手紙のない封筒
ある朝、イルロの工房の戸口に、封筒が一通、置かれていた。
誰が持ってきたのか、扉を叩く音も、足音も聞こえなかった。
封筒は古びていた。
角はすこし折れていて、紙の色もやや褪せている。だが、封はきちんと閉じられておらず、中には何も入っていなかった。
宛名も、差出人もない。
ただ、封筒の内側に、うっすらと何かが擦れたような痕跡がある。かすかな文字のにじみ。もしかしたら、一度手紙が入っていて、抜かれたのかもしれない。
イルロは封筒を手にとって、しばらく考えた。
そして、工房の一角――使っていない引き出しの中に、そっとしまった。
その日、工房にはパン職人のレーネが久しぶりに現れた。
体調を崩して以来、長らく姿を見せていなかったが、今日は少しだけ顔色が戻っていた。
「……あの、棚の下に置いていた、小さな木箱。まだありますか?」
イルロはうなずき、棚の奥から古い木箱を取り出した。
パンの材料――香辛料の小瓶をしまっていた箱だった。
「これ……父からもらった箱なんです。壊れても捨てられなくて」
レーネはそう言って箱を抱きしめた。
「中に、昔の手紙が何枚か入ってたんです。でも……病気をしているあいだに、どこかへやってしまったようで」
イルロは黙って聞いていた。
そして、引き出しから、今朝の“手紙のない封筒”を取り出し、見せた。
「これが、工房の前にあった。中身は空っぽだが、何かを抜かれたような痕跡がある」
レーネは息を飲んだ。
手に取ると、ゆっくりと目を閉じた。
「……この紙、見覚えがあります。私が……十代のころ、父に書いた手紙の封筒です。たぶん、中身は……父が自分で、どこかにしまったんでしょうね」
しばらく沈黙が続いたあと、レーネは封筒を丁寧に折り、小箱の中へと戻した。
「中身がなくても、これだけで十分です。……たぶん、父が“残しておきたかったもの”は、手紙じゃなくて、私の声そのものだったのかもしれない」
イルロは、箱の留め具をひとつ、軽く締め直した。
それは「おかえりなさい」という音にも似ていた。
その夜、工房には誰もいなかったが、作業台の片隅に、封筒がもう一枚だけ置かれていた。
今度は、新しい封筒。中には何も入っていない。
けれどイルロは、それを取っておいた。
いつか“誰かの声”が届くかもしれない、その日まで。