第10話 久しぶりの邂逅
聖戦。戦力。
マリアの言ったそれらの言葉を、志具は大げさだと思っていた。ただ、誇大しているだけなのだと。
しかし、こうして会場に来た今、それらの言葉が決して誇張でないことが理解できた。
右を見る。そこには人混みがあった。
左を見る。そこには人混みがあった。
前を見る。そこには人混みがあった。
後ろを見る。そこには人混みがあった。
人、人、人、人、人…………。見渡す限り、人しか視界に入ってこない。会場は広大な面積を誇っているはずなのだが、人のほうが勝っている。人が波となって会場になだれ込み、志具は流されるままにもみくちゃにされていた。今や志具は、川の流れに逆らえない藁も同じである。
そして、溺れる者は藁をも掴む、というやつだろうか。志具の右手を固く握っている者がいた。
「マリア……っ!」
かの者の名前を呼ぶが、ゲームセンターの騒々しさをはるかに越える雑然とした中では、志具の声は蚊の鳴く声のようなものだった。
他のみんなはどこだろうか、と志具は周辺を見渡すが、ななせ、菜乃、なずなの三人の姿を確認できなかった。どうやら、完全に離れ離れになってしまったらしい。人をかき分ける余裕すらない志具は、彼女たちの無事を願うことしかできず、せめてとばかりに、マリアが固く握る手を離さないようにする。
しばらくすると気づいたのだが、どうやら人の流れは、まるで川のように決まっているらしい。初めこそ、流れに秩序がないと思っていたのだが、流されるうちにそのことがわかった。雑然とした中でも規律を乱さないところは、さすが日本人、といったところか……。
「志具君!」
ふと名前を呼ばれ、志具はマリアへと視線を移す。
「離れないでね! 離れたら、二度と出会えないから!」
「そんなに大げさなものなのか……」
そんな志具の声は、騒々しさの中へと消えていく。ここでまともな会話を成り立たせるには、基本的に叫び合うしかないようだ。
マリアは志具の手を握り締めたまま、整然と並べられている同人誌を、一冊一冊吟味し始める。本、というよりは映画のパンフレットのような厚みのものがほとんどであるが、値は一般の本屋で売られている漫画の単行本ほどはするみたいだ。値が張っているとは感じたが、考えてみれば、売っている人はみんな個人での販売だろうから、個人での印刷代から原稿代、そして利益を上げようとすれば、それだけするのも無理はないのだろう。
マリアは目につく限り、気に入った同人誌があれば片っ端から買い漁っているみたいだった。そして、代金を支払うときに気づいたのだが、彼女は巾着袋のような財布の中に、無数の五百円玉を詰め込んでいるらしい。
「ずいぶんと小銭をため込んでいたのだな」
マリアに近づき、志具はそんなことを言った。札と違って小銭は重いだろうに……、という疑問から来た言葉だった。
すると、志具のそんな意図を察したらしい。マリアは言った。
「うん。スムーズに売買を済ませるためにね、よほど値が張るもの以外は、全部小銭で済ませるんだよ」
そんな彼女の説明を聞き、志具はなるほどな、と感じた。よくよく同人誌の値段を見てみると、そのほとんどがワンコイン(五百円)で買えるものであり、仮にそうでないものであっても、千円や千五百円といった、キリのいい値段になっている。
なかなか考えられているのだな、と志具は素直に感心した。
「志具君も、欲しい本があったら買ったほうがいいよ。同人誌だから、買い時を逃したら二度と世に出ないものもあるんだから!」
熱い炎を宿した目を、マリアは志具に向け、そう言った。
忠告はありがたい。だが、生憎と志具の目を惹くような同人誌が、今のところないのが事実だった。
別に同人誌やサブカルチャーが嫌いなわけではない。マリアに勧められたアニメや漫画は、時々志具も観ることがあるくらいである。
ただ……、と志具。単純に、マリアほどのめり込んだ作品がない、というのが、実のところであった。
「……あれ? そういえば、ななせさんたちは?」
マリアはふと、今気づいたようにそんなことを言った。
今の今まで気づいていなかったことに、志具は呆れながらも、
「どうやら、はぐれてしまったらしい。まあ、帰る頃に合流できればいいとは思うけどな」
正直、志具はこの会場内で再会できるとは思っていなかった。人の集まりようを見れば、そんな諦観を抱くのも無理はないというものだ。
そうなんだ……、とマリアは少し気まずげに声のトーンを落とした。自分のことばかりに目がいって、友達を二の次にしていたことを自責しているのかもしれない……。
「……じゃあ、二人きりなんだ……」
ポツリと言ったマリアの一言。小さな声であるため、周囲の喧騒に消えるかも思われたその言葉は、不思議なくらいに志具の耳を刺激した。
うっ……、と志具は呻くと、マリアから目を逸らす。
これまでなら、マリアのそんな言葉を軽く流していたことだろう、と志具は思う。だが、どうしてだろう……。マリアのそんな言葉に、志具は甘い何かを感じた志具は、軽くあしらうことができなかった。
なぜか……? それはきっと、意識してしまっているからであろう、と志具は推測する。これまでは何とも思っていなかった幼馴染みを、友達や親友としてではなく、ひとりの異性として意識し始めたから、軽く流せなくなったのだ。
もしかして……、という気持ちが、志具の心の中にあった。
まさかな……、という気持ちも、志具の心の中にあった。
どちらが正解なのか、志具にはわからない。わからない以上、志具もこれ以上の反応ができなかった。それは、それ以上のリアクションを取ることが、相手はもちろん、他の人にも失礼だと感じているからだ。
――……? 他の人……?
