行き倒れの美少年を拾って育てたら、数年後に「僕を捨てた責任、取ってよ」と最強の皇帝になってベッドに押し倒されました。
国境近くの小さな村で薬師として細々と生きていた私、エルサが、「国家反逆罪」という身に覚えのない罪で帝国騎士団に連行されたのは、よく晴れた春の日の午後だった。
「あの、本当に何かの間違いでは……? 私はただ、村で風邪薬や腹痛の薬を煎じていただけのしがない薬師で……」
ガタガタと揺れる豪奢な馬車の中で何度訴えても、屈強な騎士たちは「皇帝陛下からの直接の勅命である」と首を横に振るばかり。
前世は日本の保育士、今世は平民の薬師。権力闘争とは無縁の人生を送ってきた私が、なぜいきなり反逆罪に? 首を傾げているうちに、馬車は帝都の巨大な皇宮へと到着してしまった。
冷たい大理石の床。目を奪われるほどの絢爛豪華な調度品。
私が通されたのは、地下牢や尋問室ではなく、なぜか皇帝の「私室」だった。
重厚なマホガニーの扉が背後でバタンと閉ざされ、部屋には私と、窓際に立つ一人の長身の男だけが取り残される。
「……あの、皇帝陛下……でしょうか? 私、本当に反逆など企てておりません。どうか誤解を――」
「誤解なんかじゃないよ、エルサ」
窓際から響いたその声に、私はビクッと肩を揺らした。
低く、甘く、鼓膜を直接撫でるような、ひどく艶のある声。でも、その響きにはどこか聞き覚えがあった。
男が振り返る。
ステンドグラス越しの光に照らし出されたその姿を見て、私は息を呑んだ。
月光を紡いだようなプラチナブロンドの髪に、すべてを見透かすような氷柱のように冷たく美しい青い瞳。長身で、軍服の上からでもわかるほど分厚く鍛え上げられた胸板。
帝国史上最も冷酷で、最も美しいと謳われる若き皇帝。
でも、その面影は。
「シ、シエル……? 嘘、あなたが……あの、シエルなの?」
八年前。家の前で血まみれで倒れていた、ボロボロの少年。
「エルサがいないと眠れない」と夜な夜な私の服の裾を握りしめ、ウサギのように震えていた、あの儚くも愛らしい美少年。
彼が皇族の血を引いていると知り、彼の未来のために心を鬼にして「もうここには来ないで」と王宮の迎えに引き渡した、私の大切な……。
「……シエル、なのね。生きて、立派になって……」
かつての「保育士」としての庇護欲が蘇り、私が安堵の笑みを浮かべて一歩近づこうとした、その瞬間だった。
ドンッ!
「えっ……?」
一瞬の出来事だった。
シエルが長い脚で距離を詰め、私の腕を乱暴に掴むと、そのまま背後にある天蓋付きの巨大なベッドへと私を押し倒したのだ。
ふかふかの羽毛に体が沈み込む。起き上がろうとした私の上に、190センチ近い彼が巨躯を覆い被せ、逃げ場を完全に塞いだ。
「シ、シエル……? ちょっと、重い……退いてちょうだい。立派な大人の男性が、こんなこと――」
「……大人の男性?」
シエルが、ひどく冷たく、そして暗い情念を宿した瞳で私を見下ろした。
長い前髪の隙間から覗くその眼差しは、かつての庇護すべき少年のものではなく、完全に「捕食者」のそれだった。
「エルサにとっては、僕はまだ『子供』のままだった? ……あの日、僕の泣き叫ぶ声を聞きながら、冷たく背を向けて扉を閉めたあの日から、君の時間は止まってるの?」
「ち、違うわ! あれは、あなたの幸せのために……皇宮に戻るのが一番だと……」
「僕の幸せを、勝手に君が決めるな!!」
シエルの怒号に、私はビクッと体を震わせた。
彼の大きな手が、私の両首筋を這うように滑り、逃げられないように顎を固定する。
指先の体温はやけに高く、私の心臓は警鐘を鳴らすように激しく打ち始めた。
