第1話 愁いの顔
季節は六月。雨期になったこの頃は、雨が続く日が多い。晴れである天気はなりを潜め、分厚い鉛色の雨雲が数日間、太陽が顔をのぞかせるのを憚らせていた。
雨粒の勢いは弱いが、それでも傘を差しながらの登校が連続で起きると、生徒たちは愚痴のひとつでも言いたくなるようだ。クラスメイトの話の頭は、決まって浮かない天気のところから始まる。
「あ~あ……。今日も雨かぁ……」
それは、席替えで志具の隣の席が決まったななせも同様だった。自分の席に着くと、顔を机にへばりつかせて文句のこもった言葉を漏らすのだ。
「梅雨なんだ、仕方ないだろう」
一方の志具は、簡潔な言葉でななせの言葉を一刀両断する。実を言うと、志具も不満が全くないわけではない。どちらかというとななせの意見に賛成だ。だが、いくら愚痴をこぼしたところで相手が天気である以上、何の効果もないことは自明の理。ゆえに志具は、そんな取り付く島もないような言葉を言ったのだ。
「そうだけどさぁ。わかっていても愚痴のひとつでも言いたくなるときがあるんだよ。――お前だってそうだろ?」
「ああ、そうだな」
志具は自宅より持ってきていた文庫本をめくりながら、気のない返事をした。
そんなあしらわれ方をしたななせは、不満が増大したとばかりのジト目を志具に向ける。
ただでさえ湿っぽいというのに、さらに追加でそのような視線を向けられると、志具も少々ながら不快ゲージが一段階ほど上がった。
「……キスするぞ」
「なんでそうなるんだ……」
「許嫁だからだ!」
「力説するな! あと、声が大きい!」
と、そこで志具はハッとし、周りを見渡す。教室にいるクラスメイトが、志具の大声に驚き、何事かという眼差しを向けてきていた。
――やってしまった……。
あれほど学校では目立たないように細心の注意をはらっていたというのに……、と志具は自分の失態に頭に片手を当て、首を左右に振った。苛立ちを霧散しようとしているかのように。
そんな彼を、したり顔で見つめるななせ。なんとも勝ち誇っているその顔が憎らしかった。
「お前のせいだぞ」
「自分のせいだろ~?」
クッ、と志具は歯を噛みしめる。こういうことに関してはよく頭が回る彼女に、志具がかなうはずがないのだ。
「……邪魔するなよ」
と恨めし気な眼でななせを一瞥すると、志具は読書を再開させる。
ななせは不満そうな唸り声を、小さくかつ低いトーンで漏らしていた。
そんな、ななせの態度に、志具は少々引っかかるところがあった。……が、
――いや。訊くのはよそう。
と、内心でかぶりを左右に振る。振りつつも、内心ではその違和感について考え始める。
志具がななせに対して引っ掛かりを覚えているのは、彼女が最近、自分の言葉に従うようになってきているような気がしたからだ。
もしかしたら、単なる気のせいなのかもしれないが、それでも志具の心が違和感を覚えているのは確かである。
現に今回のことだってそうだ。志具が読書の邪魔をするな、というと、ななせは唸りながらも、非難に満ちたジト目を向けながらも、それ以上のことはしてきていない。昔の彼女なら、志具の意見などなかったことにして強行突破してもおかしくはないだろう。
――いったい、何の心変わりがあったんだ……?
その疑問を頭の中に浮かべると、到着点はあの一件だ。
志具が、エデンからこの町へと帰還した日。
あのときのななせのしおらしさは、なかなかに貴重なものだったと、志具は今でも思う。そして、自分も、あのときほどななせに対して素直に謝辞を述べたのは、初めてだった。
一切の濁った感情なしに、あのときの彼女の気持ちは嬉しかった。自分をあそこまで大切に想ってくれていたのだから……。
――許嫁、か……。
ななせは、志具に接触を図るために、そのような方便を使った。実際、その旨が垣間見える手紙まであったのだから、百パーセント完璧な嘘というわけではないだろう。だが、そのほとんどは単なるポーズであったはずだ。少なくとも、志具はそう解釈している。
しかし、先刻の一件を経て、志具は彼女に対して、奇妙な情を抱き始めているのも事実だった。
それは恩人としての情なのか、友達・親友としての情なのか。
それとも……、
――……って、何を考えているんだ、私は!
ありえない。絶対に、ありえない!
そのような思考を、志具は即座に払いのける。
――そうだ。これは単なる一時の気の迷いか何かだ! そうに違いない!
