沈まない凧
村の広場の一角、物置小屋の梁に古い凧が吊るされていた。
竹の骨組みに布を張った大きな凧で、布地はところどころ薄れて陽に透けている。
しかし破れた部分はなく、風に揺れる姿はまだ飛べそうに見えた。
「これは……まだ使えるんですか?」
凧を指さすと、通りかかった村の老人が足を止め、笑みを浮かべた。
「飛ばそうと思えば飛ぶさ。だが、もう誰も糸をつけないんだ」
「どうしてです?」
「これは“沈まない凧”だからな」
イルロは首をかしげた。老人は少し誇らしげに話し始めた。
「昔、この凧を祭りで揚げたとき、風が急に止んだんだ。
他の凧はみんな落ちてしまったのに、この凧だけは空に残っていた。
風もないのに、糸が引かれるようにふわりと浮かび続けたんだよ」
「……そんなことが」
「あの日から、村の人はこの凧を“沈まない”と呼ぶようになった。
だから、もう誰も遊びには使わず、広場に掲げて守り神みたいにしてるんだ」
イルロは凧に近づき、布をそっと撫でた。
布は薄いのにしっかりとしていて、風を孕む気配を今も持っている。
子どもたちが駆け回る広場を見渡すと、その凧が静かに見守っているように思えた。
彼は記録帳を開き、凧の形を写しながらこう記した。
「空に浮かぶものは、落ちるのが常。
それでも沈まぬ凧は、人の心を支える。
風なき空にも、なお舞う力を示す。」
記録を終えて見上げると、凧は梁から微かに揺れていた。
まるで風のない空へと、もう一度飛び出そうとしているかのように。




