日陰の果樹とことばの実
村の東側、石積みの細道を抜けた先に、ひとつだけ背の低い果樹が植えられていた。
陽の当たりにくいその場所で、枝は斜めに伸び、葉のあいだから小さな実をいくつかつけていた。
それは“うたの木”と呼ばれていた。
名前の由来は誰も知らない。ただ、風の強い日、その葉が擦れ合う音が、まるで誰かの鼻歌のように聞こえるから――と、そう言う人もいた。
その木を世話しているのは、村の長老格にあたる老人・フルモだった。
彼は普段ほとんど話さない。杖をつきながら一日を木のそばで過ごし、夕方になるとゆっくりと家へ帰っていく。
ある日、イルロがその木のそばを通りかかったとき、フルモが珍しくこちらを手招きした。
「この実を入れる、器がほしい」
言葉は短く、ぶっきらぼうだったが、その目は真剣だった。
「落ちた実がね、つぶれてしまう。せっかくだから、やさしく受け止めたい」
イルロは一瞬だけ考えた。
柔らかく、深すぎず、けれど風で転がらない器。果実の重みを逃さず、けれど傷つけない形。
「わかった。三日で届ける」
フルモはうなずき、何も言わず背中を向けた。
その夜、イルロは久しぶりに設計に時間をかけた。
器の底には微かな曲線。転がらぬよう足を少しだけ広げ、内側には果実を支えるための滑らかなくぼみをつけた。
三日後、完成した木の器を持って、イルロはふたたび“うたの木”のもとを訪れた。
フルモはすでにその場にいた。
何も言わず、器を受け取り、そっと木の下に置いた。
その瞬間、風が枝を揺らし、ひとつの実が落ちた。
ぽとり。
器の中に、ちいさな音。傷もなく、果実は丸いままだった。
「……うまくいったな」
フルモがそう言った。イルロは珍しく、それに対して返した。
「木も、器を選んだのかもしれません」
老人は、目を細めた。
「おまえの作るものは、“ことばを覚えてる”。それが好きだ」
イルロは何も答えず、ただその器をもう一度見つめた。
それは、ただの木の器。
けれど、そこには風と木と、ひとつの“預けられた願い”があった。
村の誰かの手で拾われた小さな実が、こうして傷つかずに残る。
それだけのことが、どれほどの意味を持つかを、彼はよく知っていた。
帰り道、枝の音が背中から追いかけてきた。
確かに、誰かが鼻歌をうたっているように。