「……あの日から、僕は狂いそうだった。君に捨てられたという絶望だけで、血みどろの帝位争いを生き抜いてきた。他の兄弟を蹴落とし、手を血に染めて……この国の頂点に立てば、誰も僕から君を奪えない。君を、力ずくでこの腕の中に閉じ込められると信じて」
「シエル……あなた、何を……っ」
「反逆罪だよ、エルサ」
シエルは私の耳元に顔を寄せ、その形の良い薄い唇で、私の耳たぶを甘く食んだ。
ヒュッと息を呑む私に構わず、彼は熱に浮かされたような声で囁く。
「皇帝の心を奪い、無責任に捨てて逃げた罪。……重罪だ。一生かけて、僕のそばで償ってもらうよ」
「そ、そんな無茶苦茶な……! 私はただの平民で、あなたとは身分が……」
「身分なんて関係ない。君が嫌だと言っても無駄だよ。この国の土も、法律も、君の住んでいた村の命運すらも、すべて僕の掌の上なんだから」
彼の大きな手が、私の頬をひどく愛おしそうに撫でる。
その瞳の奥にあるのは、純粋な愛情と、それを遥かに凌駕するほどの、ドロドロに煮詰まった『執着』だった。
「ねえ、先生。……僕を捨てた責任、たっぷりと取ってよ」
彼が甘く、そして残酷に微笑んだ瞬間。
私の平穏な薬師としての人生は終わりを告げ、逃げ場のない甘く危険な鳥籠の中での日々が、幕を開けたのだった。
◆ ◆ ◆
あの日から、私は皇宮の奥深く、皇帝直属の者しか立ち入れない「離宮」に軟禁されることになった。
あてがわれた部屋は、村の私の家がまるごと十個は入りそうなほどの広さだった。床には足が沈み込むほどの最高級の絨毯が敷かれ、クローゼットには私が一生かかっても着きれないほどの豪奢なドレスが並んでいる。
食事は毎食、専属の料理長が腕を振るったフルコース。身の回りの世話は、口が堅く優秀な侍女たちがすべてやってくれる。
まさに、至れり尽くせりの黄金の鳥籠。
けれど、私の心はちっとも休まらなかった。
「シエル……お願い、私を村に帰して。薬を待っているお年寄りや、子供たちがいるのよ」
数日後。執務の合間を縫って離宮を訪れたシエルに、私は必死に懇願した。
窓際に座る彼の長い脚、軍服越しにもわかる圧倒的な存在感。昼間の彼は、氷のように冷酷で隙のない「最強の皇帝」そのものだった。
「村のことなら心配いらないよ、エルサ」
シエルは紅茶のカップを優雅に置き、ふんわりと微笑んだ。
その笑みに、背筋がゾクッとする。
「君のいた村には、帝国から莫大な助成金を下ろした。新しい診療所も建てて、優秀な宮廷薬師を三人も派遣してある。村長は泣いて喜んでいたよ。『エルサ様が皇帝陛下に見初められたおかげで、村は救われました』ってね」
「なっ……」
「ついでに、君がよく薬草を摘みに行っていた裏山も、僕の個人資産で買い取って特別保護区にした。これで、危険な魔獣が出ることもない」
シエルの言葉に、私は絶句した。
彼は私が逃げ出せないよう、ただ力で縛り付けるのではなく、私の「大切なもの」をすべて人質に……いや、莫大な恩恵で縛り上げ、外堀を完全に埋め尽くしたのだ。
もし私がここから逃げ出せば、村は皇帝の不興を買い、せっかくの助成金も診療所もすべて失うことになる。
「どうして、こんな真似を……」
「言っただろう? 君を逃がさないためなら、僕はなんだってする。権力も、財力も、すべては君をこの腕の中に閉じ込めるために手に入れたんだから」
シエルが立ち上がり、私の前でひざまずいた。
大きな手が、私の震える指先を包み込む。そして、甲に恭しく、けれどどこか狂気を孕んだ口づけを落とした。
「諦めて、僕だけのものになってよ。先生」
その甘く低い声に、私は抗う言葉を見つけられなかった。
