第11話 悪魔の囁き
そこは、清潔感溢れる、白い部屋だった。
壁紙や天井が一切、混ざり気のない純潔な白。部屋にはベッドがあり、そこには志具が眠っていた。
白い掛け布団からはみ出した脚には、痛々しい包帯が巻かれていた。そんな彼を、ベッドを囲んで暗澹とした表情で見つめるななせと菜乃とマリア。
ここはエデンにある病院――研・ジーニアス総合病院だ。内科、外科、眼科、脳神経科、精神科……と、様々な分野があり、ユーザーのニーズにしっかりと答えてくれる。実際、この病院で務める医者は、その筋では有名な人たちばかりであり、腕も確かだ。そのため、エデンの外からも、この病院に通院する者もいるほどだ。
病院の敷地も非常に広い。エデンの西部にあるその総合病院は、西地区の8割を敷地に占めている。それだけ巨大なのには理由がある。
まず、エデンで病院と呼べるような場所は、ここしかない。ゆえに、いくらでも急病人を受け入れられるように建物を巨大にしているのだ。
それともうひとつは、実験施設も兼ねているためだ。実験施設は病院棟とはやや隔離された場所に位置しており、また実験と言っても、ここで取り扱っているのは主に、将来的に医療に応用できるものに限られている。そうでないものは、ここでは研究ができない。ゆえに、ここの病院は、他に類を見ないほどに広大な敷地面積を誇っているのだ。
志具はあの後、救急車に運ばれて、ここまでやってきた。その際、ななせも同乗した。菜乃とマリアへは、メールで病院の場所を伝えた。
幸いともいうべきか、志具の怪我は脚だけであり、頭の中や身体中の骨は、折れてもいないしヒビも入っていなかった。それを聞いたななせたちは、ほっと胸を撫で下ろした。
ただ、この病院に来る際、ななせは警察の人間に聴取を受けた。ななせも、それは覚悟の上だったので、彼らにありのままを話した。警官は聴取をする際、手になにかスマートフォンのような機械を手に持ち、そのアンテナ部分をななせに向けながら聴取をしていた。
ななせがひとしきり話し終え、警官はスマホのような機械の画面をじっと見やると、「ご協力、感謝します」と敬礼をし、病院代はすべてエデン側で負担することを伝え、その場を立ち去った。どうやら今回の事件は、エデン側に非があるということで片付けられる模様。その上、志具に割り当てられた病室は個室だった。ななせの言葉を鵜呑みにしたのも、おそらくはあのスマホのような機械が、嘘発見器のような役割を担っていたのだろう。そうでなければ、口頭だけで信じてもらえるわけがない、とななせ。なんにせよ、面倒に事が肥大化しなくてよかった……。
――……いや。もう十分に面倒事か……。
と、ななせ。
彼女の視線の先には、眠りについている志具の姿があった。
重苦しい沈黙。ただただ、穢れを知らない白の内装がうらめしい。病院の建物がなぜ白なのか、看護婦や医者の着る服は白が多いのか……。それは、白という色には「誠実」という意味があるらしく、それを患者に色として視覚的にかつ無意識的に訴えるためなのだという。そうして、その誠実さを感じ取った患者は、不思議と安心を感じるとのこと。
しかし……、とななせ。彼女にしてみれば、シミひとつない白の景色なんて、ただただ不気味にしか思えなかった。人間、こんなに澄み切った心をしているわけがないではないか。たとえ白は白でも、コーヒーのシミ程度の汚れがあったほうが、よほど安心できるというものだ。患者にしても、見舞いに来た人にとっても……。
あまりに完成されきった清潔さは、かえって毒だろう。――ななせは、そう思う。
「……志具君、大丈夫かな……」
鉛のように重たい言葉を、マリアが心のうちにとどめておけずに口から漏らした。その声色はひどく沈んでいる。どこか危うい感じを抱かせる……そんな顔をしていた。
「お医者様は、怪我は命にかかわるほどのものではないとおっしゃっていました。ちゃんと傷も塞ぎましたし、大丈夫ですよ」
菜乃がやんわりとした声で答える。それはどこか、母親が不安を抱いている子供を慰めているかのようだった。
「そうかな……?」
「ああ。大丈夫さ。こいつがそう簡単にやられるわけがないだろ?」
「で、でも……」
ななせの言葉に、マリアはまだ不安を拭いきれない様子。なので、ななせは、
「なんだ? あたしよりも付き合いが長いのに、こいつのことを信じられないのか?」
「そ、そんなことはないよ。……でも……」
