第9話 踏み出す一歩
しとしとと、雨が降っていた。
垂れ込める汚れた綿のような雲は、吸った水を落とすように、下界にサアァ――っと滴を落とす。
四時間目の授業を受けている志具は、現代国語の授業をする先生の言葉に耳を傾けながら、窓に垂れる雨水を見つめていた。
志具の隣の席の主は、今日はいない。……いや、今日だけではない。もう一週間になる。
後から菜乃に教えてもらったことなのだが、ななせはあのトンビの仮面を被った人物に、致命傷を受け、倒れたのだという。菜乃はひどく気分を消沈させていた。彼女の目の前で起きた出来事なのだから、それも仕方がないというものだろう。
ななせは今、留美奈町の総合病院に入院している。確か……今日が退院の日であるはずだ。そのこともあって、菜乃は今日、学校に来ていない。ななせの入院先にある荷物の整理をするからということだ。
ただ……、と志具は勘付いていた。それだけが理由ではないのだろうな、と……。
巷を賑わせていた殺人事件は、犯人死亡という形で幕を下ろしていた。その際、志具も警察官の聴取を受けていた。
あの場所には志具しか人がいなかったということもあり、警察の人は、彼が犯人ではないかという疑りをもっていたらしい。仕方ないことにしても、なかなか解放させてくれない上に、同じような質問を幾度となくやられたために、神経が必要以上にすり減った。
そんな志具を助け出したのは、西元佳織だった。
佳織は、担当の警官を下がらせると、志具と一対一で会話した。
彼女は、自宅で会ったときとは別人だと思ってしまうほどに凛々しさを湛えており、志具も少し身構えてしまったのだが、佳織が訊いてきた最低限の質問に答えると、即座に開放してくれた。そこで察したのだが、どうやら彼女は、色々と裏で手を回していたらしい。志具をいち早く開放するように……。
彼女には感謝しないといけないな、と志具。
ただ、最後に志具は、佳織に頭を下げられた。
疑いをかけてしまい、申し訳ありませんでした、という謝罪と。
菜乃ちゃんのこと、よろしくお願いします、という願いと。
二つの意味で彼女に頭を下げられた志具は、わかった、と了解の返事をした。
……が、実のところ、どうやって話を切り込んでいけばいいのか、志具はまだわかっていなかった。というのも、菜乃は自分の過去を隠したがっているからだ。本人が隠そうとしている、知られたくない過去を他人が掘り起こそうとするのは、いささか無遠慮も甚だしいというものだろう。だいたい、菜乃にしてみれば、どうして志具が、彼女の過去について知っているのか、という戸惑いを与えてしまうことになる。そうなってしまえば、彼女が不信感を抱いてしまいかねないというものだった。
今回の事件が、菜乃にとってひとつのターニングポイントになっているのは自明の理であり、それゆえに慎重に判断を下す必要があった。
――踏み込もうにも、どうやって踏み込んでいけばいいのだろうか……。
もう志具には、教壇に立つ先生の話は、聞こえていなかった。それは雨が降る音のような環境BGMのようなものと化していた。授業態度は真面目という彼にしてみれば、あってはならない失態だった。
志具がそのことに気づいたときには、もう四時間目の授業終了のチャイムが鳴っていた。
先生は次回の予告を手短に説明すると、教室を後にした。その際、志具のほうに一瞥をしたのは、決して偶然ではないだろう。
ふぅ……、と志具は長い息を吐いた。
――何をしているのだろうか、私は……。
自分のやるせなさに、嫌気がさす志具。降り続ける雨が、彼の心を陰鬱に打ちつける。
そんな彼のもとに、マリアが弁当をもってやってきた。
「志具君。なんだか絶不調みたいだね」
「……そう見えるか?」
声のトーンが下がっていることに、志具は気づいていなかった。自覚できていない志具に、マリアは苦笑いをし、
「見えるよ。いつにも増しているもん。陰気度が」
「陰気度って……」
呟く志具に、マリアは失言だったと思い立ったらしい。慌てた様子で、フォローし始める。
「はっ! ち、違うんだよ、志具君! これは決して、志具君を馬鹿にしているわけではなくって……」
「弁解しなくても、わかっているから大丈夫だよ」
てんやわんやになるマリアに、今度は志具のほうが、苦笑する番だった。