◆ ◆ ◆
しかし、そんな恐怖と絶望に満ちた軟禁生活の中で、私を一番混乱させたのは――『夜』のシエルの姿だった。
その日の夜も、私は広い天蓋付きのベッドの端で、膝を抱えて身を縮めていた。
ガチャリ、と扉が開き、シエルが入ってくる。
昼間の威圧的な軍服を脱ぎ捨て、ゆったりとした夜着に身を包んだ彼は、無言のままベッドに上がり、私へと近づいてきた。
(何を、されるの……)
反逆罪だと言って私を押し倒した、あの日の冷たい瞳がフラッシュバックする。
私はギュッと目を瞑り、シエルの大きな手が伸びてくるのを待った。
――しかし。
次に私を包み込んだのは、乱暴な力ではなく、ひどく不器用で、すがるような温かい抱擁だった。
「……シエル?」
恐る恐る目を開けると、シエルは私の首筋に深く顔を埋め、まるで捨てられた子犬のように、私のパジャマの背中をギュッと握りしめていた。
彼の大きな体が、微かに震えている。
「……眠れないんだ」
首筋から聞こえてきたのは、昼間の冷酷な皇帝の威厳など微塵もない、泣き出しそうな少年の声だった。
「君がいなくなってから八年間……僕は一日だって、まともに眠れた夜はなかった。目を閉じれば、君が僕を置いて扉の向こうへ消えていく幻覚ばかり見て……睡眠薬を浴びるように飲んで、無理やり気絶するしかなかったんだ」
「八年、も……?」
「苦しかった……寂しかったよ、エルサ。……君の匂いがないと、僕はもう息の仕方すら分からないんだ」
すりすりと、シエルの銀糸の髪が私の頬をくすぐる。
私を強引に囲い込み、すべてを支配しているはずの最強の皇帝が、今は私の温もりだけを命綱にするように、必死にしがみついている。
そのアンバランスな脆さと、かつて私が手当てをした「傷だらけの12歳の少年」の面影が重なり――私の前世からの厄介な『保育士(お世話係)』の血が、理性を上回って騒ぎ出してしまった。
「……馬鹿ね。こんなに大きくなったのに、中身はあの頃のままじゃない」
気がつけば、私はため息をつきながら、自分よりふたまわりも大きなシエルの背中に腕を回していた。
そして、彼のサラサラとしたプラチナブロンドの髪を、昔そうしてあげていたように、優しく撫で始めた。
「よしよし。もうどこにも行かないわ。……だから、安心して眠りなさい」
「……ほんとうに?」
「ええ。私が背中をトントンしてあげるから」
私が規則正しいリズムで背中を叩いてやると、シエルの腕の力が少しだけ緩み、彼は私の胸に顔を擦り付けながら、甘く長い息を吐いた。
「……あたたかい。エルサの匂いがする……」
数分も経たないうちに、シエルの口からは規則正しい寝息が聞こえ始めた。
八年間眠れなかったという言葉が嘘のように、彼は私の腕の中で、無防備で安らかな寝顔を見せている。
(……完全に、ほだされてるじゃないの、私)
昼間は逃げ道をすべて塞ぐ恐ろしい暴君。
夜になれば、私がいなければ眠ることすらできない、愛を乞うだけの孤独な子供。
この卑怯すぎるギャップと、彼が抱え続けてきた執着の重さに、私はもう、抗う気力すら溶かされ始めていることに気づいていた。
◆ ◆ ◆
軟禁生活が始まって数ヶ月が過ぎた頃。
シエルの政敵たちが暗躍し、皇宮の奥深くに刺客を放つという事件が起きた。
その夜も、シエルは私のベッドで、私の腕を抱き枕のようにして深い眠りに耽っていた。
(カチャ……)
微かな、本当に微かな金属音が部屋の窓辺から響いた。
私は薬師としての経験から、深夜の山で獣の気配を察知することには長けている。目を凝らすと、月明かりを背にした黒装束の男が、猛毒を塗った短剣を構え、音もなくシエルの寝首を掻こうと忍び寄ってくるのが見えた。
