第1話 変わった日常
カーテンの隙間から差し込む朝の陽光で、真道志具は薄らと瞼を開けた。開けた際、光が眩しくて目を一瞬細めたが、後に慣れて視界が良好となる。
「朝か……」
ぼそりと呟く志具。
今日もまた、騒々しい一日が始まるのか……。
そう思うと、気持ちがげんなりと沈む。少し前まで、静かで平穏な毎日を過ごしていた彼にとって、ここしばらくで変化した日常は、精神的についていけていなかった。
町で起きていた連続辻斬り事件。その犯人が自分のことを慕ってくれていた後輩だったのは、少なからず志具の中では衝撃的なことだった。
事件を解決して以来、後輩――玖珂なずなとは会っていない。心配になって一度、彼女のクラスまで行ったことがあるのだが、クラスメイトの話では、ここのところずっと休んでいるらしい。……まあ、事件が起きてまだ一ヶ月どころか一週間程度しか経っていないから、当然と言えば当然か。あれだけの騒動を起こしたのだ。反省する点もあるだろうし、なにより、自分たちに会いに行きづらいのかもしれない。
だが志具自身も、その環境の変化に慣れようとがんばっているほうだ。
両親が行方不明と知り、町で起きていた事件を解決した志具は、本格的に魔術師たちの世界に足を踏み入れようと決意した。理由は色々ある。そうすることで両親の行方を掴めるかもしれないという期待や、自分が狙われているとわかった以上、なにもせずにいることがたまらなく嫌だったということ……。
……いや、違う。一番の理由はたぶん、魔術師になることで見えてくる未来に、期待があったからだ。そこにいれば、新たな何かを見つけ出すことができるのではないかと、そういう期待が……。
……と、いつまでもこうして寝ているわけにもいかない。思った志具は身体を起こそうとした――そのときだった。
――……ん?
なにか、視線を感じた。
視線が自分に向かって突き刺さっている。
誰の視線だ? ここは自分の部屋。自分ひとりの場所だ。視線を感じることなどないはずなのだが……。
恐る恐る志具は、首を横に向けた。
「――よっ」
目と目が合った。
なぜか自分の隣には、少女がひとりいた。
朝日によって眩しく輝く明るい茶髪、快活で小悪魔的な意地悪い光を宿した瞳、整った容姿……。はっきりいって、美少女だった。
その美少女は志具と目が合うや否や、相好を崩し、声をかけてきた。
思考停止。突然のアクシデントに志具の頭は追いつかなかった。
やがて凍結した思考が、徐々に回転し始める。そうなることで、現状が徐々に把握できてきた。
万条院ななせ。志具を護るために家に押し入ってきた、志具の許嫁を自称する少女だ。
布団が少しめくり上がっていたのでわかったのだが、ななせの衣類は乱れていた。はだけているせいで、ななせの健康的な眩しいやわ肌が、志具の目に入ってくる。なんというか……魅力的だった。
……と、見入っている場合ではない!
「――ちょっ!? どうしてここに!」
仰天した志具は、飛び上がるように身体を起きあがらせ、かけ布団をななせにかぶせる。……が、ななせはその布団を足元に追いやり、志具に接近する。
「どうしてとは失礼だな。昨日、あんなに愛し合った仲だというのに」
蠱惑的に胸元を強調するななせ。下着を着けていないのか、はちきれんばかりのばかりの胸が、志具を誘惑する。胸元を自発的に見せつけているのに、頬を紅潮させているのが、なんともななせの魅力を増大させていた。
――夜の間に何かやったのか、私は?