ただ、そんな彼女を見たためか、志具は少し、心の負担が軽くなったような気がした。
マリアはななせの席の机を寄せ、彼女の椅子に腰かけると、
「……やっぱり、ななせさんたちのこと?」
まあな、と志具は視線を逸らして言った。隠してもマリアにはすぐわかってしまうことなので、誤魔化すような真似はしなかった。
ただ、心の重荷を他人に吐露するというのは、なかなか気が引けるものだ。相手に迷惑をかけてしまわないか、とか、余計な考えが先立ってしまうから……。
「…………あの」
しばらく志具の顔を見つめていたマリアは、意を決したように、口を開いた。
「志具君がよかったらなんだけど、話してくれないかな? もしかしたら、何かアドバイスができるかもしれないし……」
それは、マリアの純然とした気持ちなのだろう。その気持ちはありがたい。ありがたいのだが、先刻言った雑念が、志具の口を堅く閉ざす要因となってしまっていた。
志具はだんまり。頭の中で言うべきか言わないべきか、葛藤していると、
「わたし、まだ志具君たちが踏み込んでいる世界について、全然わからないけど……それでも、人と人の関係なら、手助けできると思うよ。それは、身を置いている世界が変わっても、根本は同じだと思うから……」
マリア……、と志具は少しばかり驚きを禁じ得なかった。
まさか彼女から、そのような言葉を聞くことになるとは、思ってもいなかったから……。
ふっ、と志具はつい微笑を漏らした。
――マリアもマリアなりに、成長しているんだな……。
そんな確かなものを、志具は感じ取ったからだ。
――ならば、私自身も、少しはそういう努力をするべきだろう。
そう思い、志具は自分の弁当をとり出す。昼食をとりながら話そうと思ったからだ。
志具のとり出した弁当は、コンビニ弁当だった。菜乃は今日、朝一番にななせの入院先の病院まで向かって行った。それゆえに、彼女が弁当を作る暇がなかったのだ。
「ありがとう、気遣ってくれて」
志具はマリアに、感謝の気持ちを伝える。
あまりにストレートな言葉が返って来たためか、マリアは一瞬、何を言われたかわかっていないように、キョトンとしていた。……が、その数秒後には赤面させて、口をパクパクとさせ始めた。
「し、志具君が……わたしにっ、ありがと……ってっ……!」
そこまで感激されるとは思っていなかった志具。やや戸惑いながらも、横槍を入れずにしばし落ち着くのを待つ。
「ありがとう……。ありがとう、かぁ……。えへへ……」
なんだか、ずいぶんと幸せそうだ。だがまあ、嫌悪感を抱かれるよりは数百倍マシである。
「これを……既成事実をつくる弱味にして、志具君とわたしが……合体……」
ん?
声をボソボソとさせていくマリア。耳を澄ませねば聞き取りづらいが、志具にとって不穏な発言が、彼女から聞こえたような気がした。心なしか、マリアの雰囲気がダークな色に染まっていっているような気がしてならない。
「既成事実……万歳……。既成事実……乾杯……」
「あ、あの……マリア?」
何をお経のように呟いて……、と志具はうすら寒いものを感じながら、彼女に声をかける。これ以上、彼女を放っておくのは危険だと、志具は判断したからだ。
志具の声掛けに、マリアはビクリッと身体を震わせる。それはまるで、悪戯がばれそうになっている子供のようなリアクションだった。
マリアは笑顔をつくると、
「なんでもないよ、志具君。さあ、早くわたしに打ち解けてみて。そして既成事じ……もとい、既成じ……ゴホン、既成…………あっ」
何度言いなおそうとしても、とある単語しか出てこないマリアに、志具はジト……とした眼差しを向ける。
「なんてこと! わたしの口が邪悪に染まっちゃってるよ!」
「……一応、悪い考えだということは、自覚しているんだな」
「はっ! な、なんのことかな~? 志具君。わたしは常に澄み切った心をもっているんだよ。例えるなら、水道水くらいには」
「随分と庶民的な澄み方なんだな」
「べ、別にいいんだよ! きれいな水であることには変わりないんだし! ――さあ、志具君。君の悩みをぜひ、わたしに打ち明けてみせて! そしてわたしたちの、ヴァージンロードを寄り添い合いながら歩く未来をゲットしようよ!」
「話が飛躍しすぎだろ!」
