プロローグ 別れと諦め
反抗期、というものは、今の自分のような心情のことを言うのだろうか。
中学生に上がったばかりの少女――万条院ななせは、ふとそう思った。その思いは彼女の胸の内だけに留まったために、当時の彼女のこんな気持ちを知る者は、誰ひとりとしていない。ななせがそんな気持ちを抱いたときには、すでに彼女の近くには菜乃がいたが、その親友にすら打ち明けていなかった。
それは思春期特有の、親を鬱陶しく思う……ただそれだけのひと時の気の揺さぶりだったのだろうか。それとも、別の何かなのか……。それを考えたとき、今のななせにはわかる。気持ちの揺らぎなどではなく、理由あってのものだったのだと。
例えるならそれは、雪のようなもの。ゆらりゆらりと地上に降り、少しずつ、少しずつ地表を白に埋めつかせようとするようなもの。そこにある確かな温もりを、真綿で締めあげるようにじわじわとゆっくりと奪い去り、身体の芯を凍てつかせるほどの冷温を後に残す……。
父親――万条院源武は質実実直、真面目が服を着ているような人柄だ。ただ、それが行き過ぎているうえ、自我を押し通そうとする強情さがある。初めこそ、その父親の姿が勇ましいと感じていたななせだったが、歳が二ケタになり、浅識ながら人並の感情と自我をもつころになったときには、彼のそんな姿を疎ましく思うようになってきていた。
だからといって、表立って反発したことはなかった。それは、彼の言動が、強情が過ぎるにしても筋の通ったものであり、こちらが首を縦に振らざるを得ないようなことがほとんどだったためである。明確な悪だと決めつけるには、父親は実直過ぎた。ゆえにななせは、そんな父親を拒絶する心をもつ反面、どこか受け入れるような心情があった。
だがそれも、すべては消え去る。
水面に浮かぶ水泡のように。儚く、呆気なく……。
ななせが十四歳になった頃に、源武が自分の妻――沙耶を殺めたことがきっかけで。
それをななせに見られたことが原因で。
それを期に、ななせは父親と真っ向から反発した。
父親のやることなすこと、すべてが憎かった。感情というものは恐ろしいもので、一度私情が挟むと、まるで服についたシミのように消え去りにくいものだ。それこそ、二度と跡が取れなくなるほどに……。
それは一種の執着、確執というものなのだろうが、当の本人の力では、それは抑えようがないものだったりする。
――こんなところにいたくない……。
父親の息がかかっているような場所でいるのが、ななせには苦痛だった。一秒でも早く、こんな場所から逃げ出したかった。
だからだろうか。
ある日、一通の封書がななせの元に送り届けられたとき、それにななせがしがみついてみようと思ったのは……。
それはきっと、逃避。真道志具のことをダシに使った、体の良い家出だった。
真道志具。彼への第一印象は、頼りない、だった。突然の事態だったとはいえ、土蜘蛛に襲われていたときの彼の腰ぬけっぷりを思い返すと、鼻で笑いたくなるほどに無様だった。
許嫁という名目で彼の元を菜乃と一緒に訪れたななせだったが、当然、本気にはしていなかった。それは志具のほうとて同じだったと思う。過剰ともいえるスキンシップも、一種のハニートラップのようなものだった。彼の心情を、後には引けないところまで引導し、不要になったときに適当に切り捨てるつもりだった。
酷い女だ、とななせ自身でも思っている。要は、自分の保身のために、志具をモノのように扱っていたわけなのだから。一応、彼の両親には恩があるため、志具を護衛するつもりでいたが、それも上から目線での心情によるものだと、今となっては断言できる。
ただ、間違えないでほしいのは、ななせの志具の両親に対しての恩情は、紛うことなき本物だということだ。でなければ、護衛という責務すら、ななせは果たそうとしなかっただろう。
だが、そんなななせの心は、志具と月日を過ごしていくうちに変化していった。
初めの障害――玖珂なずなとの戦いで、彼は男を見せた。今思ってみると、あれはある種の無謀ともいえる言動だったが、結果としては好転した。自分の身の危険を顧みず、事態を収束させようとした志具の男気に思うところがあり、その気持ちに気づいたとき、彼と一緒にいることが苦痛に感じなくなった。
次なる難関――『エデン』での戦い。自分たちより一枚も二枚も上手の敵――七夜イザヤを相手に、彼は善戦した。離れ離れになっても発揮したその根性に、ななせは心が動かされた。志具に、背を預けてもいいと思えた。
また、自分の初めての親友――花月菜乃が悲痛な過去を思い出し、心で泣き、昏い情に引き摺り込まれていたとき、志具は彼女の光となってくれた。自分も、その光に触れてみたいと思った。
さらに、再び自分たちに戦いを挑んできた玖珂なずな。結果として彼女は、『フリーメイソン』に利用されていただけだったが、なずな自身の心の闇と、そこまで必死になる理由を知ることになった。志具はそこで、自分の後輩に道を提示した。漆黒に閉ざされた世界に、一筋の道を示してみせた。ななせも、志具に道を教えてほしかった。
思えば、志具と出会ってからの生活は、自分の望んでいた生活そのものだったのかもしれない、とななせには思えた。
平穏な日常。
屈託なく話せる友達。
肩を寄り添わせたい特別に思える人……。
それらは空元気で快郎に振る舞い続けていた自分に本物を与えてくれ、護りたいと心底から思える強さを求めるきっかけとなった。
続けていきたい、守り抜きたい幸せ。
だが――――
それらはすべて、自分の手のひらの上からすり抜けて落ちていった。
まるで細かな砂粒のように。
形のない水のように。
すくっても、隙間から零れ落ち、手のひらには何も残らない。
小さな幸せは、名残惜しく思う温かみだけを残して、消え去った。
――でも……これでよかったんだ……。
そう思うしかない。
目を瞑ると瞼の裏に、源武が志具を情け容赦なく斬り捨てた光景が再生される。瀕死の彼に、確実なとどめを刺そうと源武が近づこうとしたところを、自分は止めに入った。
自分自身の自由と引き換えに――。
掴みとれたと錯覚していた、小さな幸せを放棄することで――。
――志具は……大丈夫なのだろうか……。
かろうじて、生きているようだった自分の想い人の安否を、ななせは願う。
だが、今の彼女には、それを知る術はない。実の父親に実家に連れ戻され、外出を許されず、自分の部屋に閉じ込められている、今のななせには……。
囚われたお姫様になるなんて、思いもしなかった。むしろ自分の立場は逆だと思った。私は、無力な姫を助ける騎士なのだと。現にこれまで、そうなろうと努力してきた。
ただ……、とななせ。
お伽噺に出てくるお姫様と違い、今の自分には、外へと連れ出してくれる騎士の存在は、いないことを知っていた。




