木と名のない椅子
その朝、イルロはいつもより少し遅く工房に入った。
霧が濃く、陽の昇りが鈍かったせいだ。目覚めの紅茶の香りも、どこか眠たげだった。
工房の扉を開けると、昨日の削り屑が床にまだ散っていた。
それを箒でゆっくりと掃きながら、今日の作業を頭の中で組み立てていく。頼まれていたのは、背もたれのない小さな椅子――ただの四本脚に、わずかに湾曲した座面を乗せるだけの、名もない木の椅子だった。
注文主は、村の羊飼いの老人・テモだ。
いつも腰を下ろす岩が最近冷たくていけない、とのことで、草原に持っていける“軽くて丈夫な椅子”を求められていた。
イルロは、工具棚から使い慣れたノミを取り出し、音を立てずに仕事を始めた。
手が木に触れた瞬間、霧の冷たさがすっと抜け、世界が静かに整っていく。木目に沿って削ると、繊維がささやくように応える。
何も話さず、何も考えず、ただ木と呼吸を合わせていく。
それがイルロの日常であり、彼にとっての“祈り”のようなものだった。
昼過ぎ、外から小さな声が聞こえた。
「イルロさーん、おひる、持ってきたよ」
声の主はミラ。八歳になるパン屋の娘で、よく母親に頼まれて村中に昼食を届けている。彼女はいつも、籠の中に焼きたてのパンとハーブスープを忍ばせていた。
「ありがとう。冷えてないか?」
「だいじょうぶ! ママが“イルロさんは熱すぎるの苦手でしょ”って、ふた少し開けといた」
イルロは笑ってうなずき、スープの香りを鼻で感じた。ローリエと根菜、少しのバター。しっかりとした香りに、体の芯が緩む。
「それと……ね。パパが、棚の修理もお願いしたいって」
「うん、わかった。明日の午後に見に行こう」
「やった!」とミラは跳ねるように帰っていった。
午後、椅子はほとんど完成していた。
座面の裏に、イルロはいつものように、ほんの小さな刻印を彫る。誰にも読まれないし、誰も気づかない。ただ、彼自身の手が「ここまで見た」と証明するものだった。
夕方、テモが現れた。杖をつきながらも、足取りは意外に軽い。
「出来てるかい、わしの尻のための椅子」
「尻のため」などと陽気に言いながら、テモは椅子に腰を下ろした。木の音がほんの少し鳴る。
「……ほぉ。なるほど。尻に、なじむ」
彼はそう言って笑った。
「名もないが、これはいい椅子だ。草の上で寝落ちしてしまいそうだな」
イルロは黙って、にこりともせずうなずいた。
けれど、その目は少し柔らかかった。
テモは代金として、干した羊のチーズと蜂蜜漬けのナッツを置いていった。金銭でなくても、それは充分な“やりとり”だった。
日が沈む頃、イルロは手を止め、工房の外に出た。
遠くで羊の鈴の音が聞こえる。テモの椅子が、もう草の上にあるのかもしれない。
――名もない椅子が、名もない時間に、誰かの疲れを受け止めている。
それが、イルロの仕事であり、村に生きるということだった。