前編
身も凍るような季節がやっと終わりを告げたと思うのに、春はもう少し先のようだ。
かたかたと外を吹く風は冷たく窓を揺らす。
「いち、にぃ……」
私は暖かい室内で、日課であるストレッチをこなしていた。
「ねぇ、ルゥ背中押して」
「んー、はいはい」
こたつの上で私のミニパソコンを弄くっていたルドルフことトナカイのルゥは、長い足を放り出して人の背中に無遠慮にどかっと乗っけた。
「ちょ、ちょっと、お、重いっ」
「押せっていったじゃん」
馬鹿トナカイっ! 足を降ろせ!
と暴れたところで、ふと「なぁ、りんりん」と声を掛けられる。あと一セットと続けながら、何? と、問い返せば手元から顔を上げた。
「なんか欲しいものない?」
「美顔器」
即答に何か問題があったのか、ルゥは間の抜けた声を出した。
「は?」
「だから、美顔器が欲しいの。丸くてころんとしたフォルムの新製品っ」
んんーっと身体を伸ばしてから「それがどうしたの?」と私もこたつの方へとずるずる寄っていく。
「お前さ、俺が折角何か買ってやろうかっていってんのに、美顔器はねーだろ、美顔器は」
「欲しいものっていうから、素直に欲しいものいったんじゃない。それの何が問題なのよ」
ぶっすーっと頬を膨らませつつ、ルゥの手元を覗き込んだ。
画面はどこかのお店のホワイトデーのプレゼント特集だ。
「え? ホワイトデーに何かくれるの?」
「お返しするもんなんだろ?」
マウスの中央をくるくると回し、画面を下げながらルゥはどこか面倒臭そうに口にしていた。
ふわふわと期待に頬が上気するのは見付からないように角度を変える。
「俺はあの日、食い物の恨みは恐ろしいと身を持って知ったんだ」
しみじみと口にするルゥに好奇がひっこみ目を眇めた。
あれはルゥが悪い。
一緒に食べようといっていたケーキを一人で全部食べてしまったのだから、天誅を受けて当然だ。
「サプライズ的なことも考えたけど、一緒に住んでるし、難しいだろ?」
「顔に面倒くさいって書いてありますけど?」
「いゃ、そんな、まさかっ!」
慌てて顔を拭っても遅い。私は小さく溜息。肩を落とした。
「いーよ、別にそんな気を使わなくても」
面倒だと思いながら贈られるプレゼントなんてこっちだって願い下げだ。
「そんな、面倒だなんて思ってねーよ? 確かにサプライズは面倒くさいと思ったけど、りんりんに何か贈るのは良いと思う。で、美顔器却下。それ以外に何かねーの? 考えて」
「はぁ? あんたいつもいるんだから私の欲しいものくらい自分で考えてよ」
ぶすっと若干ふてくされてそう告げれば、ルゥはいやいやとわざとらしく首を振り、側でパソコン画面を覗き込んでいた私の肩を引き寄せた。こっちこっちと、こたつとルゥの間に座らされて抱え込まれる。
私は抱き枕ではないのですが……。
「そう思ってさぁ、様子見てたんだけど、りんりんが欲しいなって思うもの、すげー微妙なんだよ」
「はぁ?」
私は別に物欲の固まりではないと思うから、そんなにあれが欲しいこれが欲しいと……思わなくもないか……。普通くらいは思うかな?
「新しい菜箸が欲しいなぁ、今度はビタミンカラーで揃えたい。とか、玄関マットってあった方が良いのかな? 風水的にはあった方が良いんだよね。ドットのやつがいーなぁ、とかさぁ……、なんか生活に密着しすぎじゃね? いつでも、買えよ。そのくらい」
「う」
確かに、最近欲しいと思ったものだ。
あとは、近所のお店で可愛いトイレカバーがあったのでそれも欲しいと思いつつ、急に必要じゃないよねと我慢した。
「なんかさー、恋人から貰いたいものとかないわけ?」
「そ、そんなこと急にいわれても」
基本的に尽くすタイプの私は自分から何か欲しいといったことはない。
だから本当に急にそんなこといわれても、ぽんっと思いつかない。
「うーん、うーん」
ルゥに体重を預けて、のんびりと思案する。
恋人同士、かあ……そうだなぁ。お揃いで、いやいやいや、そんなのらしくないよね。
「えー、何、りんりんペアリングがほしーの? かーわいぃ」
「―― ……」
微塵でも考えるんじゃなかった。
私は考えてしまったことを後悔しつつ「いらないよ」と口先だけで誤魔化す。そんなの通じない相手なの分かっているのに。
ぎゅうぅぅっと腕に力を込められて逃げ場をなくした。
***
ホワイトデー当日。
出勤するとどの女子社員の机の上にも沢山お菓子が載っていた。
毎年思うけど、これは男性の方が分が悪いと思う。私たちはお金も出し合ってみんなからと渡すのに、気を使って全員分買ってきてくれるのだ。
私は、可愛らしくラッピングしてあるお菓子を前にして、ルゥが喜ぶだろうなと頬が綻んでしまう。今年はロッカーの肥やしにしないでちゃんと持って帰ろう。そして、それ以上の特別なこともなく一日を平和に過ごした。
―― …… ――
「凜夏ちゃん」
帰宅準備を整えていると息を切らせて桜崎さんが戻ってきた。
「おかえりなさい」
今日は私が当番だったので、そんなに焦らなくてもちゃんと最後の一人が帰社するまで待っている。桜崎さんで最後だ。これで私も退社できる。
「遅かったですね。お疲れさまです」
「うん、ごめんね、いってから先方の要望が二転三転しちゃって、なかなかまとまらなかったんだ」
なんか疲れてるみたいだから「珈琲でも淹れましょうか?」と訪ねてみれば、良いよ良いよ、と手を振られた。
「帰り支度を整えているのに、また引き留めるのは悪いし、僕の用事は直ぐに終わるから」
まだ仕事をするつもりなのだろうか? 首を傾げた私に桜崎さんはにこりと微笑んだ。そして取り出してきたのは細長くて可愛らしくラッピングされた箱だ。
「ホワイトデーのお返し」
「え、お返しなら今朝机の上にありましたよ?」
今は紙袋の中だ。
いくつかの箱の中の一つに桜崎さんの名前があるものも合った気がする。
「それとは別だよ。あっちはみんな一緒にしたから」
「で、でも私そんなに貰えるようなことしてないしていないですよ?」
ぽんっと手の上に箱を載せられて戸惑う。
「クッキーとっても美味しかったから」
にこりと告げてくれるけれど、それはお世話になったからであって、バレンタインがどうのというわけではなかったんだけど。まだまだ困惑している私に桜崎さんは「開けてみて」と私の手を取りリボンを掴ませる。