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神奇世界のシグムンド  作者: 上川 勲宜
第4章 金色の焔
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第12話 脱ぎ去る仮面

 近辺で起きていた殺人事件が幕を下ろし、一行の心持ちは軽くなっていた。それは同時に、菜乃が呪縛とも言えるほどの陰鬱な過去から解放されたときでもあった。


 だが、菜乃の心は、晴れとは程遠い、分厚い曇り雲に覆われていた。その雲は質量をもち、彼女の心を押しつぶそうとしているほどだった。


 どうしてでしょうか、と考えたとき、結論は比較的容易に出てきた。


 言ってしまえばそれは、負い目だった。そして、否応なしに気づかされてしまう、儚くも非情な現実のせいだった。


 前者のものは何なのか……。


 それは、自分の主であるななせに、酷い怪我を負わせてしまったというものだった。自分のために、入院しないといけなくなるほどの怪我を負わせてしまったのが、菜乃には苦痛で仕方がなかった。


 もうひとつは、志具にずっとだんまりを決め込む結果となってしまったこと。彼を蚊帳の外に追いやったような仕打ちに、菜乃は罪悪感を抱いていた。こんな気持ちを持つくらいなら、いっそのことすべてを白状してしまえばよかった、とすら思ってしまう。


 だけど、それはたまらなく嫌だった。彼にすべてを打ち明けることで、思い出したくもない過去を、昨日今日のように鮮明な過去にしたくなかったからだ。


 長い年月を過ごすことで、あのときのトラウマは徐々に姿を薄れさせていっているというのに、ここで蒸し返し、再び恐怖に震え、精神を侵食させることが、菜乃は嫌だった。


 実を言うと、今回の事件を知らなければよかった、という感情が、菜乃の心の内にはあった。


 だけど、それは赦されなかった。このまま逃げ続けることが屈辱的だったし、なにより、心の片隅で、犯人に抱いていた復讐心を果たすためでもあったからだ。


 その結果、あのときの犯人は、もうこの世にはいなくなった。復讐心も、もう二度と犯人と出会わなくなった時点で、消し去るべきことだ。


 しかし……どうしてだろうか。菜乃の胸中には、今もなお、もやもやとした鬱積したものが宿っていた。


 復讐を果たした後で、最後に残ったものは、なんともいえない虚しさだけだった。


 過去に囚われるあまり、未来(まえ)へと目を向けることが、できなくなっていた。


 その感情にあまりにも長く浸り続けた結果、過去(うしろ)にしか目がいかなくなっていた。


 ここまで思考を巡らせて、菜乃はようやく自覚した。志具に自分の過去を明かさなかったのは、何も前述したとおりの理由だけではない。彼に、それを指摘されるのが何より怖かったのだと。それゆえに、自分の過去をうち明かした人が、付き合いの長いななせや、佳織しかいないのだと。


