木の匙と名前のない花
その週は、春にしては少し冷え込んだ。
朝靄の立ちこめる中、イルロは小さな包みを抱えて、村の薬草師ファーナの家へ向かった。包みの中には、削り上げたばかりの木の匙が六本入っている。
「煎じ薬を混ぜる匙が、金属だと味が変わる」
そう言っていたファーナに頼まれていたのだ。
ファーナの家は村のはずれ、背の高い草と石垣に囲まれていた。いつ来てもどこか落ち着かない気配がある。無駄なものは何一つなく、整いすぎていて、静けさが逆に音を立てているようだった。
扉を叩くと、ファーナが出てきた。
背は低く、黒い布の上衣をまとっていたが、その眼差しはいつも鋭く冴えている。
「おお、匙ができたか。中へ」
イルロは頷き、包みを手渡した。ファーナは一本取り出してじっと眺める。
「……節がちょうど手の中に収まるな。よく見ている」
「指の長さ、いつも薬壺を持つ位置、見ておいた」
「言葉少ないくせに、気づくのは早いのよな。助かる」
彼女は奥の作業台に匙を並べると、言った。
「ところで、“花の匙”はもう削らないのか?」
イルロは少し目を伏せた。
“花の匙”――それは、以前イルロが趣味で彫っていた匙のひとつで、持ち手に小さな花のかたちを彫り込んでいた。だが、誰にも特に求められたわけではなく、いつしか作るのをやめていた。
「……あれは、飾りすぎだと自分で思った。使いづらい」
「でも、あの匙をもらった婆さんは、“この花が咲いてるだけで粥が甘くなる”って言ってたよ」
ファーナは、冷たいような声で、けれどどこかやさしくそう言った。
「実用も大事だけどね。人の気持ちは、理屈より先に動くものだよ」
イルロは返事をせず、静かに包みの布をたたんだ。
そしてふと、彼女の家の裏に目をやる。
草むらの奥、小さな白い花が群れて咲いていた。名を知らない。けれど、風に揺れる姿が美しく、そこだけ春の音が聞こえるようだった。
「……あの花、いいな」
「名前は知らん」とファーナは言った。「でも、あれをモチーフにした匙を一本作ってみてくれないか。今度、手の届かない誰かのために使うから」
イルロはうなずいた。
理由は聞かなかった。ただ、誰かの“手の届かないところ”に、木の道具が届くなら、それは悪くないと思った。
その夜、イルロは火を灯さず、窓辺で静かに木を削った。
まだ名前のない匙。
花の名も、渡す相手も知らない。
けれど、そこにあるのは――誰かの、静かな祈りだった。




