旅人の忘れた手紙
春と夏の境目、風が強くなる頃になると、セレン村にもまれに旅人がやって来る。
その日も、一人の男がふらりと村を訪れた。
旅装は薄く、背負った荷は少ない。名は名乗らなかった。
水を一杯飲ませてほしいとだけ言い、宿にも泊まらず、翌朝には村を去っていた。
けれど、彼は一つの手紙を残していた。
それは、村の広場にある古い腰掛けの下、木箱の隅にそっと差し込まれていた。紙は折れ目が多く、表紙には何も書かれていなかった。
見つけたのは、草取りをしていた子どもたちだった。
「なんか、落とし物? 読めないや」
彼らはそれをイルロのもとへ持ってきた。
封もされておらず、宛名もない。
だが、中を開くと、そこには一文だけが記されていた。
>「声をかけなかったのは、声をかけたくなったからです」
それは、手紙というにはあまりに不完全で、あまりに静かだった。
イルロはその紙を見つめ、長いこと何も言わなかった。
けれど、その文章が、自分の工房の木の棚にそっと差してあったら――それだけで、何かが変わる気がした。
誰宛でもない手紙。
けれど、そこには確かに「通り過ぎる誰か」の気配があった。
夕方、彼は手紙を小さな木の額に入れ、広場の腰掛けのそばに戻した。
そして、小さな文字で額の裏にこう記した。
>「この言葉は、通り過ぎた人から、まだここにいる誰かへ」
それを読んだ人が、名を思い出すかもしれない。
あるいは、誰のことも思い出さずにただ立ち止まるかもしれない。
けれどそれでいい、とイルロは思った。
通り過ぎる人の“気配”は、村にとって時折、空気を入れ替える風のようなものだった。
触れずとも、残るものがある。
語らずとも、伝わるものがある。
その夜、イルロは久しぶりに「音の出ない木箱」をひとつ仕上げた。
開けても音が鳴らず、何も入っていない箱。
ただ、手にしたときだけ、少しだけ“何かを思い出すような”重みがある。
それは誰のためでもなく、けれど“どこかを通り過ぎた誰か”のために作られたものだった。