混乱する志具。……が、てんで心当たりがない。
混乱しているのをいいことに、ななせはさらに言葉を紡ぐ。
「昨晩のお前は本当に逞しかったぞ。普段のお前からは想像がつかないほどに野性的で本能に忠実で……。――いやぁ~、普段理性的な人ほど、ベッドの上ではああなるものなんだなぁ~」
「そんなことやっていない!」
「本当に?」
そう訊かれると、一瞬躊躇してしまう。本当に自分は何にもしていないのだろうか、と。
だが、ななせの瞳の奥の悪戯な光を、志具は見逃さなかった。
「本当にだ! ――と、とにかく万条院! 早く服を整えろ! 異性にそんなあられもない姿をさらして、恥ずかしくないのか?」
「だって将来夫になる人だからな、志具は。こういったサービスを、今のうちにしておくのも、許婚の務めというものさ」
「恥ずかしがっていただろ!」
「それは仕方ないだろ。あたしだって、誰それかまわず見せるわけじゃないんだからな。お前は特別だ。と・く・べ・つ」
そう言って胸を突っ張って志具に密着させようとする。……が、志具はそれを阻止。ななせの両肩を両手でがっちりホールドし、それ以上近づかないようにさせた。
「なんだよ~。許婚の挨拶おっぱい、触りたくないのか~?」
不満なのか、唇を尖らせるななせ。
「だから、そんなことをむやみやたらにするなと言っているのだ!」
「気にすんなってぇ~。あたしが許可してるんだ。――揉め!」
ななせは不意に、志具の片手を掴むと、それをおもむろに自身の胸に押し当てた。
「なっ――!?」
唐突の行動に、志具は回避行動がとれなかった。彼の手のひらに、柔らかい感触……。
――うわっ、柔らかい…………。
程よい弾力、吸いつくような感触。どんな高級な枕や布団も、この柔らかさ、ふわふわさには叶うまい。
思わず二、三度揉んでしまう。……が、すぐに我に返った志具は、すぐさま手を引っ込める。
女性の胸を無遠慮に障ってしまったということから、恥ずかしさで顔を赤く染める。
そんな志具の様子を見て、満足そうに白い歯を見せて笑顔を見せるななせ。
「どうだ? 感想は?」
「ノーコメントだっ!」
からかい気味に訊いてくるななせに、志具はぶっきらぼうな言葉を返した。それで十分なのか、ななせは「キシシ……」と笑うと乱れた服装を整えた。
「それで、君はどうして私の部屋に来たんだ?」
このままでは彼女のペースに呑みこまれてしまうと感じた志具は、とっとと用件を訊く。
「おっと、そうだそうだ。そういえば朝立ちを確認するために来たんだよ」
ジトッとした目の志具。本人は無意識だったが、その瞳には冷たい殺気が立っていた。
「いい加減、怒っていいか?」
「冗談だって、冗談。…………二割ほどだけど」
「残りの八割は本気ってことではないか!」
あはははははは…………!
愉快そうに笑うななせ。対して志具のテンションは、反比例するかのように減退の一途を辿っていた。
「まあ、それはそれとして志具。朝食の準備ができてるから、早く着替えて降りてこいよ」
十分からかって楽しんだのか、やがてななせはそう一言言い残すと、志具の部屋から退室していった。
ななせが出ていき、静まり返った部屋で、志具は「はぁ~」と深いため息。
一晩寝てなくなったはずの疲れが、先程のやり取りで全部戻ったかのような気分だった。
――◆――◆――◆――
「どうしたの、志具君」
登校し、自分の席に着き大きく息を吐いていた志具。そんな彼に言葉をかけたのは、マリアだった。
艶やかな金髪、穏やかさが現れている瞳に、日本人離れした綺麗な顔立ち。
大導寺マリア。初等部からの付き合いで、志具にとって幼馴染と言える存在だ。
そのこともあってか、マリアは志具の心の機微を敏感に感じ取っている。……まあ、今回の場合は、身近に付き添っていなくとも志具の様子がおかしいことは、誰が見ても明白なわけだが。それほどまでに、志具はげんなりとした様子を、表に出していたのだ。なまじ志具は普段、感情をストレートに出そうとしないので、なおさらのこと目立つのだ。