まったく……、と志具は頭を片手で抱える。なんだか、余計な疲れを獲得してしまったかもしれない、という気持ちを拭いきれない。
やや項垂れ、マリアをちらりと見ると、彼女は母性に満ちた微笑みを湛えていた。
「よかった。志具君、ちょっと元気になったね」
志具はその言葉に、呆気にとられた。……が、すぐに志具は半眼になると、
「……ただの偶然なんだろう?」
「そうだよ。そうだけど……それでもよかったよ」
にこりと笑顔のマリアに、志具はかなわないな、と笑みを漏らす。
その後志具はマリアに、訥々と話していった。
最近、世間を賑わせていた殺人鬼のこと。
その殺人鬼が、菜乃の過去に大きくかかわっていること。
仮面の人物のこと。
殺人鬼が、その人物によって討たれたこと。
菜乃のことは、できるだけオブラートには包んだ。ただ、それとなしに勘付く程度に、話を着色した。それは、他人の口から当人のことをベラベラとしゃべるのはよくないという考えからだった。
昼食時の話題にしては、なかなかハードな内容であるがゆえに、二人の食指の動きは緩慢だった。
それでもマリアは、途中で飽きることなく、志具の言葉に真摯に耳を傾けていた。余計な茶々は入れず、ただただ誠実に……。
やがて、一通りの話を終えた。
「そっか……。わたしのいないところで、色々あったんだね……」
沈んだ声のマリア。
「すまないな。食事時だというのに、こんな話……」
「ううん、いいんだよ。話してくれた喜びのほうが大きいから」
濁りのない、澄んだ言葉を、マリアは言った。マリアがそう思うのも、エデンでの一件があるからだろうか、と志具はなんとなしに思ってしまう。
その後二人は、黙々と、会話もなく各々の弁当に手を付ける。話していたときの時間を取り戻すように。
そして、二人とも弁当を食べ終えたときだった。
「志具君」
マリアは、志具の名を呼んだ。
志具はマリアのほうを振り向いた。
「志具君は、菜乃さんの力になりたいんだよね。でも、菜乃さんが過去を話してくれないから、助けようとしても助けられないんだよね」
ああ……、と志具は肯定。
自分は菜乃の過去を知らない。ただ、あの殺人鬼によって、彼女の人生が狂ったのだろうということは、なんとなしに察しがついている。だけど、自分が菜乃の過去について漠然と知っていることを、彼女は知らない。知らないがゆえに、その話題をこちらから振るのは憚られる。
だから、何もできない。
したくても、一歩が踏み出せない。
進みたいと思っているのに進めないもどかしさが、志具の中に生まれていた。
そんな志具の内心を考慮してか、マリアは言う。
「志具君のそういう優しさは、本当にいいなって思ってるよ。なかなか、真似しようとしても真似できるような優しさじゃないし、忍耐がいるものだって思う」
でも……、とマリア。
「踏み込むときは、踏み込まないといけないよ。たとえそれが、本人にしてみれば奇妙な感じをもたせてしまうことになっても」
どうして? と志具は問う。
するとマリアは、少し目を伏せた。
「わたし……エデンでどうしても、志具君たちが何をしているのか知りたかったから…………志具君たちに悪いなって思いながらも、あんな行動を取ったから……」
あんな行動。――その言葉が何を指しているのか、志具には容易に想像がついた。
マリアを悪意がないとはいえ、蚊帳の外に放り出した結果、彼女は港での一戦を見てしまい、同時に、魔術師側の世界のことを知った。――そのことを指しているのだろう、と。
「今でも悪いことしたなって思ってるよ。……でも、そのおかげで、わたしは今こうして、志具君の悩みを聞いてあげられてる」
「マリア……」
一歩を踏み出す。たとえそれが結果的に、良い結果ばかりではないにしろ。
自分の現状は、凪の中にいる小舟のようなものだ、と志具は思った。
何も起きない。ゆえに、何も進展がない。良くも悪くも……。
少しでも変化を求めようと思うのなら、ほんの少しでも、自分から行動を起こすべきなのだ。
波ひとつ立っていない水面に手を付け、漕ぐみたいに……。ほんの少しでもいいから、行動を起こすべきなんだ。
それが善となるか悪となるかはわからない。ただ、何かが変わることは確かなのだから……。
「マリア、――ありがとう」
二度目の感謝に、マリアは慈愛に満ちた笑顔を見せる。
いつしか雨は、止んでいた――――。




