第8話 背中越しに伝わるもの
志具がパンドラに叩きこんだ拳は、彼女の腹に直撃した。
――入った!
そう確信できる一撃だった。
腹部に深く入り込んだ志具の拳。それはやがて青白い閃光を放つと同時、パンドラを大きくぶっ飛ばした。
放物線のような緩やかさはなく、鋭く一直線の軌跡を描いて飛んだパンドラは、壁に激突し、瓦礫の山に埋もれた。
灰色の埃の中に消えたパンドラに警戒しながら、志具はななせに駆け寄った。
「万条院!」
彼女の名前を呼ぶ志具。上半身を抱きかかえると、彼女の息遣いが聞こえ、彼女の体温が手を伝った。どうやら、気絶しているだけらしい。
そのことにホッとした志具は、そこでようやく自分の身体に刻まれた裂傷の数々に気づいた。不思議なもので、怪我に気づくと同時、痛みを感じた。
そこまで自分ががむしゃらになっていたのか……、と志具は自覚した。傷の大小はあれど、全身に刻まれた裂傷は、大の大人が泣きわめいてもおかしくはないほどのものだった。
身体強化術により、浅い傷のものは、痕が残っているだけで血は流れていない。流血による気絶を免れていた要因は、これが一番大きい。
「……ん…………。志具、か……」
ななせが薄らと瞼を開ける。意識がぼんやりとしているせいか、目の焦点があっていない。
「万条院! 大丈夫か?」
「はっ……。あたしのこの様を見て大丈夫に見えるのなら、眼科に行ったほうがいいぜ」
違いない、と志具は苦笑。ただ、こういった言葉を口にできるということは、それほど心配するような状態ではないということを意味していた。
つまるところ、魔力切れによる気絶、といったところなのだろう。時間が経てば、おのずと自然回復する類のものだ。
しかし……とはいっても、だ。
「まったく……心配したぞ」
目の前で倒れこんだところを見たとき、志具はプツンと何かが切れる音を聞いていた。越えてはならない一線を越えられたために切れたものなのだろう、と志具は思っている。
その先のことは、前述したとおりがむしゃらになっていたために、あまりよく憶えてはいない。
ただ、動かばならない、と思っていた。なんでもいいから、動かないといけない、と……。
それはきっと、これから会おうとしている後輩に対する気持ちと同じベクトルのものなのかもしれない。放っておけないから、動かないといけないという、ただひとつの、簡単な答えだ。
志具のそんな言葉を聞いたななせは、目を丸くさせていた。……が、それも一瞬。人をからかうような笑みを口元に浮かべると、
「おっ。お前からそんな言葉が聞けるとはな……。さては……あたしに惚れたか?」
「そ、そんなものではないっ。……まったく、そんな軽口叩ける余裕があるのなら、体力回復に専念したらどうだ?」
「お前がキスしてくれたら、体力が一気に全回復するぞ」
「却下だ」
志具は問答無用で言い捨てた。しかし、次の瞬間には微笑した。それは心の底から安堵したような、柔らかい微笑み。
なんだかんだで、志具は彼女が無事であったことを、心の底から喜んでいたのだ。
志具の笑みにつられるように、ななせも笑みを濃くする。
――どうしてだろうか?
