仕立て屋の裏庭
仕立て屋のシェラは、村で唯一の針仕事人だった。
派手な服は作らない。けれど、布の縫い目はいつもまっすぐで、糸の始末にはかすかに香草の香りが残る。古びた生地に新しい裏地を縫い足しながら、彼女は何十年も、黙々と村の衣服を整えてきた。
イルロが工房を出たのは、午後の遅い時間だった。
古い木製のボタン箱が割れて、直してほしいとシェラに頼まれていたのだ。蝶番の錆びついた蓋と、ゆるんだ底面。それでも、中には使い込まれた真鍮のボタンがきれいに並んでいた。
「縫うことと、直すことは違う。私は前者だけ」
そう言って彼女は、静かに箱を差し出した。
イルロは頷き、箱をひとまず背負い袋にしまった。
「裏庭、見ていくかい?」
そう言われて、彼が案内されたのは、シェラの家の裏にある、小さな庭だった。
柵に囲まれ、陽が斜めから差し込んでいる。
風にそよぐのは、染めに使う植物たち。藍、マリーゴールド、スイバ、そしてあまり見かけない細長い葉の草も。
「布の色は、ここで決まるのよ。毎年、同じようで、少し違う」
彼女はしゃがみ込み、地面の小さな花を摘みながら言った。
「私の仕事は、少しずつ“擦り切れていくもの”を抱きしめること。あなたの仕事は、“壊れかけたもの”をつなぎ直すこと。……似てるようで、逆なのよ」
イルロはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「でも、どちらも“まだ使いたい”と思っている人がいる。そこは同じだと思う」
シェラは目を細めた。
「……その通りね。あなた、そういうとこ、変わらないわ」
風が、干されていた薄布をふわりと揺らす。
白でも灰でもない、やわらかな生成色が空に踊った。
帰り際、シェラがひとつだけ布を手渡してきた。小さな端切れ。
触ると、ほんのりとマリーゴールドの香りがする。
「その箱が直ったら、この布を底に敷いてほしい。傷んだところを隠すのではなく、“手をかけた跡”として、目立つようにしておきたいの」
「わかった」
イルロは端切れを懐にしまい、静かに頭を下げた。
夕暮れの道を戻る途中、彼はふと思った。
仕立て屋の仕事も、木工と同じく、「直す」という言葉に収まらない何かを抱えている。
“続いてほしいと願うもの”に触れること。
それこそが、彼らが手を動かす理由なのかもしれない。