第五話
はぁはぁ……。
ぐっと家のドアノブを握ったときには完全に息が上がっていた。
パンプスで走ったものだから、靴擦れが出来た。ずくずくと鈍く痛む。
がっくりと項垂れつつ鍵を開けて部屋に入ると
「……居るし」
トナカイがコタツで伸びていた。
「あんた、何やってんの? 今日が書き入れ時じゃないの?」
やれやれと零しながら部屋に入れば、うーっと唸ってこちらを向き「腹減って死にそー」とぼやく。
「朝飯くらい用意していけよ」
「朝そんな状態だったかどうかトナカイ頭では覚えてられないみたいね」
「……腹減った」
私の嫌味もスルーみたいだ。
「ていうか、あんた朝から何も食べてないの?」
「当たり前だろ……俺トナカイだぜ?」
……着替えがないにしても部屋に一人で居るんだから、どんなポリシーがあるのが知らないが脱いで勝手に家の中のもの漁っておけば良いのに。
そんなことを躊躇するタイプには見えなかった。
「馬鹿だな……何も買ってこなかったから何もないよ……あるもので、何か作ろうか?」
確かスパゲティがあった。
ソースはレトルトの混ぜるだけのやつがあったと思う。基本、美容のために自炊するけど、それすら億劫なときの非常食だ。
「そーしろよー、腹減ったよー。なんか食わせろー」
子どもみたいに腹減ったを繰り返すトナカイに怒る気力が失せた。というか、そんな体力もう残ってない。
私は着替えることもしないで、台所に置いてある小さなダイニングテーブルの上にバッグを置いて、水を張った鍋を火にかけた。
かぽっと蓋をして、上の棚から買い置きしていたスパゲティを取り出す。
「ねぇ、どのくらい食べ、る?」
しっかりと閉まったジップロックをあけながら振り返ったら、トナカイが直ぐ傍まで来ていた。びくりと肩が跳ねてしまった。なんか恐い顔をしている。
「何?」
身体を強張らせてしまったビビリを隠すように、眉間に皺を寄せて問い掛ければ、ぽくっと蹄が頬に当たった。ひやりとして固い。上手く出来ている。
「血、出てる」
「へ? あ、あぁ、えっと、乾燥してるから、唇割れちゃったんだよ」
ごしっと手の甲で拭った後、わたわたと答えて無理矢理話を戻した。
「そんなことより、一応、あんたも雄なんでしょう? 一束じゃ足りないかな、二束くらいあれば……」
「殴られたのか?」
「まさかっ!」
「嘘吐くなよ。俺はトナカイで、神使いだ。神使いに嘘は吐けない」
いっている意味は良く分からないけれど、トナカイが真剣に怒っているのは分かった。だから否定も肯定も出来ない。
「節も赤くなってる」
なんとも答えられずに逡巡していると、そっと前脚(?)で手を掬い上げられた。いわれてみれば、確かに赤い。勢いだったから全然気が付かなかったし、じんじんするのは寒さのせいだと思った。
「女の手ってそんなに節が張ってないし、殴ったりするのに向いてないと思う」
「……そう、かもね」
自嘲的な笑いしか零れない。でも、それなら何のためにあるんだろう?
「創り出すためだ」
「え?」
「女の手は創り出すためにあるんだ。食い物だったり、織物だったり、ありとあらゆるものを創り出す。生きるために必要とされ愛されるべきものだ」
あまりにもトナカイの態度が真摯だから、笑う気にもなれなかった。
「そんな壊すことを知らない手を上げられた程度で、殴り返す男は最悪だ」
「そう、かな。そうかも、ね……」
確かにトナカイは夕べ私があれだけやっても一切やり返すことはしなかった。
まあ、やられて当然のことをしているという自覚が合ったからだと思うけど……。
「当たり前だ。男の手は、守るためにあるんだ。大切なものを守り、慈しむためにあるのに、その対象物を壊そうというのは、間違っている。頬、腫れてるじゃないか」
「ふふ、不細工に磨きが掛かって丁度良いよ」
嘲笑的な笑いがこみ上げてきて、それと同時に泣けてきた。
私、ずっと沢山頑張ってるつもりだったのに、彼の中ではずっと”不細工”だったのかもしれない。それまで何度もいってもらったはずの、可愛いとか綺麗だとかそんな褒め言葉も全てチャラにするだけの威力があった。
溢れてしまった涙を飲み込むように、きゅっと唇を噛み締めると、傷口が開いてまたじんわりと口内に血液特有の苦味のある味が広がった。
「そんなヤツのせいで泣くな」
つっと気遣わしげに蹄が頬に触れる。
くすぐったくて、これじゃ、守るのも無理なんじゃないかと思うと、なんとなく微笑ましくて口の端が緩んだ。
そのお陰で少し引っ込んだ涙のお礼をいおうと顔をあげたら、目の前にトナカイの顔があった。
「―― ……っん!、、ちょっ!」
意図せず重ねられた唇に驚いて突き放そうとしたら、尚強く唇を押し付けられる。
嫌だと、駄目だと怒って良い局面だと思う。そう思うのに、唇の上を舌先が這い、傷口をちろりと舐めると、ちりっと走る刺すような痛みにきゅっと瞳を閉じてされるままになってしまった。
押し返されないと確信したのか、押し付ける力が緩んで、角度を変えトナカイは私の唇を丁寧に舐める。
僅かな痛みと、暖かさと、くすぐったさと、どきどきで頭の中が真っ白になる。
「ふ……っ、ん…………」
カタカタカタっ!
「「っ!!」」
思わずそのキスに答えそうになったところで、火に掛けっぱなしだった鍋の蓋が暴れだし、派手な音を立てた。
「っ、あ……い、痛かったよ、な……悪ぃ……」
「え、あ。う、うぅん」
かちりと後ろ手に火を止めてお互いに顔を見ることなく、ぎこちない言葉を交わし、私は当初の作業に戻って、トナカイは、大好きになってしまったらしいコタツに戻った。
溢れてしまった分を継ぎ足して、もう一度沸かし、塩を入れて一応二束茹でた。
駄目だな、私、何を血迷っているんだろう。
確かに今日はクリスマスイブで恋人たちの憩いの日って感じだけど、いくらなんでも節操なさ過ぎるだろう。
しかも相手はトナカイだ。
……トナカイ?
本当になぜあいつは着ぐるみ、せめて頭くらい外さないんだろう。首を傾げても答えは落ちてないから、もう細かいことを気にするのはやめた。