鐘の紐
朝の空気はまだ冷たく、セレン村の小さな礼拝堂の前には薄い靄がかかっていた。
鐘楼に吊るされた大きな鐘は、長年の風雨に晒されている。鐘そのものはまだ澄んだ音を持っていたが、鳴らすための太い紐が擦り切れ、今にも千切れそうになっていた。
イルロは、村の司祭代わりを務める老女トラヴァに呼ばれて、工房から麻縄の束を担いでやって来た。
「イルロや、この紐もとうとう寿命らしい。祭りの日に鳴らせないのは困るのさ」
彼女の声は静かで、しかし切実だった。村の祭りの日、鐘は人々を広場に呼び集める合図なのだ。
「鐘を掛け替えるのは大仕事だな。だが、新しい紐なら十分持つ」
イルロは鐘楼の梯子を登った。上から見下ろすと、村の屋根がまだ眠たげに並んでいる。
紐を外す作業は慎重だった。古い繊維は触れただけでほつれ、粉のように崩れていく。
下では子どもたちが心配そうに見上げていた。パン屋の娘ミラや、畑仕事の手伝いを終えた少年リオも混じっている。
「落ちないでよー!」
「もし落ちたら、鐘が先に鳴っちゃうぞ!」
からかう声に、イルロは梯子の上で小さく笑った。
新しい麻縄を結びつけるとき、トラヴァが下から声をかける。
「ただ強けりゃいいわけじゃない。音を呼ぶものだからね、結び目ひとつにも祈りがこもる」
イルロは静かにうなずき、結び目をきっちりと締めた。
手に縄の繊維が食い込み、掌に跡を残す。だがその痛みは、しっかりと繋がった証だった。
作業を終えると、村人たちが集まってきた。試しに鐘を鳴らしてほしいと声が上がる。
イルロは縄を握り、大きく引いた。
鐘の胴が震え、空気を震わせる深い音が村じゅうに響き渡る。
靄を裂くように澄んだその響きに、子どもたちが歓声をあげた。
「ちゃんと鳴った!」
「前より響きがいいよ!」
トラヴァは目を細め、胸の前で手を合わせた。
「これで祭りの日も、みんなが迷わず集まれる」
イルロは余計な言葉を返さず、ただ縄に残る自分の手の感触を確かめた。
鐘の音はゆっくりと空へ溶け、やがて村に静けさが戻る。
その静けさの中に、村人の安堵と笑いが混じり、セレン村の一日はまた穏やかに流れていった。