 ソファでじっと、テレビを眺めながらそのようなことを考えていた菜乃。表情には出さないが、その心の中は暗澹とした雲に覆われていた。


「ほい」


 そのとき、菜乃の前にあるテーブルに、湯呑みに入ったお茶が置かれた。


 顔を上げると、そこにはななせがいた。柔らかな微笑みを湛え、菜乃の顔を見つめていた。


 その笑顔は、見ていると自然と心が落ち着くものだった。心から出てきたものだと、一目見てわかる。


 仮面のように薄っぺらく、笑顔を張り付けているだけの自分には、とてもできそうにない微笑みだった。


 淹れたお茶のせいか、湯呑みは温かかった。熱すぎるというわけではない、ほどよい加減の温かさだった。


 淹れたお茶に映る自分の顔は、ひどく疲れていた。こんな顔をしていたのか、と菜乃はようやくそのことに気が付いた。


 菜乃は、ななせを一瞥する。


 ななせの視線は、バラエティ番組をしているテレビに視線が向かっていた。ただ、こちらこそ見ていないが、菜乃はその態度にどこか、人の血が通う温かさがあるように思えた。


 志具は今、お風呂に入っている最中だ。壁越しに、シャワーの音が小さく聞こえてきていた。


「…………ななせ様」


 気づけば菜乃は、向かい側にいる彼女を呼んでいた。


「ん? どうした?」


 菜乃の言葉に反応するななせ。それはまるで、菜乃の言葉を待っていたとばかりのリアクションだった。


 ただそれを、いかにもとばかりに言うのではなく、それとなしに察したとばかりのものだった。


「わたしは…………志具様に打ち明けるべきなのでしょうか……」


 躊躇いを感じながらも発せられた言葉に、ななせは言う。


「すべては、お前の心の持ちようひとつなのだと、あたしは思っているぞ」


 心の持ちよう……、と菜乃は反芻する。


 ああ、とななせは首肯し、


「答えはもう見つかっているはずだ。お前が今さっき言った言葉が、それを証明してる。少なくとも、あたしはそう思ってるけどな」


 自分の発言が、証明している……。


「……そう、なのでしょうか……」


「お前が自覚できていないだけさ。きっと、そのときになれば、お前自身、気づけるはずだ」


「……教えてはくれないんですね」


「こういうのは、自分で行きつかないと意味がないからな。他人から一から十まで、すべて教えを乞うのではなく、二~三割は自分自身の頭で考え、自分なりの答えで突き進むことだ」


「……意地悪です……」


 菜乃は口の端を緩める。それは相手に対し、本当にそう思っている感情もあれば、自分自身に向けた嘲りも混じっていた。


 ななせはあくまで、途中までしか活路を示してくれない。それはどこか、親が子供を育てるそれに、似ているような気がした。ある程度一人歩きができるようになれば、親は見守るに徹するのだ。


 よほどひどい横道にそれない限りは、ただ見守るだけ。自転車の補助輪を外すとき、初めは親が後ろから支えてくれるが、気づけば支えなしに自転車をこげるようになるように……。


 親の愛情が、時には非情に映るように、ななせの言葉は、すべてを教えない点から、非情に映る。


 だけどその厳しさは、決してマイナスのものではない。自分で何かを生み出すように仕向ける、という点で、親の愛情と今回のななせの愛情は似ているのだ。


 意地悪、と言われたななせは、苦笑していた。しかし、ななせは居住まいを正すと、


「あたしだけじゃないと思うぞ。きっと、あいつもそう思っているんじゃないか」


 あいつ。


 それが誰を指しているのか、菜乃にはすぐに察しがついた。


 病院での待ち時間、志具が言った言葉を思い返す。


 ――私はさっき、言いたくなければ言わなくてもいいぞ、というのを言ったな。


 その後に、彼が言った言葉は、


 ――それは今でも変わらない。変わらないが……誰かの助けになりたい、という気持ちは、今も変わっていないつもりだ。


 彼は、強要はしなかった。自分の過去を打ち明けろと、強制しなかった。

あくまで志具は、活路のひとつを提示しただけ。十あるうちの、ほんの半分にも満たない道を述べたまで。


 あくまで自発的でないと意味がないと、彼は思ったのだろう。それゆえに出てきた言葉なのだと、菜乃は察した。


 志具のあの口振りから察するに、おそらく彼は、漠然とながらも自分の過去を知っている、と菜乃は勘付いていた。いったい、どのようなルートを使って知ったのか、菜乃には判別がつかなかったし、少々驚いてしまった。


 だけど、それは彼なりの優しさなのだろう、と菜乃は思った。察した上で、知らぬ存ぜぬを貫く、という。ただ、彼の場合は、それが透けて見えてしまっていたが……。


 まあ、それは今のところは、不問ということにしておきましょう、と菜乃。隠し事をしていると察した上で、知らぬ存ぜぬを、こちらもすることにしようと、そう思った。



 ――◆――◆――



 風呂から上がり、しばらく居間にいた志具。だが、すぐに自分の部屋へと向かった。ななせと世間話をしてもいいのだが、志具はそこまで口が達者ではないので、そういった話はなかなかうまくいかないのだ。ななせのほうも、どういうわけか、「早く部屋に行ってろ」というようなオーラをそれとなしに漂わせていたような気がしてならない。菜乃はというと、志具と入れ替わりで風呂に入っていた。


 志具は閉まったカーテンの隙間から、空を見つめていた。雨こそ降ってはいないが曇り空であり、ちょっとした拍子にぽつぽつと降ってきそうな空模様だ。ただ、雲の流れようによっては、晴れる日も、そう遠くはないだろう。


 志具は、溜まっていた書籍の一冊を取ると、それを読み始めた。昔はこうしてひとりで本を読んでいることのほうが多かったのだが、ななせたちが家に来てからというもの、読書する機会がめっきり減ったように思われる。それは少し虚しいことだったが、志具は不思議と悪い気はしていなかった。


