擦れた戸口
午後の陽が傾きはじめたころ、セレン村の家並みに静かな音が響いていた。
「ぎい……ぎい……」
それは鍛冶屋ハルドの家の戸口が軋む音だった。
戸を押して現れたハルドの妻エリンが、工房を訪れた。
両手を前に合わせ、少し困ったように言う。
「イルロさん、うちの戸が毎日こんなに音を立てて……。子どもが夜中に目を覚ましてしまうの」
イルロは頷き、戸口の蝶番を手でなぞった。
金具が擦り減り、木も乾いて歪んでいる。
「油を差し、金具を削り直せば静かになります」
夕陽が差し込む工房で、イルロは油壺を取り出し、細い管で蝶番に垂らした。
金具がしっとりと光り、削った部分が静かに馴染んでいく。
やがて戸を動かすと――「すうっ」と、音は消えていた。
「まあ……!」
エリンの目が丸くなり、次いで柔らかな笑みが広がった。
「これで夜も静かに眠れます。……ありがとう、イルロさん」
その時、子どもたちが駆けてきて、無邪気に叫んだ。
「戸が歌わなくなった!」
「お母さん、もう怖くないね!」
エリンは笑いながら子を抱き上げた。
イルロは静かに工具を片付けながら思った。
――暮らしを静かにすることもまた、心を守る仕事。
戸の音が消えた家の前には、温かな夕暮れが広がっていた。