手放せなかった箱
その箱は、小ぶりで何の飾りもなかった。
留め具もなく、ただ手のひらにすっと収まる木の箱。
けれど、表面にはほんのわずかに爪痕のような跡があり、
それは“開けようとしては、やめた”ような形をしていた。
ある日、工房に年配の女性がやってきた。
名はナラン。
ずっと村に住んでいたが、滅多に人前に姿を見せることのない静かな人だった。
彼女はその箱をそっと机に置いた。
「この箱を、“開けられないまま保ってほしい”のです」
イルロは少し驚いて尋ねた。
「開けないように、ですか?」
「ええ。……中に何かがあるのか、ないのか、それすら知らないのですが、
これだけは、どうしても手放せなかった。
でも最近、ふと気づいたんです。
“自分の手”より、“他人の手”の方が、この箱を穏やかに置いておけるのではないかと」
それは、“開けないまま残したい記憶”だった。
イルロは、箱をじっと見つめた。
確かに、留め具はないのに、箱は自然と閉じたまま。
木目は少しねじれていて、無理にこじ開ければ壊れてしまいそうだった。
彼は静かに言った。
「この箱には、鍵ではなく、“沈黙”が使われているんですね」
ナランは笑った。
涙をこらえるような笑いだった。
イルロは、箱をそのまま納めるための“休み台”を作った。
傾きがほんのわずかに手前にあり、見た者が“開けたくなる”ような形を、あえて避けた作り。
台の裏には薄い金属を仕込み、箱がぴたりと吸い寄せられるように収まるようにした。
完成したそれを手渡すと、ナランは深く頭を下げてこう言った。
「“しまいきれなかった想い”を、“開けずに残す”。
それを受け取ってくれる場所があるだけで、私はずいぶん軽くなります」
その日から箱は、イルロの工房の奥、誰の目にも触れにくい場所に置かれている。
開けようとする者はおらず、けれど誰もが、“そこに何かがある”ことを感じて通り過ぎていく。
「箱は、入れ物ではない。
ときにそれは、“何も触れないための守り”にもなる。」
イルロは記録帳にそう書き残し、
その横に、何も書かれていない長方形のスケッチを、ただひとつ描いた。