 ――変わりつつあるのだろうか……。


 自分も。環境も。


 魔術師の世界に入ったことで、大きく変わったものがほとんどであるが、中には少しずつ変化しているものもあるのだと、志具は気づいた。


 大きく変わったのは、間違いなく環境だ。


 そして、少しずつ変わっているのは…………、


「志具様。……少し、よろしいでしょうか?」


 ふと、コンコンと扉がノックされた。声色は菜乃のものだった。


 今回、彼女が自分の部屋を訪れたのは、決して茶化すためではないのだろう、と踏んでいた志具は、文庫本をパタンと閉じると、


「ああ、いいぞ」


 と、許可を出した。


 カチャリと、静かに開けられた扉の向こうにいた菜乃は、志具の部屋に入ると、パタンと扉を閉じた。


 思えば、菜乃がひとりで部屋を訪問するのは、今回が初めてのことだな、と志具。ななせのほうは、やたらめったらと部屋を訪れては、志具のプライベートタイムを乱しに乱しまくっているのだが、菜乃は基本、夕食を報せるときくらいにしか、志具の部屋にやってこない。


 そういった意味で、菜乃の訪問は、それなりに珍しいことだった。


 まあ、今回の場合、志具はおおよその察しがついていたわけだが……。


「まあ、座ったらどうだ?」


 言うと志具は、ベッドに腰掛けてはどうか、と菜乃を促すが、


「あら、志具様。わたしをベッドに座らせようとして……。さてはそのまま押し倒して、狼になるつもりなのですね」


「そんなわけあるか!」


「いけませんよ。ただでさえ志具様には、ななせ様という許嫁と、マリア様という愛人がいらっしゃるのですから、そこに使用人であるわたしまで組み込もうだなんて……。思ったとおり、志具様は節操がないお方なのですね」


「誰が許嫁だ! 誰が愛人だ! あと、『思ったとおり』とはなんだ! 君は私のことを、どんな目で見ているんだ!」


「強いて言うなれば……好色家?」


「……なるほど。前々から思ってはいたが、君は私のことを大いに誤解しているようだ。さらに問題なのは、君はその考えを直そうとしないところだな」


「あら、わかっていらっしゃるじゃないですか」


 ニコニコとほほ笑む菜乃。


 まったく、こいつは……、と志具は皺が寄った額を指で掻く。


 やがて志具は、だが……、と言葉を紡ぐ。


「少しずつ、君は変わろうとしているのも、事実ではないのか?」


 ピクリ、と棒立ちであった菜乃は、指を微動させた。表情も、少し固くなった。笑顔ではあるが、そこにはぎこちないものがプラスされたようだった。


「…………………………ふふっ」


 それは、自嘲気味な笑いだった。菜乃は重力に従うように、ボスン、と志具のベッドに腰掛けると、


「志具様は……どうしようもないほどに鈍感な方ですが、時々、異常なまでに鋭くなられる時があるようですね」


「自覚できていないけどな」


 そのようでですね、と菜乃は肩をすくませた。


 会話が途切れ、二人の間で沈黙が漂った。カチッカチッと、壁掛け時計が秒針を刻む音だけが、場を満たしている。


「……どこで、聞いたんですか?」


 それは、だいぶ端折った問いかけだった。だが、志具には、それが何を指しているのか、よくわかっていた。


 ただ、このことを言っていいものか、志具は判断に困った。佳織やななせからならまだしも、まさかあの金髪の青年から教えてもらった、だなんて言えるわけがない。得体のしれない人物から得た話を鵜呑みにしてしまっている、だなんて言えるわけがない。


 志具が表情を強張らせ、答えに窮していると、


「……まあ、今回は不問にしておきましょうか。一緒に暮らしている見ですし、吐かせる時間はいくらでもありますし」


 なにやら物騒な言い分とともに、菜乃は退いてくれた。それをありがたいと取るか、災難と取るべきか……。


 ただ、これだけは言わないといけない。


 そう思い、志具は口を開いた。


「花月。前も言ったが、私は……君の助けになりたいと、そう思っている」


「じゃあ、わたしからも質問です。――志具様は、どうしてわたしを助けたいと、そう思っていらっしゃるのですか?」


 どうして?


