縫い目の音
朝の光はまだ淡く、セレン村の空気はしっとりと冷えていた。
工房の前を小川のせせらぎが過ぎ、葉の影を揺らすたびに光がちらちらと瞬いている。
その静けさの中、隣家のミレン老人が古い上着を抱えて現れた。
「イルロよ、縫い目がほどけてしまってな。手先が震えて針が持てんのだ」
上着は長年の畑仕事に使われてきたもので、肩口が裂け、糸がほつれていた。
イルロは指で布を確かめ、ゆっくりと頷いた。
「布地はまだ丈夫です。継ぎ目を整えて縫えば、もう一度着られます」
工房に腰を下ろし、針と糸を取り出すと、外からサラの声が届いた。
「イルロさん、縫い物なんてしてるの?」
「少しだけ。道具と同じで、布も支え直せば持つんです」
サラは笑い、持っていた籠を下ろした。
「じゃあ差し入れにパンを置いていくわ。縫い目の音にパンの香りが重なれば、きっとよく仕上がるわね」
イルロは口元を緩め、再び布に目を戻した。
針が布を通るたびに、小さく「しゃり」と音がする。
その規則正しい響きが、静かな工房に溶けていった。
やがて縫い終わった上着を老人に渡すと、彼はそっと袖を通し、深く息をついた。
「まだ着られる……これで畑に立てる」
その声には安堵と誇りが混じっていた。
サラも笑顔を向け、「まだまだ働いてもらわないとね」と冗談めかした。
イルロは何も言わず、縫い目に残った糸の光を見つめた。
――細い糸が布をつなぐように、人の暮らしもまた結ばれている。
朝の陽射しが少し強まり、上着の縫い目をやわらかく照らしていた。