でも? とななせはマリアの言葉を待つ。
「…………志具君。最近、女の人にだらしがないし……」
マリアのその一言に、ななせは目を丸くさせる。だが、当人はひどく気にしているようだ。どうやら、志具のことを信じきれない要因はそこにあるらしい。はっきりいって、今のこの状況とは、あまり接点がないように感じられるが……。
ななせはつかつかとマリアに歩み寄り、彼女の肩をポン、と叩く。
俯いていたマリアの顔が、ななせと向かい合う。
その上で、ななせは一言。
「――諦めろ」
「そんなっ⁉ そこは『そんなことない』って慰めるところじゃないの⁉」
想定外の言葉に、マリアは愕然とする。
「おお、そうだったな。では……ゴホン。――ソンナコトナイヨ?」
「いまさら言ってももう遅いよ! あと、なんで片言⁉ どうして最後に疑問符がついてるの⁉」
「気にするな」
「気にするよ!」
「ちなみにこの返答は、お前の『志具君。最近、女の人にだらしがないし……』のものにもなるとは思わないか?」
「思うよ! 思うけど今は関係ないよね?」
ふふ……、と二人の耳に微笑みが聞こえてきた。見れば菜乃が、にこにことななせとマリアを見つめていた。
マリアの顔が、みるみるうちに赤くなる。年甲斐もなく、病室で言い争っていることを、恥ずかしく思ったのだろう。
「……ぅるさいぞ……」
ぼそりと、蚊の鳴くような声。女性陣の視線が、一斉にそちらに向けられた。
騒々しさに鬱陶しげに、志具の顔がしかめられていた。閉じていた瞼が、ゆっくりと開かれる。
「志具君……」
マリアの声色に艶が戻る。その声に反応し、志具は彼女を見る。
「あれ、マリア……。……ここは……?」
ついで志具の視線が、部屋の中を泳ぎ回る。自分の今、置かれている状況がわかっていない様子だった。
彼が居場所を察する前に、菜乃が答える。
「病院ですよ」
「びょう、いん……?」
どうして自分がこんなところに? と言いたげな顔だ。
「ショッピングモールで何が起きたか、憶えていないのか?」
こういう場合、曖昧な言葉よりも、単刀直入な言葉を突き付けたほうがいい刺激になる。ななせはそう思い、志具にそんな質問をぶつけた。
ショッピングモール……、と志具は遠くを見るような目になる。ぼうっと天井を見つめていたその瞳に、徐々に色が宿っていく。
「……思い出したか?」
ななせのその言葉には、やや緊張が含まれていた。
しばらくの沈黙の後、「……ああ」と志具は頷いた。あの現場から想像がついていたが、やはりよくない話のようだ。
さて、どうしようか……、とななせはちらりとマリアを見やる。志具の体験したものは、マリアには聞かれてはならないものだ。だが、自分がマリアに部屋を少し出ていてくれないか、と頼んでも、おそらくは聞き入れてくれないだろう。彼女だって、志具のことが心配だったのだから……。彼のことになると、マリアは筋を曲げずに強い意志をもって対峙するような人柄だ。
――それだけ志具のことが……。
志具とマリアの交流がどれほど長いのか、ななせは詳しくは知らない。……が、志具はとにかくとして、マリアのほうを見ていれば、それなりの年月の交流がなされていることは容易に想像がつく。どれだけマリアが、志具のことを想っているのかも……。
――……まったく、この朴念仁が……。
「……? どうしたんだ?」
志具がやや驚いたような顔で、ななせを見ていた。それでななせは、自分が険悪な表情になっていたことに気づく。
「……なんでもない」
「……? そ、そうか」
ななせの迫力に押され、志具はそれ以上、突っ込んでこようとはしない。それでよかった気もするが、どこか心の中に靄のようなわだかまりを覚えた。
――……と、そんなことよりも。
ななせは本題から筋が逸れているのを感じ、考えをリセットする。今は、志具から詳細な話を聞くためにも、マリアをここから出すことを考えるのが先決だ。
先程も感じた通り、自分から言ってもマリアは聞き入れてくれないだろう。同様の理由で、菜乃も駄目だ。
――……となると。
ちらりと、ななせの視線が志具に再び向く。自分でもわかっていた。彼を見やる眼差しが、ジトッとしたものであることを。
――……仕方ない。この朴念仁に頼るしかないな。
ななせは身を屈ませ、志具の耳元で小声で話す。
(志具。悪いがマリアに、部屋から少し出ているように言ってくれないか?)