幼馴染みの温情に満ちた言葉に、志具は言葉を紡ぐ。
「いや……。まあ、色々あってな……」
その言葉に、マリアは「ああ……」とどこか納得した様子。彼女も、志具の苦労がどれほどのものか、おおよそ察しているのだ。すべてを言わずとも、こうして通じてくれるのは、なんともありがたい。
「……ま、まあ志具君。そんなに気を落とさないでっ。わたしにできることがあるなら、なんでもしてあげるから!」
「……ありがとう。その気持ちだけでもうれしいよ」
マリアの心遣いに、志具は微笑みを浮かべる。もっとも、その微笑みはなんとも力強さがなく、風が吹けば飛んでいきそうなほどの儚さがあったのだが……。
「それにしても、志具君がこんなにもうなだれるだなんて……。いったい何があったんだろ……」
と、マリアは考え始める。正直、あまり深入りしてほしくないことなんだが……、と志具は思うが、マリアのそんな献身的なところは、素直にありがたかった。
「おっ、マリア」
と、そんなところに、先程までどこかに出かけていたななせと菜乃が、志具とマリアのところにやってきた。
「ななせさん。いったい志具君に何したの?」
マリアは、自分で考えるより、当事者に訊いたほうが早いという結論に達したようだ。自分たちのもとにやってきたななせに、開口一番、そのような質問を口にした。
しかし、ななせからしてみれば、唐突な質問だったので、目を丸くさせて首を傾げるばかり。
「何したって?」
「志具君、ここに来てからずっと疲れ気味だよ。ななせさんがなにかしてるんでしょ?」
マリアの険の込められた言葉に、ななせが「それは――」と答えようとしたところ、菜乃に手で制される。
「お嬢様。ここはわたしが」
と、軽くウインクする菜乃。この瞬間、志具は悟った。これはろくでもないことになるぞ、と。
志具の危機感をよそに、菜乃が開口する。
「マリア様。志具様がどうして疲れ切った様子でいられるのか、その理由が知りたいのですよね?」
うん、と頷くマリア。
すると菜乃は、みるみるうちに顔を赤らめ始めた。頬に手をあて、まるで恥じらう乙女のよう……。
「もう……マリア様。わたしとて年頃の娘なのですよ? そんなわたしに、あんなことを言わせるつもりなのですか?」
「な、なに? そんな恥ずかしがるようなことを、志具君にしたの?」
声に戸惑いを滲ませるマリア。菜乃に同調するように、マリアの頬がほんのりと赤く染まり始める。
「仕方ありませんね。マリア様がよくご理解できるように、あのときことを話しましょう」
「い、いや待て花月。ここは私が――――むぐっ!」
志具がこれ以上の騒動はごめんだとばかりに口を開いたところ、ななせに手で口を封じられる。ななせの表情は、悪戯を思いついた悪ガキのそれだった。
ななせの瞳は、小悪魔的な光を宿して、菜乃にアイコンタクトで指示する。――話を存分に盛れと。
こうなれば、あることないこと――八割九割がないことだが――をマリアに吹き込むに違いない。
ななせの手をのけようと志具はするのだが、思いのほか力が強い。同年代の男子のそれを軽く上回っているかと思うくらいに。
なるほど……。仮にもななせは、危険な裏社会で活躍する者。やわな鍛え方はしていない、ということか。あるいは、魔術的ななにかで、身体強化をはかっているのかもしれない。
こうしている間にも、菜乃はマリアにでたらめなことを吹きこんでいた。
昨晩、志具様とななせ様が熱い男と女の契りを交わした、とか。
ななせ様曰く、ベッドの上では志具様は野性的になる、とか。
今朝、ななせ様は男性特有の生理現象を治めるために、一役買った、とか。
家では二人は、蜜月の限りを尽くしている、とか。
学園にいるときの二人の態度は、ただのポーズだ、とか。
志具にしてみれば、ないことだらけの嘘八百を並べ立てていた。