「……っ!」
シエルを起こす暇はない。私は躊躇することなく、枕元に隠し持っていた『痺れ薬の粉包み』を掴み取った。皇宮の庭園で摘んだ薬草を密かに調合し、万が一の護身用として作っておいたものだ。
「シエルから、離れなさい!」
私は刺客の顔面めがけて、その粉を力一杯に投げつけた。
「ぐあッ!? 目が、息が……!」
粘膜を焼く強烈な刺激に、刺客が短剣を取り落とし、悶絶して床に転げ回る。
その喧騒で、ついにシエルが目を覚ました。
「エルサ……? 何事――」
状況を把握したシエルの青い瞳が、一瞬にして極寒の吹雪のように凍りついた。
「……僕の、たった一つの宝物に、お前は何をしようとした?」
シエルが指を鳴らすと、不可視の魔力の刃が刺客の四肢を瞬時に拘束し、壁へと磔にした。その凄惨で圧倒的な力は、彼が冷酷な覇王であることを嫌でも思い知らされる。
近衛騎士たちが慌ただしく踏み込んできて、刺客を引きずり出していった後。
部屋には、荒い息を吐く私と、呆然と立ち尽くすシエルだけが残された。
「エルサ……」
シエルが、震える手で私の肩に触れた。彼の顔は、刺客を見た時よりもずっと蒼白に染まっていた。
「なぜ、逃げなかったんだ。あいつの刃が君に向かっていたら……僕のせいで、君が傷ついていたら……」
最強の皇帝が、まるで迷子のように狼狽し、私の前で膝から崩れ落ちようとする。
あんなに私を逃がさないと豪語していたくせに、いざ私が危険に晒されると、途端にこんなに脆くなってしまう。
(ああ、もう。本当に……仕方ない子ね)
私は小さく溜息をつき、崩れ落ちそうになったシエルの大きな体を、正面からしっかりと抱き止めた。
「逃げるわけないでしょう。あなたが、私なしじゃ眠れないって知っているのに」
「……先生」
「それに……八年前も、今日も。傷ついたあなたを放っておけないのは、私の勝手な我儘よ。あなたに縛り付けられたからじゃない。私が、あなたを守りたかったの」
その言葉を聞いた瞬間、シエルの体がビクンと大きく跳ねた。
青い瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出し、私の肩を濡らしていく。
「……っ、エルサ……! あぁ、エルサ……っ!」
彼は私の腰にすがりつき、子供のように声を上げて泣き始めた。八年分の孤独と、私に拒絶されるかもしれないという恐怖が、完全に払拭された瞬間だった。
ひとしきり泣いた後、シエルはゆっくりと顔を上げ、濡れた睫毛の奥から、熱に浮かされたような、ひどく甘く危険な光を放つ瞳で私を見つめた。
「……君が悪いんだよ、エルサ」
「え?」
「僕の心を、またこんなにメチャクチャにして。……もう絶対に、一生、魂ごと逃がしてあげないから」
シエルの大きな手が私の後頭部を引き寄せ、重なる唇が、私の息を完全に奪い去った。
それは、夜の子供らしい甘えでもなく、皇帝としての冷徹な命令でもない。一人の男としての、強烈な情動と独占欲に満ちた、狂おしいほどの口吻だった。
「んっ……シエ、ル……」
「愛してる。……世界中のすべてを敵に回しても、君だけは僕の腕の中で、幸せに溺れさせてあげる」
押し倒されたベッドの上で、シエルの紡ぐ甘い愛撫と囁きに、私の理性はどこまでも溶かされていく。
行き倒れの美少年を拾ったあの日の選択は、どうやら間違いではなかったらしい。
ただ、彼がこれほどまでに巨大で、甘く、そして重すぎる愛を抱えた皇帝に育つことだけは、有能な薬師である私にも、全く予想できていなかったけれど。




