜けば……いけるっ!」
マリアが驚愕し、その後、瞳をキラキラと希望の星を輝かせて拳を固く握りしめた。
志具はその場で崩れ落ちた。全身の力が、自分の意志とは裏腹に抜けてしまった。
「ん? 志具が頭を抱えてしゃがみこんだけど……どうした? 腹でも痛いのか?」
「まさか……生まれる、とかじゃないでしょうか?」
「そんな……⁉ ここに来て、先輩さんは『実は女性でした』っていう衝撃事実が!」
「そ、そうなの志具君⁉ ……で、でも……志具君が女の子だったとしても、わたしは……十分受け入れられるよ! ――それでそれで、生まれる子は誰の子なの⁉」
ななせの発言は、徐々に事実から逸れていき、最終的に地球の引力から飛び出すほどのものとなっていた。
飛躍しすぎたその発言――特にマリア――に、志具は項垂れたまま呟く。
「勘弁してくれ……」




