針と糸のあいだに
村の西端、なだらかな斜面に建つ小さな家に、ロセという女性が暮らしていた。
年齢はイルロとそう変わらず、日中は家の縁側で静かに針仕事をしていることが多かった。
彼女は、昔は仕立てを生業にしていたという。だが、手を痛めてからは、ひと針ずつ時間をかけるようになった。今では、自分や近所の子どもの服の繕いが精一杯だという。
ある日の午後、イルロが工房の外で木を磨いていると、ロセがやってきた。
手には、ほつれた布袋と、木の枠が割れた枠刺繍台がひとつ。
「枠がずれたままだと、生地が引っ張れなくて……。でも、なかなか手が進まなくてね」
イルロは黙ってそれを受け取り、割れた木片を指先でたどった。
「一度、外して作り直す。幅を少し広げれば、手も無理に動かさなくて済む」
ロセは少し驚いたように見つめたが、何も言わず、深くうなずいた。
修理の合間、イルロは以前にロセが作ったという端布のコースターをふと思い出した。
手の動きが制限されていても、細やかな縫い目と色の合わせ方は、どこか音楽のような調和を持っていた。
三日後。完成した刺繍枠は、ロセの手に戻った。
新しい木は軽く、少しだけ角度が変えられるよう工夫されていた。
「……これは、どうして?」
「布を見る角度が変わるだけで、針の向きが自然になる。俺の手でやってみて、わかった」
ロセは、唇を少しだけ動かしたが、何も言わなかった。
代わりに、膝の上の小さな籠から、布の包みを取り出して差し出した。
中には、手縫いの針山。
木と布とが合わせて作られたもので、真ん中にほんの小さな花の刺繍があった。
「針が抜けなくなったときの、支えになるもの。……あなたの道具箱にひとつ、あるといい」
イルロはそれを受け取り、黙ってうなずいた。
ふたりの会話はそれきりだった。
けれどその日の夕方、ロセの縁側には久しぶりに白い布が広げられていた。
ゆっくりとした針の動き。時間をかけた刺繍の始まりだった。
“針と糸のあいだ”――
そこにある沈黙は、きっと“誰かの手を借りたい”という願いと、
“そっと手を貸す”という思いが、ほどけずに結ばれている場所なのだ。