と、志具は頭に引っかかりを覚える。
他の人。自分がそう思っているのは、いったい誰を指して言っていることなのだろうか。
もしかしたら、誰を指したわけでもない漠然としたものであるかもしれない。
それともまさか、一個人を指して言っているのだろうか……。
脳裏に浮かぶのは……、
「し、志具君!」
「うおっ⁉ ど、どうした?」
突然、マリアに呼ばれ、志具は思考の海に潜るのを止めた。
顔が若干熱くなるのを感じながらも、志具は彼女の言葉を待つ。
「あ、あのね……その……。もし、よかったらなんだけど…………」
もじもじと、マリアは志具の顔色を見ながら言う。
「今日は、その…………一日、わたしと一緒にいてくれる、かな?」
なるほど……、と志具。どうやらマリアは、会場内を動き回るのに付き合ってほしいらしい。
「別にかまわないぞ。私もこの会場内に詳しいわけではないからな。一緒に見て回ろうか」
志具のそんな言葉に、マリアは花開くような笑顔を見せた。
「ほ、本当にいいの?」
ああ、と志具はマリアの確認を取るような言葉に、頷いて見せた。
するとマリアは、志具の手を先程よりも強く握ると、
「それじゃ、行こう! 志具君! わたしが志具君を、オタクの世界に引きずり込んでみせるよ!」
「引きずり込むって……」
他に言いようがないものか……、と志具は呆れる。
まあ、しかし……、と志具は思う。マリアの機嫌がいいことはいいことだ、と。
手を引っ張られ、マリアに引っ張られる志具。そんな彼は、先程まで自分が何を考えていたのか、すっかり頭の片隅に追いやってしまっていたのであった。
――◆――◆――
「まいったなぁ……」
失敗した、とばかりのななせ。そんな彼女は今、コスプレスペースに来ていた。
……いや、「来ていた」という表現には語弊がある。正しくは、「流された」といういべきか……。
圧倒的な人の流れに、抗う術もないまま、ななせはひとり、コスプレエリアまで追いやられてしまっていた。
そのエリアは、他の人がまだ同人誌エリアや企業スペースに行って買い物をしているため、今は空いていた。いるとしたら、初めからコスプレ写真を撮ることを目的とした人たちと、コスプレイヤーくらいである。
台風の目、というのは少し語弊があるかもしれないが、周辺のエリアが人で密集し、この場所だけ空いていることを見てみるに、あながち全くの間違いというわけでもない。
周囲には、何かの漫画やアニメ、ゲームなどのキャラクターのコスプレをしたコスプレイヤーが、カメラをもった人たちの前で、色々とポーズをとっていた。
実を言うと、ななせはこういったサブカルチャーに触れ合う機会を得たのは、志具のもとに来てからだ。志具も、自発的にこそそういったものに触れ合うことがないのだが、あまりサブカルチャーに拒絶を感じている人ではないようで、マリアに勧められた作品を、暇を見つけてはちゃんとチェックしているのを、ななせは知っていた。それに乗るように、ななせ自身もアニメを観賞したりしていた。
彼女が実家にいるとき、サブカルチャーにほとんど触れ合うことができなかったわけは、主に父親が原因だ。元来より古いタイプの人間である父親は、ななせがアニメや漫画に興味を持つことを、快く思っていなかったのだ。
――母さんは、そこのところは寛大だったけど。
幼い頃、母親が父の目を盗んでは、ななせが興味を持っていたそういった作品を与えてくれていた。正直、そんな寛容な母親には感謝していた。
だからこそ……、とななせ。自分の妻を、自らの手で殺めた父親に対し、憤りを感じていた。
わけがあったことは、薄々理解している。父親は厳格であったが、そこから来る生真面目な気質は、曖昧でデタラメな理由で、何かしらの凶行を赦すようなものではなかったからだ。
と、ここでななせは、かぶりを左右に振り、そんな考えを振り払った。せっかくの楽しいイベントだというのに、心が沈むようなことを考える必要はどこにもない。
楽しむときはしっかりと楽しむ。それが、ななせのモットーであった。
気分を切り替え、ななせは周辺を散策することを決めた。この人の集まりだ。一度離れたら帰る時まで再会できないであろう、ということを、ななせはわかっていた。だからせめて、ひとりで堪能させてもらうことにする。
そう思い、ななせが歩み始めたときだ。
「――ななせ」
喧騒の中から、自分の名前を呼ぶ声を、ななせは確かに聞いた。と、同時に、背骨が氷柱になったかのように、急速に体が冷える。身体は冷えるというのに、頭の芯はそれに反して熱をもち始める。どうしてか? それはきっと、相手に対して抱く怒りの感情からだ。姿を確認こそしていないが、声の主は、自分が最も憤りを感じている男の声だと、ななせは即座に理解していた。
ななせは、ゆっくりと背後に振り返る。
人が往来する中、ななせと同じように立ち止り、彼女をじっと視線を向ける者がひとりいた。
場違いな黒のスーツで身を包んだ男がひとり。
忘れもしない。忘れるわけがない。なぜなら、ななせの身体には、その者の半分の血が流れているのだから。
万条院源武。
ななせの父親が、そこにいた。




