声にならない名前たち
イルロの工房には、名前のついていないものがたくさんある。
売り物でもなく、飾りでもない。
けれど、どれも捨てられずに、木箱や棚の隅で静かに待っている。
ある朝、村の語り部アディがふらりと訪れた。
手には小さな袋を提げ、少し早足で、どこかそわそわしていた。
「イルロさん……“名づけられてないもの”って、どうして取っておくんです?」
問いかけに、イルロは答えずに、しばらく黙った。
代わりに、工房の片隅にあった小さな木の塊を手渡した。
それは、丸くもなく四角でもなく、どこにも尖っておらず、ただ“そこにある”ものだった。
「……これは?」
「まだ名前が来ていない」
「来ていない?」
「道具も形も、“呼ばれたとき”が名前を決める。
まだ誰にも必要とされていないから、名乗っていないだけだ」
アディはしばらくそれを撫でていたが、やがて笑った。
「まるで、名前を持たない登場人物みたいですね。物語の最初に、まだ後ろ姿しか出てこない人」
彼女は語り部として、村の子どもや旅人に物語を届けていた。
けれど、最近は“語られないもの”のほうに、心が向いていたという。
「言葉にならない気持ちや、場面や、景色。そういうものを、どうやって“届けたらいいか”わからないまま……でも、手放せないんです」
イルロは、黙っていた。
けれど、棚からもうひとつ、小さな板を取り出した。
それは手のひらサイズで、中央に小さな穴があり、そこに細い紐が通してあった。
まるで“持たれること”を前提にしていない、控えめな存在だった。
「それも、名前は?」
「ない。けど、そっと持ち歩いていた人がいる。数日で返された。何も言わずに」
アディはそれをじっと見つめ、しばらくして小さく呟いた。
「……わたし、それを“しずまり”と呼んでもいいですか?」
「もちろん」
その言葉を聞いたとき、イルロはほんの少しだけ目を細めた。
それからというもの、アディは定期的に工房に訪れては、“声にならないもの”に名前をつけていった。
それはラベルではなく、言葉でも紙でもない。
彼女の中だけに響く名前だった。
“手にしないと伝わらない重さ”を「ほこり」
“何も削れない刃のかたち”を「くびれ」
“失くしても探されないもの”を「かけらのかけら」
それらの名前は誰にも知られない。
けれど、確かにそこに“触れた記憶”として、棚に静かに重ねられていった。
名前を持たないものには、意味がないわけではない。
名をつけられなかったのではなく、“名づける誰かが、まだ来ていなかった”だけなのだ。
そう、イルロは思っていた。




