道具が名前を得るとき
工房の壁には、名前のない道具が並んでいた。
使うために作られたが、まだ誰の手にも届いていない。
それは棚ではなく、“眠り箱”でもない。
ただ、イルロが“まだ呼ばれていないものたち”と呼ぶ場所だった。
ある日、村に引っ越してきた女性、ユリィナが工房を訪れた。
新しく始める紙細工の仕事に合わせて、小さな押し具が必要だという。
「けれど、“こういう形”って、まだ世に名前がないと思うんです」
そう言って差し出されたのは、紙の厚みと手の癖を描いた、丁寧なスケッチだった。
イルロはしばらく考え、棚の奥からひとつの道具を取り出した。
木の軸に金属の端がついた、用途不明の細工具。
「これは……何に使うものですか?」
「まだ“呼ばれたこと”がない。でも、たぶん君のために待っていた」
ユリィナはそれを手に取り、紙を一枚、そっとなぞってみた。
カーブの端にちょうどよく沿い、力をかけすぎずに折り目が入る。
その瞬間、彼女は微笑んだ。
「……この道具、名前をあげていいですか?」
「もちろん。名は、使った人の手の中で生まれる」
ユリィナはしばらく考えてから、こう言った。
「“すじびらき”。――筋を、静かにひらくから」
その日から、その道具は“すじびらき”と呼ばれるようになった。
村の中でもじわじわと広まり、やがては別の紙細工師たちにも知られるようになった。
イルロは、その名称を工房の記録帳に書き加えた。
“道具名:すじびらき 命名者:ユリィナ”
その横に、小さくこう書き添えた。
「名がつくのは、必要とされた証。
呼ばれた瞬間に、道具は“居場所”になる。」
それから工房では、ごくたまに、新しい名前が生まれた。
“音の窓”と呼ばれた箱。
“こぼれさじ”と呼ばれた深さのない匙。
“ことば挟み”と呼ばれた紙留め。
どれも誰かが“そのままでは呼べなかったもの”に、そっと名を与えた。
そして今日も、名前のない道具たちが棚で静かに待っている。
呼ばれるのを、焦らずに、ただ待っている。