不思議なことに、彼女と一緒にいると安心できる自分がいることに、志具は驚いていた。
正直、鬱陶しいほどに隙あらばくっつこうとしてくる彼女のことを疎ましく思っていたことすらあった。それはきっと、今も変わらない。
変わらないはずなのに……。
――……まさかな……。
志具は軽く肩をすくめた。ありえないと、心の中で一笑した。
そのとき、
「あらあら。ずいぶんと仲睦まじいことで、羨ましいわねぇ」
緩んでいた気持ちが、刹那の間に引き締まった。
志具はななせを床に寝かすと立ち上がり、パンドラに向き直る。
パンドラはいつの間にかの内に瓦礫の中から抜け出し、こちらをじっと見つめていた。ただ、無傷というわけにはいかなかったらしい。服はボロボロになり、細かな傷が、いたるところに走っていた。
「……そう思ってくれているのなら、あたしらにかまわず、こっそり逃げていりゃよかったのに」
ななせは自力で起き上がろうとするが、体力が雀の涙ほどにしかない彼女には、それすら困難なようだ。半身を起こし、座る体勢になるだけで留まった。
「まだ戦うつもりか!」
志具は鋭く言葉を言った。
正直、今もまだ『グラム』を使える気がしない。『干将莫耶』によって裂かれた「縁」が、まだ回復していないからだろう。
しかしそれでも、立ち向かう必要がある以上は、志具は対峙する気でいた。
「血気盛んね。――でも安心して。もう戦うつもりはないから」
パンドラはところどころ破れた衣服についた埃を手ではたきながら、そう言った。
そんなパンドラに、ななせが突っかかる。
「だったら、あたしの質問に答えてもらうぞ。その権利があたしらにはあるはずだ」
「あら? そんな約束したかしら?」
言葉ではそう言うが、パンドラの表情を見れば、すっとぼけていることは明白だった。
「お前っ!」
「ごめんなさいねぇ。いかんせん高齢だから、物忘れが激しいのよ。一昨年の晩御飯がなにかも思い出せないほどだから」
「いや、それは憶えていなくて当然だろ」
と、志具。
「ちなみに一昨日の晩御飯はコンビニの弁当だったわ」
「庶民的な上に、ずいぶんと侘しいのだな……」
「あら。便利なものを使わせてもらっているだけよ? 侘しいとか、そういう言い方はやめていただきたいわね。ちなみに弁当の具は、鳥の南蛮焼きとコーン入りのポテトサラダ。それとごま塩がかけられたご飯と沢庵ね」
「しっかり憶えてるじゃないか!」
思わずとばかり、ななせがツッコミを入れた。
それにしても……、と志具は思う。先程、パンドラは自分のことを高齢だと言ったが、いったいどれほどの時間を生きてきているのだろうか、と。
見た目と実年齢の乖離がみられる例を、志具はパンドラ以外にも見ているので、どうしても気になったのだ。
「うるさいわねぇ。……じゃあ、これでどう?」
騒がしいななせが嫌のか、パンドラは露骨に顔を顰めると、パチンと指を鳴らした。
直後、周辺の空間がぐにゃりと捻じ曲がる。……が、それも一瞬。一秒も経たないうちに、空間の歪みはなくなった。
志具は問うた。
「何をした?」
「この部屋の無限ループを解除しただけよ。これでアナタたちは、ここから抜け出せるようになったわ」
そう言うや否や、次なる変化が訪れた。
パンドラの身体が、薄らと透明になり始めたのだ。それはまるで、薄い絵の具が大量の水の中に消えていくように……。
「空間跳躍……」
ななせがボソリと言った。
語幹通りに考えればいいのだろう、と志具は推測する。パンドラは、ここから別の場所へワープしようとしているのだ。
エデンと留美奈町を行き来できた、あの魔法陣の同系統の魔術といったところか……。
徐々に色彩が薄く、完全に無くなりかけようとしているパンドラ。そんな彼女を、志具たちはただ見ているしかなかったのだが……、
「アナタたち、なずなちゃんを説得しに行くんでしょ? だったら、急いだ方がいいわよ?」
ふと、思い出したようにパンドラが忠告してきた。
「どういうことだ?」
「ゲルディさんって、自己中心的で相手の都合なんて一切考えない人だからね、わたしがいつになっても帰ってこないことに痺れを切らして他の人を刺客に送り込んでいるかもしれないわよ」
かもしれない、と言っている割には、ずいぶんと確信に満ちているような言い方をしていた。
戦闘で勝利した報酬代わり、ということなのだろうか。不思議と志具は、パンドラが出鱈目を言っているわけではないということに勘付いていた。
パンドラの話は続く。ほとんど周囲に溶け込んでいる人差し指を立てて、言った。
「あともうひとつ。――アナタたち、ずいぶんと目をつけられているみたいよ。気をつけてね♪」
私たちに目をつけているのは貴方ではないか、と志具はツッコみたくなったが、心にとどめることにした。
自分の言いたいことだけを言って、パンドラの姿は完全に消えた。消えた、というより、別の場所に移動しただけだが。