戦場で、初めは何とも思っていなかった男女が、戦いを経て恋心に似た何かを芽生えさせて、そのままゴールインするのと同じ理屈だと、志具は自分の想いを解釈する。あくまで似た何かであって、そのものではないんだ、と。
ふふ、といきなり隣から笑みが聞こえてきた。見ればななせが、小悪魔的な笑みをもって、自分に視線を送っているのがわかった。
「……な、なんだ?」
「いや、別に~。ひとりで百面相なんてしてたから、気になっただけさ」
「ひゃ……っ⁉」
百面相⁉ と志具。
どうやら、自分でも気づかないうちに、表情をあれこれと変化させていたようだ。そのことに気づかされ、志具の頬が桃のような淡い色に染まる。
「お、照れたな志具。これであたしに対する好感度がプラス百くらいにはなっただろ?」
「増えすぎだ。むしろマイナスを頭につけてもいいくらいだ」
「じゃあそれにマイナス1を掛ければ問題ないな」
「問題大アリだろ!」
声を荒げる志具に、再びクラスメイトの視線が集中する。短い間に二度も同じ失態をしてしまい、志具は何ともやるせない気分になっていた。
「し~ぐ♪ 他の人に迷惑かけちゃ駄目だぞ~」
ギロリ、と志具はななせを睨み付ける。メンタルが多少強い人でも怖気づきそうな眼光にさらされ、ななせは「やりすぎたか」といわんばかりに気まずそうに視線を逸らした。
「――お、マリアと菜乃が帰って来たぞ」
ななせの言葉に、志具が反応する。ななせの視線の先を辿ると、プリントの束を抱えたマリアと菜乃が、教卓の上にそれを置いているのが見て取れた。
本日はマリアと菜乃が日直当番になっており、プリントを運んできたのは、仕事のようなものだった。
一仕事終えた二人は、志具とななせのもとへとやって来た。
「お疲れ。マリア、花月」
二人にねぎらいの言葉をかける志具。
そんな彼に菜乃がやんわりとした笑みを浮かべてこう言った。
「そのお言葉はありがたく受け取らせていただきますけど……できればやっぱり、殿方の労働力が欲しかったですね」
「ち、ちょっと菜乃さん!」
慌てて菜乃の言葉をストップさせようとするマリア。だが、
「あら。ではマリア様は、志具様のお力がなくても、わたしたちだけでも楽勝だ、とでも思っていらっしゃったのですか?」
「そ、それは……」
マリアは菜乃から視線を逸らす。少なからず、必要としていたというのが、志具にはわかった。
「で、でもでもっ、わたしたちが当番なんだから、自分たちの力だけでしないといけないよ、やっぱり」
マリアの正論に、菜乃はあくまで動じない。
「そうですね~。確かに、マリア様の言う通りかもしれません」
「でしょ?」
「はい。志具様は本日、日直でないですから、ななせ様とのイチャラヴイベントを満喫する権利があるのですから、それをわたしたちの勝手で邪魔してはいけないというものです」
「い、イチャ、ラ……ブ…………⁉」
マリアの目が、野獣のそれと化す。その眼光の先にいるのは、志具だ。
志具の机にドン、と勢いよく両手を下ろし、志具に詰め寄る。
「志具君! 菜乃さんの言ったこと、本当なの⁉ わたしたちがいない間、くんずほぐれつのキャッキャウフフなイベントを満喫してたの⁉ わたしもまぜて!」
「い、いやマリア。花月の言ったことは全部でたらめだから、本気にしないでくれ」
マリアが最後に付け加えた言葉は、あえて触れないことにする志具。
志具の平静な振る舞いで、マリアの頭に上っていた血が、落ち着きを取り戻したようだ。
へ? というような顔になり、冷却した頭で志具の言葉を咀嚼し、理解すると、
「な、な~んだ、そうだったんだ。そうだよね。志具君がそんなみんなに見られるとより興奮するの的な性癖があるわけないよね」
ホッと安堵の吐息を漏らすマリア。そのことに志具も胸を撫で下ろしたいのだが……どうしてだろうか。マリアの先程の言葉を素直に受け取れないでいた。色々と誤解を受けそうな言葉があって……。
いや、よそう。つっこむのは――と志具は若干諦めモード。スルースキルは身につけておいて、決して損はしないのだ。
――ん?
何気なく視線を移動させると、そこに菜乃がいた。彼女は窓から見える雨雲を、ぼうっと見つめている。
……いや、呆然とではない。そこには何かしらの感情が宿っているようだった。
志具が予想するに、その感情は――、
「……あら、志具様。どうかなされましたか?」
志具の視線に気づいた菜乃が、表情を朗らかな笑みへと変化させ、志具に問いかけを向けた。
「……いや、何でもない」
その場をごまかす志具。少なくとも、今の彼女は、雨雲を見上げていたそれとは違っていたからだ。
「あらあら、志具様。許嫁属性に幼馴染み属性に染まった次は、メイド属性に興味があるのですか?」
「断じてない!」
即答してみせる志具。と、ちょうどそのとき、朝のホームルームを報せるチャイムが鳴った。
「では、志具様、ななせ様。わたしたちは席に戻ります」
「またね。志具君、ななせさん」
二人はそう言うと、それぞれの席に着いた。菜乃とマリアの席は隣同士であり、言ってしまえば、それが原因で二人が一緒の日に日直に選ばれたのだ。
やがて担任教師が入ってき、朝のホームルームが始まる。
志具は教師の言うことに半分耳を傾けながら、もう一方では別のことを考えていた。
それは菜乃が、雨雲をじっと見つめていた時の表情のこと。
志具の気のせいでなければ、あのときの菜乃の顔には、三つの情が宿っているようだった。
淋しさ、
辛さ、
愁い、
――――この三つが――――――。