 志具は驚いた。それは、どうしてそんな質問をするのか、という考えがあったためだ。


 それは決して、答えに窮するから思っていたのではない。当たり前のように思っていたことを、こうして問いかけられるとは思っていなかったからだ。


 どうしてご飯を食べるんだ? と問われれば、お腹が減るからだ、と答えるようなものだ。


 だから志具は、答えてみせた。


「困っている人を助けるのは、人として当然のことだろう?  言ってしまえば、人助けに理由なんていらないはずだ」


 苦もなしに言ってのける志具。


 そんな彼の言葉に、菜乃は心底驚いているようだった。どうしてそこまで驚くのか、志具にはわからなかったが……。


 やがて菜乃は、くすりと笑みをこぼした。


 そして、


「同じですね」


「……? 何がだ?」


 志具は訊くが、なんでもありません、と菜乃は答えてみせる。答えた後、可笑しいとばかりにくすくすと笑みを漏らしていた。


 よくわからない、といった感じに志具は訝しげに首を傾ける。だが、少なくとも、小馬鹿にされているわけではないということはわかっていたので、微笑みの意味を聞かないことにする。


 ふぅ……、と精いっぱい笑みを漏らした後、菜乃は瞼を閉じ、息を吐いた。目を閉じた彼女は、色々と打ち明けるべきかどうか、悩んでいるようだった。


 志具は沈黙して、菜乃の次の言葉を待つ。急かすつもりはなかった。


「……わたし、今回亡くなった犯人に、両親を殺されたんです」


 沈黙の後に、菜乃はぽつりと、そのようなことを告白した。覚悟はしていたとはいえ、実際に本人から言葉を聞くとなると、胸中に重たい一物が落ちる感じがした。


「今でこそわたしは、魔術師の世界に足を踏み入れているわけですが、思えばあの日のことが、わたしの人生の中で、最大の転換期だったのでしょうね」


 訥々と語られるその言葉はとても静かで、苦しみの果てにある一種の諦めに近いものを、聞く者に与えるようなものだった。


 菜乃は語る。両親が殺された後、心ない大人たちに囲まれ、薄っぺらな同情しかもらえなかったことを――。


 幼き日の辛辣な人生は、菜乃のことを確実に蝕んでいたということを、志具は察した。そして、それを己が身に起きたことのように、志具は感じていた。それはきっと、彼自身が似たような経験をしていたからであろう。菜乃ほどに程度がきついものでなくても、その度量だけは、なんとなしに理解できた。


 ――私と同じだな……。


 そんな考えが浮かぶものの、口には出さなかった。それは、その言葉こそが、菜乃を蝕んだ薄っぺらな同情だと、志具は気づいたからだ。


 下手な同情は、かえって傷ついているものを痛めつける。傷口に塩をぬり、傷口を今以上に開けてしまうほどの威力はあるだろう。ただそれは、目に見えないだけで、確かに存在するものなのだ。


 菜乃は灰色の人生を、語り続ける。それは志具の胸を不快にさせるようなものまでもあったが、口は挟まなかった。


「わたしは親類縁者の間を転々としていました。ですけど、どこにいっても居心地の悪さがついて回りました。自分の影のように、わたしが行く先の後ろに、ぴったりとついてきてしまっていました。――そんなときです。あの人と出会ったのは――」


 あの人? と志具。


 その疑問は、次の瞬間には明かされた。


「西元佳織さんです。佳織さんのおかげで、わたしは今の状態まで立ち直れたんです」


「西元さんは、そのときから警察関係者だったのか?」


「いえ。そのときは、東方呪術協会に属していたようです」


 東方呪術協会……。


 それは、なずなが――強いて言えば玖珂家が頭首を務めていた魔術結社だ。今はもう、ほとんどないに等しい組織になってしまっているようだが……。


「本人が言うには、協会が組織としての(てい)を為さないようになってから、佳織さんは今のところに落ち着いたらしいですよ」


 と、菜乃。


 まさかここで、その組織の名前を聞くことになるとはな……、と志具はやや驚いた。


 そんな彼の驚きにかまわず、菜乃は話を続ける。


「佳織さんは、身寄りがないも同然のわたしの為に、色々と便宜をはかってくれました。どうしてあの人が、あそこまでわたしのことに尽力してくれたのか、わたしには正直わかりません」


 ただ、と菜乃は言う。


「あのときのわたしにとって、佳織さんは唯一の心のよりどころと言ってもいいくらいの存在でした。あの人が力を尽くしてくれたおかげで、わたしはななせ様のもとでメイドとして働かせてもらうことができましたし、こうして今まで、やってくることができたのです」