静まり返る空間。先程の殺伐と賑やかになっていた空間とは思えない。
「万条院、立てるか?」
志具は冷たい床に座っているななせに、手を伸ばす。
伸ばされたその手をじっと見つめていたななせは、
「ちょっと今は無理っぽいな……」
眉を八の字にさせて、そう言った。
無理もない。魔力を枯渇させるほどまでに戦い抜いたのだ。魔力消費に比例して、疲労感が増してくるのは、志具も実体験でわかっている。
だから志具は、無理にななせを立たせようとはしなかった。
「……ただ…………」
と、ななせは次の言葉を口に出す。
ななせは志具を見上げると、
「お前がおんぶしてくれたら体力回復しそうだなぁ~」
ニシシ……、と歯を見せて笑みを浮かべるななせ。
なっ……! と志具は言葉に窮した。
――いきなり何を言い出すんだ、こいつは……。
とっさに口から出てきそうになった言葉は、「馬鹿なことを言うな」というものだった。どうせまた、彼女の悪ふざけの一種だろうと、志具は思った。
だけど……。
志具は口を結び、ななせをじっと見つめる。志具の表情は硬く、見ようによっては怒っているように見えるものだった。
「冗談だって、冗談。そんなに怒らないでくれよ」
あはは、と明るく笑うななせ。
そんな彼女から、志具はそっぽを向くと、
「…………背負えば……いいのだな?」
「え?」
ななせは純粋に驚いた、とばかりの声を漏らした。
自分の頬が熱くなるのを、志具は感じていた。それを意識してしまうと、二次曲線のようにさらに熱くなるような気がしたので、志具はできるだけ無心でいるように努める。
志具は横目でななせを一瞥する。彼女は目を大きく見開き、声で感じた通りの様を、表情に浮かべていた。
そんな志具の視線に気づいたななせは、手をパタパタと振ると、
「べ、別に無理をしなくていいんだぜ? 少し休ませてくれたら歩ける程度にはなるだろうし……って」
ななせがそう言っている間に、志具は身をしゃがませ、彼女に背を向ける。
乗れ、と志具は背中で語った。顔を合わせるのは……気恥ずかしかった。
逡巡の時間が、しばらく経過する。しかし、十秒も経過したとき、志具の背中に人肌の温かさが伝った。
前へと回されるななせの両腕を確認すると、志具は両脚を手で固定し、立ち上がった。そうして螺旋階段をのぼっていく。
階段を上る間、二人は無言だった。カツ、カツ、カツ……、と志具の足音だけが聞こえていた。
――軽いな……。
志具は、人をおんぶしたことなどなかったため、重さの程度がどれほどのものか、わからなかった。……が、少なくともななせは、軽いと思った。
「……君は、ずいぶんと軽いんだな」
やがて出てきた言葉がそれだった。もっと気の利いた台詞を言いたかったという願望もあったのだが、志具はそこまで饒舌ではない。
「色々とプロポーションを維持するために苦労してるんだ、あたしも」
と、ななせは返事をした。耳元近くで紡がれる彼女の言葉は、とても甘い色をしているように思えた。練乳のように甘く、人肌ほどの温かさが、言葉にこもっているような気がした。
ななせは、背中に自分の身をくっつけるようにしているらしい、と志具は短い会話をしたときに気づいた。本来ならば、彼女が背に乗ったときにすぐに気づくべきことなのだろうが、緊張からか、わからずにいたのだ。
胸の鼓動が、否応なしに高まっていた。
どうしてだろう。
異性を背を貸してあげているからか?
異性であれば、誰であってもこれだけ胸の高まりを覚えるものなのだろうか?
それとも……、
――相手が……こいつだからだろうか…………。
わからない。それを判断するには、志具はあまりにも恋愛経験がなさすぎていた。
ただ不覚にも。不覚にも、だ。不覚にも、ななせを相手に胸をときめかせている自分がいることに、志具は驚いていた。
普段はベタベタとくっつこうとしてくる彼女からしてみれば、今のこの状況は願ったり叶ったりしたものだろう。
だけど、こういう状況に陥らせたのは、他ならぬ自分自身だった。言ってしまえば、自分が拒絶していたはずのことを、自分自身からしてみせたのだ。
――いやいや。私はただ、万条院が動けなくっていたから、背中を貸しているだけだ。決して他意はない。
そうだ、他意はない。万条院を助けているという思い以外の他意はない。
そう志具は、自分に言い聞かせた。
「……志具」
「な、なんだ?」
不意に言葉をかけられ、志具は狼狽をみせる。
しかし、それをからかう言葉はやってこなかった。
代わりにやってきた言葉は、
「――ありがとな」
それは、背を貸してもらっている礼なのだろう。
その言葉に、志具は自然と口元を緩ませていた。
――たまにはいいかもな、こんなことも。
そう思う志具。思ってはいても、口には出さない。
なぜか? 決まっている。
ななせに、からかわれるからだ。




