風のかたち、木の手ざわり
セレン村は地図には小さくしか載っていない。
大陸の南、谷と丘の合間、薄く霧のたちこめる場所にその村はあった。
そこには塔もなく、港もない。季節の市が年に数回、旅の商人が来る以外、外からの目に触れることも少ない。だが、風がよく通り、木が育ち、人の言葉が遠くまで届く。
この村に暮らすイルロは、道具職人だった。
朝は早く、夜は静かに。木を削り、曲げ、繋ぎ、研ぎ、そしてまた削る。誰の目にもとまらぬような、名もない作業を積み重ねて、村の誰かの日常の一部をつくっていた。
彼の道具には飾りがない。だが、手に持つと、すっと馴染む。
握ったときの感触、重さ、木の節の向き――それらすべてが「人の手」を知っているようだった。
村の人々は、彼を「静かな人」と呼ぶ。
無愛想ではない。だが多くを語らない。
代わりに、彼の手が語るのだった。
子どもたちには、木の積み木を。
農夫には、柄の太い鍬の持ち手を。
老いた夫婦には、すべりの良い木皿と、軽い杓子を。
何も語らず、けれど、そこにはたしかな“対話”があった。
この物語は、そんな村とイルロの、
少しずつ織られていく日々の断片である。
英雄もいない。冒険もない。
けれど、風の通る場所には、確かに心が揺れる。
――すべては、道具と手と、ひとつの静かな木の音から始まる。