(どうしてだ?)
(お前の話を聞くためだ)
(……わかった。――だが、どうして私なのだ? 君が言ってもいいのではないか?)
志具の言葉を聞き、ななせは自然な動作で彼の耳を力の限り引っ張った。
「いたたたたたた……! な、なにを――」
「うるさい」
ななせ自身も驚くほどの冷たい声。自分でもこんな声を出せるのだな、と新しい自分を発見した。
慌ててマリアが仲裁に入る。
「ち、ちょっとななせさん! いきなり暴力は駄目だよ!」
「いきなりじゃないさ。今までたまりにたまった鬱憤を晴らしていただけだ」
「……なんだ、それは?」
「自分で考えろ」
恨めし気に訊く志具に、ななせはつっけんどんな返事をする。ついでに視線で「早くしろ」と促す。
志具は、そんなななせの言動に納得がいかない様子ながらも、渋々ながらに応じてみせる。
「――マリア。ひとつ、頼みがあるのだが」
「な、なにかな? 志具君。――ま、まさか……ここは病院だから、ナースプレイとか、そんなのをご所望で⁉」
「は?」
「そ、そんな……。で、でも、志具君がどうしてもやりたいっていうのなら……わたし……ナース服、借りてきます!」
「ち、違う! なにを血迷っているんだ、君は! 私はそんなことを頼みたいのではない!」
本能的によからぬことが起きると感じたらしい志具は、すぐさま制止をかける。
「え? 違うの?」
きょとんとするマリア。
「私にはそんな君の反応が本心とは違うものだと信じたいものだが……まあいい」
ななせとしては、もう少し二人の漫才を見てみたかった気もするが、そうなるといつまで経っても本題に入らないので、口は挟まない。
「マリア、悪いが少し……部屋を出ていてくれないか?」
「部屋をって……ここを?」
ああ、と志具は頷く。
マリアはななせと菜乃を見る。
「……ななせさんと、菜乃さんは?」
「そ、それは……」
言いよどむ志具。ちらっと、ななせに視線で助け船を求む。
そこまでは考えていなかったか……、とななせ。
仕方ない、とななせは口を開く。
「違う違う。志具は、自分が目を覚ましたから担当医を呼んできてくれって言っているんだ。退院するにも、医師の許可がいるからな」
「……そうなの?」
マリアは志具に視線を向ける。
「そ、そうなんだ。だから、呼んできてくれないか?」
平静を装う志具だが、語調に不備があった。
マリアは、やや疑心気味な眼差しを志具に向ける。もう少しポーカーフェイスになってくれないものか、とななせは思う。普段はクールを装っているのに、嘘は平然とつけないようだ。正直者なのはいいとは思うが、この場合に関していえば、それがデメリットとなって働いてしまっている。
じ~っと、マリアは志具の眼を見つめていたが、やがて、「ふぅ、と息を吐くと、
「わかったよ」
微笑みを見せた。ただその笑顔は、完全に疑いを吹っ切ったというわけではないことは明らかだった。
「じゃ、お医者さんを呼んでくるから、じっとしてるんだよ、志具君。――ななせさんも、わたしがいないからって、変なことを志具君にしないでよね」
「ほう、変なこととは?」
「そ、それは……」
ななせが内容を聞くと、マリアは言いよどみ、みるみるうちに顔を紅潮させていく。
「ふふふ、マリアはむっつりスケベだな~」
「ち、違うもん! へ、変なことなんて、考えてないんだからねっ!」
そこはツンデレ台詞でいいのか? とななせは思うが、口には出さない。
「と、とにかくっ! 志具君は怪我してるんだから、負担になるようなことはしないこと! わかった?」
「わかってるって。あたしだって、その程度の分別はちゃんとつけられる女さ」
胸を張って言うななせ。
そんな彼女に、マリアはやや「大丈夫かなぁ?」と不安な様子だったが、やがて自分の中で決着をつけたのか、部屋を退室していった。
マリアが出ていった扉を、じっと見つめるななせ。だがそれは、彼女だけではなかったようだ。
「……悪いことをしたな」
志具がぽつりと、そんな言葉を漏らす。嘘をついたことに、彼なりに罪悪感を覚えているようだ。
そんな志具に、ななせは言ってやる。
「そういうのは、悪いとは思うんだな」
「……? どういうことだ?」
ここまで来ると、わざとではなくて本心なんだな、ということが否応にもわかる。天然というのは怖い。
「なんでもない」
考えが行き届いていない志具に向かって、ななせは言った。それよりも先に、聞くべきことがある。優先順位を間違ってはいけない。
「じゃ、早速話してくれるか? 志具」
ななせは話を切り出す。マリアがいつ戻ってくるのかわからない以上、琴は迅速に行う必要があった。