 菜乃の言葉に耳を傾けている志具。だが、内心では別のことを考えていた。トンビの仮面を被った、あの人物について――。


 志具はひとつの仮説を、立てはじめていた。ただそれは、半分ほど組み立てたところで、思考停止になっていた。色々と確信を得るには、足りないものが多かった。


「志具様」


 ふと菜乃が、彼の名を呼ぶ。


 志具は思案で顔を俯かせていたが、菜乃へと視線を戻した。


 菜乃は……微笑んでいた。しかしそれは、力強さを感じさせない、儚げな印象を受けた。


 あと少しの力を加えれば、まるで砂上の楼閣のようにボロボロと崩れ落ちてしまうのではないかと、そう志具に抱かせるほどに……。


「わたしは……どうしてこんな目に遭ったんでしょうか」


 どうして、両親を失わなければならなかったのか。


 どうして、冷たい視線にさらされなくてはいけなかったのか。


 どうして、ここまで苦しまなければならないのか。


 菜乃は、そう問いかけていた。


 きっと彼女は、今の今まで持ち直そうと必死に生きていたのだろう。微笑みを仮面のように使い、本音の感情を抑え込んでいたのだろう。そうすることで、いつか忘れてしまえると、辛い過去をないもののように扱える時が来るだろうと、菜乃はそう信じて生きてきたに違いない。


 だけど、現実はどうだ。過去が現在に追いついてくるかのように、今回の事件が発生すると、途端に菜乃は折れてしまった。彼女の予想していたものとは真逆の結果に、なってしまった。


 それを菜乃は悔いているのだろう。後生大事に、辛辣な過去を抱え込んでいることに、彼女自身が気づかされてしまったのだ。


 その結果が、今の彼女の表情だ。


「それは…………私にはわからない」


 下手な誤魔化しをしない代わりに、志具ははっきりと、そう告げた。


 しかし、志具の言葉は続いた。


「わからないが……これだけは言える」


 菜乃の視線が、志具の心にまで及んでいた。悲哀に満ちた感情が、志具の心に届いていた。


 どこまでが彼女にとっての優しさになるか。


 どこまでが彼女にとっての辛さになるか。


 志具はわからない。わからない以上、誤魔化すような真似はしたくなかった。それは自分の為にもならないし、彼女のためにもならないだろう。


 だから志具は、言った。


「大切なのは、過去を抱え込むのではなくて、そこから何かを学ぶことなのではないか?」


「学ぶ……」


 ああ、と志具は頷く。


「過去というのは日刊紙のようなものだと、私は考えている。一枚一枚は大した量でなくても、それをいつまでも大切に持ち続けていたら、かさばって邪魔になるだけだ。前に進むためには、一度日刊紙(かこ)に目を通したら、それを知恵に還元して、後は思い切って捨ててしまうくらいがちょうどいいんだ」


 荷物にしてしまう必要はどこにもない。荷物にしてしまえば、前には進めない。それは辛い過去はもちろんのこと、楽しい過去も同様だ。


 楽しい過去に固執してしまえば、そこから一歩も前に進みたくなくなる。なぜなら、一歩でも前に進んでしまえば、それは実感としての「現在」から離れることになるからだ。過去に固執するのは、そこから進まないことを宣言するようなものだ。


 それは辛い過去も同様だ。ただ、楽しい過去と違うのは、それが心労となり、ただただ重たい荷物としてしか認識できないところ。なまじ傍にあるものだから、ふとした時に視界に入り、気分を滅入らせる。じわじわと身体に浸透する毒のようなものだ。


 だから、捨ててしまったほうがいい。ただ、捨てる前に目を通して、何かを学び、知恵にするのだ。そうすれば、ただの重たい荷物ではなくなる。

知恵をつけるのは、前に進むことと同意だ。幼い子供が転んで膝を擦りむけ、痛い目を味わったとき、次は転ばないように気をつけ、どうすればいいのかを考えるように……。


「捨てて、しまう……」


 志具の言葉に、菜乃はその言葉を口にし、ややうつむいて思案し始める。彼女なりに、向けられた言葉を咀嚼しているのだろう。志具は邪魔をせず、次の句ができるのを待つ。


 やがて菜乃が、口を開いた。


「……志具様」


 視線で、なんだ? と志具は次の言葉を促す。


「すぐには……できないかもしれません。……でも、いつか必ず……捨てることができるくらいに、強くなりたいです」


 それでいい、と志具は答える。


 何年もの間、菜乃はそういった生き方をしてきたのだ。今すぐに矯正しろなどとは、志具は言わなかった。一朝一夕でできるほど、易いものではない。


 志具にしてみれば、菜乃がそういう宣言をしてくれるだけで満足だった。


 ふふっ、と菜乃は笑みを漏らす。


「どうした?」


「いえ。なんだからしくないなって、そう思っただけです」


 どちらが「らしくない」のか。そのことについては、志具はあえて不問とすることに決めた。


「志具様。――ありがとうございます」


 一礼し、顔を上げた菜乃の顔は、花開くような微笑みだった。


 それは仮面のものか。本心からのものか。


 志具には、考えるまでもなかった。


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