幕間2 意志の在り処
視界はただ、黒一色が支配していた。
辺りを見渡す……といっても、どちらが右でどちらが左なのか、判別がつかない。上も、下も。
重力から解放されたような浮遊感が、なんとも気味が悪かった。地に足がついた生き方をする、という言葉があるが、その言葉の意味の大切さがわかった気がした。地面に足がついていないというだけで、人はこれほどまでに言いようもない不安を抱くのだと。
それは、何かに触れあっているという実感がないせいかもしれない。それは、相手が人や動物でなくてもいいのだ。草木や花、言ってしまえば地面というものは、普段生活していると必ずと言っていいほど触れ合っている。これまでは当たり前のように感じていたそれらの存在が今、なくなってしまい、初めてそのありがたみが理解できた。
――……まあ、今知ったところで、もう手遅れなんだがな……。
志具はただ呆然としていた。
何かを意識的に見ている、というわけでもない。触れているというわけでもない。ただ……呆っとしていた。
時間の感覚がわからない。あれから――自分が『ホークラックス』に魂を吸い込まれてから、どれだけの時間が経ったのだろうか?
数秒? 数分? 数時間? 数日? 数か月? それとも……数年?
秒と年ほどの時間の流れすら、判別できなくなっていた志具。そんな自分に、志具は失笑する。それは自虐を孕んだ笑いだった。
それは一種の諦めからきているものだった。もうここから出られない。未来永劫の牢獄に、自分は取り込まれてしまったのだ。
抗う術はなかった。そんな気力も、湧いてこなかった。
ほんの少しでも光明を見出せるのなら、志具はまだ諦めていなかっただろう。
だけど……わかってしまうのだ。ここに閉じ込められてしまった以上、自分の意志では出られないということを。
光などない。今、自分が見ている、この視界全体の暗闇のように……。
――本当にそう思っているの?
不意に、そんな声が聞こえた気がした。それは耳から伝ってくる言葉ではなく、心そのものに語り掛けてくるような声だった。
声色から判断して、相手は女性だ。
誰だ? と志具は険とした口調で訊いた。
――ふふ……。元気そうね、貴方。安心したわ。
微笑ましいとばかりに、女性の声は言う。
笑っている場合ではない! と志具は女性に対し、憤りをあらわにした。
どこの誰かは知らないが、人が諦観に暮れているところを笑うとは、おおよそまともではない。
――そんなに怒らないの♡ もっとリラックスリラックスゥ~♪ しましょ? 志具君♪
なんだこの人……、と志具は姿の見えない人物にあきれ返る。あまりにも軽いノリを、この女性はしている。時と場所、場合をいっさいわきまえていない。
けど……、と志具。彼女はいったい何者なんだろうか?
片眼鏡の男曰く、『ホークラックス』にはひとつの魂しか入らないはずなのに、自分以外の誰かがここにいるのは、不自然なことではないか?
そんな疑問を抱く志具。そんな彼の心を読み取ったかのように、女性の声は言葉を紡ぐ。
――魂っていうのはね、その人が生きるべき指針となるもの――目標、道標、夢というのをしまい込むための器みたいなものよ。強い願いや想いを、自分の肉体を支えるための目に見えない芯とするための土壌なの。
女性の声色は、先程とは一転、やや凛とした色を宿らせていた。
唖然とした心情である志具に、女性は言う。
――まあ、簡潔に言ってしまえば『意志』よ。自分が真だと想う道を……志を築き上げるためのね。魂を満たすための具が、『意志』なのよ。
女性のその言葉に、志具はある引っ掛かりを覚えた。
どこかで……聞いたような気が……。
どこだっただろうか、と志具は考えようとするが、女性の問いかけに、志具は思考を中断せざるをえなくなる。
――志具君。貴方は……ここから出てみたいとは思わないの?
思うさ、と志具は言う。
だけど……打開策が何もない。自分では、どうすることもできないのだ。
――本当にそう思っているの?
女性の声は少し、志具の態度にがっかりした様子だった。
女性は言葉を連ねる。
――『ホークラックス』は、魂の牢獄って言われているわ。けどね……牢獄の中で暴れまわれば、意外と鉄格子が壊れるものよ。――聞いたことない? 無実の罪で捕まった囚人が毎日、決まった時間に看守からもらった飲み水を鉄格子につけて、錆びつかせて脆くなったのを見計らって脱走した話を。
仮にその話が本当だとしても、どうしたらいいんだ。
――さっき言ったでしょ? 魂は『意志』をしまう器のようなものだって。器にしまい込んでいるそれを使いなさい。
意志を?
――ええ。貴方がもつ巨大な意志を巨剣として、鉄格子を叩き壊してやりなさい。
意志。巨大な意志……。
巨剣。巨大な剣……。
意志をもって大剣を錬成し、
牢獄を――――破壊する!
瞬間、暗闇を一瞬のうちにかき消すほどの、青白い閃光が迸った。
どこから? どこからこの光は出ているんだ?
わからない。少なくとも志具の視界には、その光源は見つからなかった。
そんな戸惑いの様子を見せる彼に、女性は微笑みながら言った。
――幸せの青い鳥って知ってる?
聞いたことはある。だが、それがなんだっていうのだろうか?
――ふふ、ならいいわ。
可笑しいとばかりの女性の声色。それはどことなく、小馬鹿にしているような、旅立つ鳥を見守るような、そんな調子も滲んでいた。
――さあ、志具君。その光で――――牢獄から解き放たれなさい!
女性の声とともに、志具の視界が青白い光で一色に染まる。
最初とはまるで真逆である、視界を染める色。しかしそれをかまっている暇はない。
――私の意志は……貴方の心の中で生きるわ。傍で、見守りたいものね。
その言葉が女性の最後のものとなった。
志具は、何かに引っ張られる感覚を得る。何かが……自分を呼んでいる……!
そして確信した。――自分は、『ホークラックス』から解放されるのだと。
その喜びを抱くと同時、女性の声のことを思い出す。
姿は一切見えなかった。
だけど……何かが心に引っ掛かった。その引っ掛かりは、初めは漠然としていたものだったが、今ではまるで、心にこびりついたように離れていないようだった。
初めはシールのように張り付いていた妙な感じは、やがて心に浸透していった。そのことに不快な感じはなく、むしろ心地よかった。たとえれば、欠けていたパズルのピースがひとつ、当てはまったかのような……そんな快感。
――彼女はいったい、誰だったのだろうか……?
いくら悩んでもわからない。
ただ……なんとも言えない郷愁を、心のどこかで感じていた。
魂が……肉体に宿ろうとする感覚。それはまるで、剣が元の鞘に戻るような安心があった。
その感覚の中で、志具はふと思い出した。
そういえば、どうしてあの人は、私の名前を知っていたのだろうか、と――――。