こちらの騒動を察知し、聞き耳を立てていたクラスメイトーー男女問わず――が、菜乃の話を聞いて、ある者は赤面し、ある者は呆然とし、ある者は憤怒――主に男性陣から志具に向けての――の感情をあらわにしていた。
菜乃の話をじかに聞いているマリアの表情は、それはもう茹でダコすら生ぬるいとばかりに紅潮しまくっていた。時折向けられる、捨てられた子犬のような悲しい眼差しが、志具には辛い。
……い、いかん! このままでは私の平穏な学園生活が……っ。
ななせたちが来てからというもの、ガラガラと音を立てて崩れ落ちているそれが、このままでは見る影もなくなってしまうと危機感に駆られる志具。火事場の馬鹿力でななせの手を払いのけると、菜乃とマリアの間に割り込んで、マリアと面と向き合う。
「し、志具君……」
マリアは眦に涙を存分にため、今にも決壊寸前だった。
「マリア、さっきのは全部嘘だ! 嘘なんだ! 私は断じてっ、そのような行動に耽ったことはないっ!」
周りに聞こえるように、声をダイナミックに上げ、身の潔白を主張する志具。
「ほ、本当に?」
そうであってほしいと、懇願するようにマリアは訊く。志具は「本当だっ!」と語気を強くして即答した。
「そ、そうだよね。志具君、そんなこと、まだしないよね?」
まだ、というところがいささか引っかかるものがあったが、志具は首を縦に振った。するとマリアは心底よかったぁ~、とばかりに大きく息を吐いた。誤解が解けたようでなによりだ、と志具。
「そういえばななせ様。さきほどどこに行ってたのか、志具様にご報告しませんと」
「おお。そうだったな」
思い出したような調子のななせ。
……いや。「思い出した」というよりは、「思いついた」といったほうが適切か。志具は二人の瞳の奥に潜んだ不穏な光を見逃さなかった。
「実はさっき、お手洗いに行ってたんだ」
「そんなこと、いちいち報告しなくていい」
これ以上話をさせてなるものかと、志具はぶっきらぼうな言葉で遮断しようとした。……が、志具の言葉なんぞ却下とばかりに、無視された。
「それで、そのときにわかったことなんだけど……」
と、ななせは不意に頬を朱色に染め、もじもじとし始める。
普段の彼女なら、絶対にしないであろうその行動に、志具は思わずときめいてしまった。……が、すぐにかぶりを振って考えを改める。
この女に油断してはならない。油断したら最後、骨の髄までおいしくしゃぶられてしまう。
思い、次なる攻撃に身構える志具。なにも構えないよりかは幾分マシだ。
そして放たれたななせの口撃は、
「――実は私……できちゃったの……」
ピシッ…………
一瞬にして静まり返る教室。凍てつく時間。
予想を超えたダイナミックな発言に、志具の思考すらも絶対零度で凍りついた。
できちゃったの……、という言葉が、頭の中でリフレインされる。
――って、
「そんなわけあるかああああぁぁぁぁ――――!!」
志具の魂の叫び。これまでの人生の中で、一番の声量だったかもしれない。
静寂を突き破るようにして放たれたそれで、クラスメイトたちの金縛りも解けた。そして、口々に言う。
「び、びっくりしたぁ~」
「そうだよね。さすがにそんなことありえないよね。真道くん、しっかりしてるし」
「さすがに嘘だよね。……ね?」
ななせの爆弾発言はどうやら、大爆発はしなかったようだ。その多くが、ななせの言葉を偽と見抜いたものだった。
ただひとり、真に受けた人がいたが……。
「し、志具君……」
ハッと志具はマリアを見ると、彼女はぼろぼろと涙をこぼしているところだった。一時気を緩めての一撃だっただけに、ショックも大きかったのだろう。
「ま、待て、マリア! 私はなにもやっていない!」
弁明する志具。
だけどそんな言葉は、マリアには届いていない模様。身体をぷるぷるとわななかせ、
「志具君の…………ムッツリスケベ大魔王――――――――!!」
志具に背を向け、全速力で教室を出ていく、マリアであった。




