壁と窓のあいだ
イルロの工房には、ひとつだけ変わった窓がある。
正面の壁の左寄りに、小さく開いた縦長の明かり取り。木枠に収まり、ガラスは入っていない。風は通るが、外はほとんど見えない。
昔、その窓は「道具の呼吸口」と呼ばれていた。
湿気を逃し、光を取り込むための工夫だったが、いつからか、イルロはそこをひとつの“壁と窓のあいだ”として意識するようになっていた。
ある午後、窓際に立ったイルロは、ふと気づく。
光の入り方が、前日までと少し違っていた。
差し込む線が細くなり、角度も微妙にずれている。
窓の外――そこには隣の空き地に、新しい柵が立てられていた。
誰が立てたのかはわからない。だがその柵は、確かに“視線”を変えた。
その日から、イルロは少しの間、作業台を窓から離した。
光のない机はどこか落ち着かず、音も吸い込まれるように静かだった。
しばらくして、子どもの声が外から聞こえた。
ミラだった。例のパン屋の娘。
「イルロさん! ここに“ちょうどいい風”が吹いてるよ!」
彼女は、工房の裏にまわった風の通り道に、木の風車を並べていた。
どれもイルロの端材から作ったものだった。
「ほら、光がだめなら、風を回せばいいって、ママが言ってたよ!」
ミラは笑って手を振ると、また走って行った。
そのあとに残ったのは、回転する音――小さな、けれど確かな空気の音だった。
イルロはふと、窓の内側に手を伸ばし、わずかに削った。
光の角度に合わせて、木枠の内側を斜めに仕立てる。
すると、午後の光が、少しだけ部屋の奥まで届くようになった。
壁と窓のあいだ。
ほんの数センチの世界に、工夫と希望を詰めることはできる。
数日後、イルロは工房の内壁に小さな棚を設けた。
風の通るその場所に、花瓶ひとつと、ミラの作った風車が置かれた。
窓の外は、まだ柵に遮られている。
けれど、室内には光と音が戻っていた。
世界の形は変わっていく。
それに気づくのが遅くとも、そこから“新しく空間を作る”ことは、まだできる。
その小さな棚のことを、イルロは心の中でこう呼んだ。
――「とどいた光の置き場所」。