音のない挨拶
村には、あいさつを大きな声で交わす習慣がなかった。
朝にすれ違えば帽子を軽くあげるか、目を合わせてわずかに顎を引く。それが「おはようございます」の代わりだった。
イルロもまた、言葉を省く側の人間だった。
むしろ、静かに頷く方が好きだった。
言葉がなくても、木の節や道具のかたちが、人を理解してくれる気がしていた。
その朝、工房の前を通ったのは、糸紡ぎをしている老婆のシーナだった。彼女は毎朝、羊の毛を手で巻き取りながら、丘の上まで歩いていく。
「糸が絡んできた」と言っていたのを思い出し、イルロは扉の横に置いておいた小さな糸巻きを手に取った。
古いリネンの布で包み、風のない方角へと足を向ける。
シーナは、いつもの場所にいた。背筋をまっすぐ伸ばし、糸を手繰る姿はとても九十を越えているとは思えない。
彼女はイルロの姿に気づいたが、何も言わなかった。
イルロもまた、何も言わず、手にした糸巻きを差し出した。
シーナはそれを受け取ると、少し手のひらで転がし、感触を確かめるようにゆっくり頷いた。
「ありがとう」も「助かったよ」もない。けれど、それは、村でいちばん深い“挨拶”だった。
帰り道、イルロは小川のそばでしゃがみこんでいる青年を見つけた。名をソルという。彼は最近まで話すことができなかった。事故で喉を傷め、言葉がうまく出てこないのだ。
だが、彼の手には細い柳の枝と、削りかけの笛があった。
イルロは、彼の横に腰を下ろした。
ソルは気づきながらも顔を上げず、そっと笛の穴を彫っていた。
「貸してくれ」
イルロがそう言うと、ソルは驚いたように目を見開き、そしてそっと笛を手渡した。
刃の入りが甘い。削りの角度が一定でない。けれど、木の中に“音になりたい形”が、確かに眠っていた。
イルロは無言で手を動かし、ソルの笛を少しだけ整えた。そしてもう一度、彼に渡す。
ソルは目で礼を言い、笛をそっと口元に持っていく。
そして――ひと息。
鳴ったのは、わずかに震えた、柔らかな音だった。風が枝を揺らすような、淡い調べ。
イルロは、うなずいた。
ソルもまた、うなずいた。
――それだけのことだった。
音にならない挨拶が、村にはいくつもある。
それは木のかたちであり、手の動きであり、目の動きだった。
その日、工房の扉を閉めるとき、イルロは静かにひとつの言葉を心の中で繰り返していた。
「ありがとう」と言われるよりも深い何かが、この村にはある。
それを今日、自分はまた少しだけ受け取ったのだと。




