夜のまえの木の音
陽がすっかり傾き、空が青と藍のあいだに染まる頃。
セレン村には、独特の静けさが訪れる。
それは“眠る前の支度”のような時間だった。
薪が割られ、窓が閉められ、鳥たちが枝を探して羽音をひそめる。
そして、どこからともなく、木のきしむような音が聞こえてくる。
その音は、イルロの工房でも例外ではなかった。
棚、椅子、床、道具の柄。
日中に使われた木々が、熱を吐き、沈黙の中で少しずつ形を整えるように鳴くのだった。
その夜、イルロは工房に一人、座っていた。
灯りはつけていなかった。窓から差す薄明かりと、静かに流れる空気の音だけ。
昼のうちに仕上げた大きな椅子が、部屋の中心に置かれていた。
依頼主はまだ決まっていない。けれど、なぜか手が自然と動いたのだった。
椅子の背もたれには、ごくわずかに湾曲があり、
肘掛けは手のひらが沈むような深さになっている。
イルロはその前に腰を下ろし、ただ、耳を澄ませた。
――きし、こと。
木の音が、まるで誰かの寝息のように響いていた。
そのとき、外からふいに足音がした。
軽い音。子どもではないが、重くもない。
戸をノックする音はなく、ただ工房の外に影が立ち止まったような気配があった。
イルロは立ち上がらず、静かに声をかけた。
「……入りたければ、どうぞ」
しばらく間があって、扉がほんの少しだけ開いた。
そこに立っていたのは、村の灯台守の息子、カエルだった。
彼は言葉を持つのが苦手で、時折、夜になると村を歩く癖があった。
「……椅子、見にきた」
それだけ言って、カエルは中に入った。
イルロはうなずき、椅子のそばに座るよう示す。
カエルは椅子に腰を下ろした。手のひらで肘掛けを撫で、背に体を預け、しばらく何も言わなかった。
やがて、彼はぽつりと言った。
「……この音、すきだ」
「どの音だ?」
「……なにもしないときに、木が鳴る音」
イルロは、それを聞いて少し目を閉じた。
「それは、“安心している音”だ。木が無理をしていないときにだけ、出る」
カエルはうなずき、椅子を立った。
「……この椅子、誰かがつかう?」
「使うさ。きっと、“何もしたくない人”が座る」
それを聞いたカエルは、小さく笑った。
そして、ふたたび夜の静けさの中へと戻っていった。
扉が閉まったあと、工房の中には、また木の音だけが残った。
けれど、その響きはさっきよりも、少しあたたかかった。
夜のまえの木の音。
それは、誰かが“今日も無事だった”と、そっと語っているような音だった。