志具もそれを察しているのか、眉を引き締め、「わかった」と頷くと、あの場で起きた出来事を話し始めるのだった。
――◆――◆――
マリアは個室を出ると、主治医を呼びに最寄りのナースセンターまで向かう。そこで看護婦の人に言えば、医師の暇が取れ次第、志具のもとに来てくれるはずだ。
時間にして五分……いや、三分と経たない程度の簡単なミッションだ。だが、それでもマリアは、わざと時間をかける必要があると感じていた。
否が応にもわかってしまう。彼は今、早く自分が戻ってくるのを嫌がっていることが。
……いや、彼だけではない。ななせや菜乃もだ。三人は、自分に知られてはいけないことを話すつもりなのだ。どうして自分に聞かれてはいけないのか、マリアにはわからなかったが……。
――……それだけに、……嫌だな……。
今まで近くにいてくれた人が、急に遠くに行ってしまったかのような感覚。身体は近い場所にいるのに、心は途方もないほど距離が離れてしまっている……嫌な感覚。それは決して、錯覚などではなかった。
それは結局のところ、マリア自身の不安からきているものだった。彼女の過去の出来事が、今の彼女の足首に枷としてはめこまれ、彼が先へと進んでいくのを、ただ見ていることしかできない状況にしていた。
そして、そんな彼の近くには、自分ではなく……。
――……ななせさんや、菜乃さんがいる…………。
ズキン、と胸が痛くなる。理由は明白だった。
――わたしは……ななせさんたちを嫉妬してるんだ……。
自分がいつまでも踏み切れずにいた彼との距離感を、溝を、彼女は平然と飛び越え、縮めている。それがとてつもなく、羨ましかった。
でも、それもこれも、自分がもたもたと、何もしないまま見ていることしかできなかったのが悪いのだ。自分がもっと早く手を打っていれば、ここまで気持ちをもやもやとさせることはなかっただろうに……。
しかも……、とマリア。志具とななせたちは、彼らだけでしか共有できないなにかを持っている。
自分にはそんなものはない……。繋がりが……彼との接点が、とてつもなく希薄なものに感じられた。
十年ほども想い続けていたこの気持ちは、いったい何なのだろうか、とマリアは思う。自分が馬鹿みたいだ、と。
ピエロを演じざるを得ない状況に、追い込まれている自分が、たまらなく嫌だった。
では、いまからこっそりと、聞き耳でも立てようか? あの三人が何を話しているのか、盗み聞きでもしちゃおうかな?
そんな黒い考えが浮かび上がる。……が、マリアは首を左右に振り、その考えを振り切った。
できるはずがない。そんな……あの人たちを裏切るようなこと……。
そんなことをしてしまえば、自分はきっと、自分自身を赦せなくなってしまうだろう。
気づけば、歩みは止まっていた。ただでさえ遅かった歩みが、完全に。
マリアは、こうすることで時間稼ぎをすることを決めた。どれだけ話が長くなるのかしらないが、十五分も待てばさすがに終わるだろう。それまでずっと、ここで待ちぼうけしていることにしよう、と。
そう決意した。……決めたはずなのに、心はチクチクと痛んだ。
割り切れない自分が、マリアは疎ましく思った。行動と考えが不一致な自分が、嫌だった……。
「――お嬢さん。こんなところでなにしてるんだ?」
不意に、男の人の声がした。それは自分に向けられているものだと、マリアは気づき、顔を上げる。
そこにいたのは、自分よりも年上と思われる男の人だった。
歳は……十八くらいだろうか。高身長で黒髪、切れ長の目、そしてどこか軍服を思わせる黒を基調にした服装。全体的に野性的な野暮ったさを感じさせるその青年は、マリアをじっと見つめていた。
「……貴方は……?」
自分がぼうっとしていたせいだろうか。彼が接近してくることに全く気付けなかった。見れば、自分と青年以外、廊下には人っ子ひとりいないことに、マリアは今さらながら気づいた。
「俺のことなんざどうでもいいだろ? それよりも……ずいぶんと沈んだ顔をしていたが、どうしたんだ?」
口の端を緩め、青年は訊いてくる。見た目だけではなく、口調にも粗雑さが滲んでいた。志具とは対極の人間のようだった。……もっとも、そんな感想を抱くのもマリア自身、男性との交流がほとんどないこが理由に挙げられるのだが……。
「……話すことなんてありません」
実際、見ず知らずの人間に身の上話を聞かせる道理はなかった。マリアはそう言うと、青年から逃げるようにその場を立ち去ろうとする。
「――恋する乙女っていうのは、忙しいもんなんだな」
ドクン、と心臓の鼓動が一段と高鳴った。
マリアは反射的に振り返る。
「へっ。やっぱりそうか」
「……どうして……?」
わかったの?
そんなに自分はわかりやすいのだろうか? と、マリア。しかし、赤の他人にいきなり見破られるなんて、にわかには想像できなかった。
それに、マリアは直感していた。目の前の青年は、決して当てずっぽうで言ったわけではないことに。まるで最初から知っていた、といわんばかりの態度であることに。言うなれば先程の青年の言葉は、ちょっとした確認のためのものであろう。
「そりゃあわかるさ。あいつの身の周辺のことはリサーチ済みだからな」
「あいつ?」
「王様さんの」
あっけらかんと答える青年。だが、「王様さん」と言われたところで、何を言っているのかマリアには見当がつかなかった。
だが、青年の言っている「あいつ」の指している人間が誰なのか、マリアは直感で察した。
「……貴方――」
と言葉を紡ごうとしたマリアの口を、青年が人差し指で閉じさせる。
「おっと。変な詮索はしないほうが身のためだぜ? 同様に、ここで騒ぎ散らすのもな。それと、俺と会ったことはあいつらには内緒だ」
あいつら。志具だけではなく、ななせや菜乃のこともどうやらこの青年は知っているらしい。だが、そんなこと知ったことではない。今すぐにでも青年の指を払いのけ、助けを呼びたかった。不審者がいます、と。
しかし……それは禁じ手のような気がした。それをしたが最後、なにかよからぬことが自分の身に降りかかる。――そんな気がしたのだ。
逡巡を見せるマリア。そんな彼女に、青年は留めとばかりにもうひと押しを加える。
「もしそれを約束してくれるのなら……お前の知りたいことを教えてやってもいいぜ?」
「――⁉」
「あいつに関してのこと……知りたいんじゃねーのか?」
それは、悪魔の囁き。甘く、魅力的な……蜜。
だがそれは同時に、越えてはならない一線のような気がした。踏み出してはいけない一線。
マリアの瞳の奥にある意志が、揺らぐ。踏み越えたいという気持ちと、否という気持ちがせめぎ合う。
「…………っ」
マリアは無言で、青年の指を払いのけ、彼から離れようとする。
そんな彼女の背に向かって放たれる、青年の一言。
「ここで退いたら、お前は一生、あいつに近づくことはできねーぞ」
それは、今までの青年の口調とは、明らかに違っていた。軽薄な色は失せ、鋭い刃物のような、真摯な一撃。
言葉はひとつの弾丸となって、マリアの心を直撃した。
マリアの足が止まる。その足は震えていた。彼女の中にある躊躇いが、そうさせていた。
震え、その場で止まっていたマリアの身体が、青年に振り替える。
それは青年の話に乗るという、マリアの意思表示だった。
青年はふっと口元を緩める。それは相手を貶めてやろうというよりは、彼女のことを試そうとしているような微笑だった。もっとも、そのことに今のマリアは気づけなかった。
話を聞く意志があることを認めた青年は、口を開いた。
「今夜、お前さんの友達の動向を探ってみな。お前の知りたいことがあるだろうぜ」
え? とマリア。それは自分の予想していた言葉と違っていた。
マリアが文句を言おうとしたとき、青年の言葉は続いた。
「人の口から聞くよりは、自分の目で見たほうが信憑性があるだろ? ――もっとも、それを見る覚悟がお前さんにあるのか、疑わしいがな」
挑戦的な笑みを向ける青年。ここでようやく、マリアは自分が試されているということを察した。
「じゃあな、お嬢さん。どうするのか、最終的な判断はてめえで決めな」
それだけ言うと、青年はマリアに背を向け、廊下の角へと消えていった。
ひとり取り残されるマリア。先程のはなんだったのだろうと、時間を置いて冷えた頭で考えてみる。……が、答えは見つからなかった。
「……あ、そうだ。お医者さんを呼ばないと」
志具に頼まれたことを思い出し、マリアはナースセンターに向かうことにした。




